愛知空襲を語る会編「紺碧の空が裂けた日」に「あの日、あの時」(206~207ページ)と題して、比較的信頼の置ける資料を用いた報告が寄せられているので、一部を紹介する。写真は右岸下流より見た白鳥橋。 著者は先ず当日の天候に触れている。 ■ 当日午前九時の名古屋地方の気象は、梅雨時には珍しく晴れた上天気で、摂氏ニ十・八度、風速北西一・八メートル、気象台の公式記録によれば、この日の最高気温二六度、最低気温一三・六度、平均風速北西五・五メートル、雲量四~六(晴)日照時間一三・二時間となっており、雲量はその月四番目に少なく、日照時間は最高であった。 上述のデータのうち、午前九時の風向風速は北西八・〇メートルが正しい。翌々日の十一日正午ごろから風向は南風に変わり、十八・一ミリの雨が降り、十二日は三十九・四ミリの豪雨となった。以上の気象データは名古屋市千種区の名古屋地方気象台での観測値である。 次に、「米第ニ十航空軍作戦任務報告書」(注参照)の総論部分を日本語訳した資料「1945・6・9空襲に関する米軍作戦任務報告書」(188~205ページ)をもとにして、当時のB-29の行動を次のように分析した: ■ 1945年6月9日(土)午前零時四十五分(以下全部日本時間)テニアン西基地より五八航空団四十六機が離陸を開始、同一時二分三一三航空団一群二十六機、同二群四十四機が一時十三分それぞれテニアン北基地から離陸した。最後の機が離陸を終ったのは一時五十五分だった。 最初本土に到達したのは尼崎市の川西航空機鳴尾工場を目標とする五八航空団で八時十二分四国の室戸岬付近、そして大阪湾を北北東進して八時半過ぎに先頭の機から爆撃を開始した。この時刻に名古屋の愛知航空機熱田工場を目標とする三一三航空団ニ群は、熊野灘から尾鷲付近に接近中であった。 ここで注意しなければならないのは、川西に投弾を開始した五八航空団は先頭機から最後尾機まで長く伸びた形で航行して爆撃を行ったために、全機投弾終了まで三十分以上かかったことである。彼らは爆撃後計画通りに大坂北部をう回し大坂京都間を東進、琵琶湖の南から続々と南下した。一方三一三航空団の方は尾鷲付近から琵琶湖を目指し、北上を続けている。従って退去中の五八航空団と攻撃に向かう三一三航空団の編隊とが琵琶湖の南端付近から尾鷲付近までの間を、互いにすれ違う形で航行したのだった。 当日、この地方の雲量は八~九であったので、目視では行動を確認することが出来ず、聴取にたよる日本軍の各監視哨を完全に幻惑したと思われる。東海軍管区司令部は、関西方面が八時半頃から空襲されていることを知っているから、琵琶湖南方に居る敵機も全部関西へ向かうものと判断し、空襲警報を解除したことによって、あの悲劇を招いたのである。 (注)1945年7月中旬にアメリカ陸軍戦略航空部隊の編成替えにより第二十一爆撃機軍団は第二十航空軍に改編された。従って、この報告書は正しくは「米第二十一爆撃機軍団作戦任務報告書」でなければならない。 この日は「エンパイアA1」と称してそれぞれ異なった地域にある三つの軍事目標を同時に爆撃する作戦を実行した。作戦任務第191号の目標は川西航空機鳴尾工場、第192号は川崎航空機明石工場そして第193号は愛知航空機熱田工場であった。エンパイア作戦はその後も続行される。 引き続き作戦任務報告書に従い、名古屋を目指す三一三爆撃団(以下、航空団を爆撃団:Bomb Wing、と呼ぶ)ニ群の行動を追って行こう。 北上してきた三一三爆撃団のB-29四十一機は、九時〇分琵琶湖南端の瀬田唐橋上空付近で北東に変針する。続いて、九時六分安土町西の湖上空付近で方位九十二度に変針、直進して爆撃態勢に入る。九時十七分から六分間、縦陣に組んだ中隊がそれぞれ先導機に従って次々と愛知航空機熱田工場に投弾した。あとはそのまま直進し、豊田市堤町付近に達したところで南に旋回し、渥美半島の西端付近から海上に離脱して行った。 この飛行ルートは、目標が風下に来るようにし、名古屋の北部と南部に置かれた高射陣地を出来るだけ回避するように計画された。また飛行高度は、爆撃の精度と高射砲火の限界の観点から、一万八千フイート(五千五百メートル)を最底高度とした。 この作戦に使用された主な爆弾は四千ポンド(AN-M58:一・八トン)爆弾で、三一三爆撃団のニ群は、これを全機に搭載した。この爆弾を選んだ理由は、約七十五パーセントという高い装薬率であり、他の種類の爆弾よりも一トン当り少なくとも二十五パーセント以上の爆薬を充填できるからである。 その起爆装置は即時性弾頭起爆装置および非遅滞性弾尾起爆装置が使用された。この爆弾は爆薬量を増すために弾殻を軽くしたので貫徹性がなく、遅滞性起爆装置では爆発しない。 四千ポンド爆弾は投下後、安全装置が解除されてアーミング状態になり、建造物や地面に触れた瞬間に起爆装置が作動して炸裂し、その強烈な衝撃波と高熱とで周辺を広範囲にわたって破壊し、焼き尽くす。 四十一機が愛知時計電機・本社工場と愛知航空機・熱田発動機製作所(現在、熱田機械工業・熱田工場)に、四千ポンド爆弾百二十一発と二千ポンド爆弾二十三発計二百六十五トンの爆弾を投下した。 愛知時計電機の工場敷地は南北に長く、東側を堀川が流れ、西側を電車道(現在の一五四号線)が南南西に一直線に延びていた。工場は道路に沿って白鳥橋から祐誓寺まで、約九百メートルにわたって広がり、道路をはさんで西側に愛知航空機が斧の頭の形をした敷地にあった。 B-29の編隊はこの道路上空を、西から東へほぼ直角に横切った。搭乗員達はあらかじめ偵察機が撮影した航空写真を、様々な角度から研究したであろう。そして、敷地のほぼ中央にあり、識別しやすい研究館(鉄筋地上四階、地下一階)などを爆撃中心点にしたと思われる。