史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

前章に述べたような終戦を境にして消えて行った飛行場が、他に幾つかある。これを中日新聞社会部「あいちの航空史」(昭和五十三年初刊)や市誌・町誌等を参考にしてまとめてみた。

A.小牧飛行場

昭和十五年五月陸軍航空本部は名古屋市防衛の要害として、大部分が水田で畑が少し、その中に岡山・佛鬼山という標高二十メートルの小山を持つ豊山地区が、

  • 気象条件がよい
  • 平野である
  • 水田の埋め立てに二つの丘陵が利用できる
  • などの理由で、ここに飛行場を建設することに決定していた。その後太平洋戦争が起り、昭和十七年四月十八日に本土空襲を見るに及んで、急に着工の運びとなった。

    集められた地主百余人を前に、陸軍大尉から「長らく陛下の土地を預かってもらったが、今度お国で要るようになったので返してもらいたい」と言い渡され、強制的に立ち退かされた。今日、中国もこれと同様の手口で強引に近代化を進めており、帝国日本と共産中国との思わぬ類似性に驚ろかされる。

    飛行場の用地として七十七万坪が接収または借り入れられ、埋め立て工事のほかに滑走路千五百メートル二本と駐機場、それに東側(現在の自衛隊基地入口南側一帯)には兵舎・格納庫・航空廠分室等を建設、西側(現在豊山町営住宅)にも兵舎を建てた。また、場内には掩体壕二十箇所を設けた。

    昭和十七年五月着工した工事は、滑走路一本は未完成で一応出来上がったので、昭和十九年二月完成式が行われた。同年末になるとB-29の本土攻撃が始まり、この飛行場も空襲を受けた。この飛行場を撮影した米軍の偵察写真に、現在の滑走路の北側に平行してもう一本の未完成の滑走路が認められるという。

    現在は、二千七百四十メートルの滑走路長を有し、航空自衛隊小牧基地と共存する名古屋空港(国内線及び国際線)として、多数の乗降客でにぎわう。数ある愛知の飛行場の中で、戦後を生き抜いたのはこの飛行場だけである。

    B.甚目寺飛行場

    海部郡甚目寺町にある真言宗甚目寺(じもくじ)は、古くから甚目寺観音といわれ、江戸時代から尾張四観音の筆頭として尊崇を集めている。

    昭和十九年三月、その地域の関係地主を前に内務省土木部または憲兵ともいうが何事かしゃべったと思うと万歳が三唱された。それで名鉄津島線甚目寺駅北方に広がる約二百町歩を飛行場として利用することについて、否応なしで一方的宣言で決定されてしまった。

    こうして、翌日から勤労奉仕隊が動員され、後に陸軍野戦飛行場設定隊が加わって、海軍が米軍から手に入れた当時は珍しい土木機械を駆使して早期完成に努めた。その結果、中秋に長さ千五百メートル幅六十メートル厚さ二十センチのコンクリート製滑走路が完成し、小牧飛行場で待機していた飛行第五戦隊の二式複座戦闘機・屠龍四十機が飛来して空の守りについた。

    米軍の「三菱航空機発動機工場、名古屋」爆撃報告書(1945年2月15日)に屠龍(コードネーム:ニック)の戦闘ぶりが記されている。
    屠龍はB-29に十回攻撃をかけてきた。これは全攻撃回数の6パーセントにあたる。目標上空高度27,500フイートで、屠龍二機が並んで正面上空から攻撃してきた。一機は100ヤードまで迫って来たが、B-29の防御砲火に気が狂ったようであった。他の一機はスプリットSで攻撃してきたが、400ヤードで避退した。

    スプリットSとは、敵の前上方から接近し反転して後方に付く空中戦法のこと。

    愛知航空機製作所熱田工場爆撃(1945年6月9日)にも、八十七回の攻撃のうち屠龍によるものが十三回あったと記している。

    昭和二十二年十一月に米極東空軍が撮影した俯瞰写真に、北北西-南南東向きの滑走路が写っている。

    戦後、飛行場の廃止が決まるや逸早く飛行場の払い下げが陳情され、これによって昭和二十二年より四十年度までの十九年間にわたり開拓事業が行われた。二百町歩という大区域が一元的に農地に転換されたため今日、滑走路の面影は全く止めていないが、巨大なコンクリート造りの作戦室跡が残っているという。

    以上、甚目寺町が戦後五十周年事業として編纂された「甚目寺飛行場(正式名:清洲飛行場)」よりの引用を中心にまとめた。

    C. 三菱・大府飛行場

    太平洋戦争当時、愛知での航空機の輸送は、三菱重工業名古屋航空機大江工場で作った機体を、牛車や馬車で深夜に岐阜県の各務原飛行場に運ぶという、非能率で非合理的な方法に頼っていた。これを少しでも早く解消するために、近隣に滑走路つきの組立工場の設置が迫られた。

    三菱は当時の大府町(大府市)と隣接の上野町(東海市)にまたがる丘陵地帯に、およそ五百七十万坪(約十九平方キロ)の土地を取得した。知多丘陵地の山を削り、谷を埋める三十ヶ月にわたる大工事の末、昭和十九年四月に長さ千三百メートルの滑走路に総組立工場と整備工場が付属した三菱航空機知多工場が完成した。ここで生産された航空機はそのころキ67と呼ばれ、陸軍の四式重爆撃機で通称・飛龍と呼ばれた。この飛行機は、爆撃機ながら高性能で運動性に富み、高度六千メートルで最大時速五百五十キロと当時の戦闘機並みのスピードを出し、超低空飛行にも優れていた。そこで海軍の雷撃機や防空戦闘機にも使われるなど、実に多方面にわたり活用された。離陸距離も七百メートルほどで、零戦とならび称される名機である。

    大府飛行場は三菱にとって長年の夢が実ったものであったが、その終末は終戦と共に訪れた。僅か一年四ヶ月で飛行機工場の幕は閉ざされた。何機もの飛龍が大府飛行場に残された。やがて連合軍司令部による破壊命令により、手塩にかけてつくりあげた作業者の手で、部品は大鉈で砕かれ、完成機体はガソリンがかけられて無残にも黒煙を上げて姿を消して行った。

    以上が大府市誌所載関連記事の骨子であり、以下は東海市誌からの抜粋である。
    この大規模な飛行場建設工事は、昭和十九年四月に竣工し各務原飛行場から飛来した九九式爆撃機とMC20型輸送機の二機によって、初の離陸テストが行われた。完成した飛行場は二十万坪の工場と、千メートルの滑走路及び格納庫一棟が備えられ、飛行機の組立が行われた。さらに、昭和十九年十二月より、上野町大字富木島に航空本部の飛行場拡張工事が実施され、近隣集落から多くの勤労奉仕に出た。

    九九式爆撃機は愛知時計製、MC20型輸送機は九七式重爆撃機の輸送機への改造型で三菱製。

    終戦後の様子を、「あいちの航空史」は次のように伝えている。
    その大府に爆音がよみがえったのは二十七年八月十五日だった。航空部を発足させた中日新聞の水陸両用機、リパブリックRC3型シーバー・飛竜とパイパーPA20・白鳩の名古屋入りだった。滑走路とはいっても、かっての大府飛行場の一角をならしただけで、長さも四百二十メートルほどしかなかった。三十三年七月、中日機は小牧へ移り、大府飛行場は姿を消していった。

    最後に、豊田自動織機「四十年史」(昭和四十二年刊行)から引用する:
    昭和十九年、太平洋戦争の頽勢が日増しに明らかになったころ三菱航空機(株)は軍の支援のもとに、大府町長草の地(約十二万坪)に、飛行場の建設を開始した。建設にあたっては知多・愛知・碧海郡などの各種団体、町村奉仕団の人々が多数動員された。しかし、スコップ、モッコ、一輪車などを使用しての造成工事は遅々として進まず、ようやく二十年春には、小型機の発着ができるようになったが、大型機の発着は終戦までにはついに間に合わなかった。
    戦後、この飛行場の一部は農業開拓者の農場に転換されたが、残り六万坪は三菱重工業(株)の所有のまま放置されていた。昭和二十七年二月、当社は大府町のあっせんにより、この地を同社から買い受け農業機械の試験場として、あるいはAPA特需車両の完成車置場として利用してきたが、その後、当社の多角経営ももう一つ延びきれないままに、この地を充分活用することもなく現在に至ったのである。

    この地域は知多半島道路の東側で大府市と東海市とが入り組んでいる。高台にある豊田自動織機長草工場が飛行場跡地の一部と考えられる(写真)。大府飛行場はまるで航空母艦の飛行甲板のようだった、というからそこにあったに違いない。なお、その周辺は丘陵地帯で森、畑地、民家などが点在し、平坦で長い滑走路跡らしきものは見当たらない。

    総組立工場跡に残っていた格納庫は、前述の小牧飛行場に隣接して建設された三菱重工名古屋航空機製作所小牧南工場に昭和二十八年移築され、第一格納庫として今なお健在である。

    D. 中島・半田製作所

    中島飛行機が1942年に半田に進出し、海軍軍用機・天山と彩雲を作る新工場を建設するようになったのは、下記のように飛行機工場建設用地として恵まれた条件を満たしていたからであった。

  • 希望する広さの工業用地が確保できる
  • 冬は北西・夏は南東の風が吹き、風向きが一定していて飛行機の発着に都合がよい
  • 多くの部品を作る協力工場が得やすく、労働力の確保がしやすい
  • 内海に接しており水上機の発着も出来る
  • 建設計画のあらましは、六十八・五万坪の水田・沼沢地を買い上げ埋め立て整備し、更に海面を埋め立てて四十六・五万坪の土地を造成し、合計百十五万坪の用地に、七万七千坪の工場と、二千五百四十メートルの南北滑走路及び東南方向に走る千七百九十メートルの滑走路を持つ飛行場を作るというものであった。ただし、滑走路は千メートル一本が完成しただけであった。

    1943年(昭和十八)一月に発足した中島飛行機半田製作所は、1945年7月までに天山九七七機、彩雲四二七機、合計一、四〇四機を生産した。

    1944年12月7日に発生した東南海地震(マグニチュード8.0)に続くB-29の空襲により、従業員や市民に多くの死者が出たほか、工場も甚大な被害を受けた。

    以上が新修半田市誌(中)の要約である。
    天山は昭和十八年制式採用の三座艦上攻撃機で千二百六十八機を生産した。彩雲も同年制式採用の三座高速艦上偵察機で、誉エンジンを搭載して高度六千百メートルで最高速が毎時六百九キロの高速を出し三百九十八機を生産した。

    米軍の作戦任務報告書290「中島飛行機半田製作所」(1945年7月24日)によれば、B-29七十七機がレーダー照準で五百ポンド汎用爆弾五百三十七・三トンを投下し、工場の四十四・二パーセントを破壊した。

    半田飛行場の滑走路について、「あいちの航空史」に次の記事がある。
    九百二十四メートルあるとはいっても、海岸沿いに防波堤があるのでフルには使えない。天山や彩雲は飛び立たせることは出来るが着陸は出来ない。半田には名パイロットといわれた方が二人おられたが、この滑走路に着陸するには練習機の“赤とんぼ”を使う以外、方法はなかった。
    終戦とともに軍需工廠は解散、中島は富士産業となり、その半田工場となった。米軍が進駐してきて天山が着陸できなかった短い滑走路に大きな飛行機を着陸させて半田の人たちを驚かせた。
    天山や彩雲が飛び立った滑走路も道路になった。いま残る面影はあの防空壕だけである。

    半田市役所に立ち寄り、滑走路があった地域の二千五百分の一地図(半田市都市計画基本図No.17)を三百円で入手し、細かい説明を受けた。その中央(中午町)にマッチ棒の形状をした土地がある。これこそ探していた滑走路跡地であり地図上で計測すると概略値で、頭部の直径百四十メートル、軸の幅七十五メートル、全長八百九十メートル、軸の方位144度であった。

    次に現地に赴くと、頭部の東側、西側共に円形の側溝が今も農業用水路として使用されていた。西側の側溝に接して内側に、当時のものらしい小石まじりのコンクリート舗装が一部残存している(写真)。この円形部は現在では住宅、農家、工場が建っているが当時は全面舗装され、飛行機が離着陸時の方向変換に使用されたのであろう。

    軸の部分の東側は、両側二車線のアスフアルト舗装の道路が一直線に伸びている。西側は狭い農道である。この二つの道路と、その間が当時の滑走路であったと思われる。今は土盛りされ、そこにバラックの作業場がある程度で恒久的な建築物はない。滑走路の先端は、当時は海に突出していたであろうが現在は防潮堤が横切り、その上を道路が走り、更にその向こうに干拓された工場用地が広がっている。

    道路などに利用されて来たにしても、滑走路の外形が五十余年もの間、ほとんど変更されることなく今に保存されて来たのは奇跡としか言いようがない。市役所の説明によると、この地域の境界が昔のままになっているのは市街化調整区域に指定されているからであろうとのこと。史跡として現状を変更することなく完全保存を要望する。

    当時の半田製作所の正門(上浜町)も、今は輸送機工業株式会社の近代的な出入口になっている。

    E. 桝塚飛行場

    昭和十九年以降、海軍は航空機の搭乗員を養成するため大量の予科練習生を採用した。その教育訓練の場として、岡崎市・豊田市・安城市の三市が互いに接する地域が選ばれ、三つの航空隊が設置された。

    第一岡崎航空隊(第一岡空)は安城市尾崎、橋目、柿崎、宇頭茶屋に土地を収用して開設された。ここに約六千人の志願者が入隊し、予科錬基礎教育と航空機整備教育各三ヶ月の教育を受けた後、実戦基地へ巣立って行った。
    第二岡崎航空隊(第二岡空)は豊田市上郷に開設され、ここにも約六千人の志願者が入隊した。
    第三岡崎航空隊(第三岡空)は予科錬生(十三期)の飛行練成をする練習航空隊であった。

    飛行場は、県道56号線と三菱自工岡崎工場との間の辺りにあったらしく、九三式中錬・赤トンボ、艦上偵察機・彩雲、艦上攻撃機・天山などが配備されていた。これらの飛行機も特攻として出撃するため、予科練生と共に九州方面に移動して行った。

    豊田市桝塚東町の柳川瀬公園に内閣総理大臣・田中角栄書「若桜の碑」が建っている。

    建立之記
    昭和五年、早期英才教育を目的に海軍飛行予科錬制度が採用された。
    昭和十九年、従来の予科錬教育を改革して航空機整備技術を修得させ、のちに飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった。
    同年五月、土浦海軍航空隊分遣隊として、安城、岡崎、豊田市が交差する地点に第一、第二岡崎海軍航空隊が新設され、全国各地より厳選された一万二千余名の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六ヵ月の短縮予科錬過程を終了して内外地の実施部隊に配属されていった。
    名古屋岡崎分遣隊は、第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀なる飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。 太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科錬、飛錬で尊い生命を散華した数は意外に多い。その閃光にも似た十四歳より十九歳に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意を伝えるものである。
    昭和四十九年十一月三日
    岡空若桜会

    この碑は矢作川畔の柳川瀬公園西側を流れる渡刈川左岸に沿う柳川瀬緑道付近にある。

    安城市尾崎町の熊野神社入口右側に「予科錬之碑」が建っている(写真)。
    此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり。 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり。 生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦。
    爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた「予科錬の碑」を建立するものである。
    昭和四十九年五月十五日
    元第一岡崎海軍航空隊
    若桜会

    熊野神社の北側に廻ってみると、一面の麦畑や水田が広がっている。ここが第一岡空跡地で戦後、開拓事業によって元の農地に産まれ替わった。

    F. 明治航空基地

    海軍が碧海郡明治村(安城市)に搭乗員の養成用として飛行場建設を始めたのは昭和十八年(1943)四月からであった。矢作川の右岸、穀倉地帯の中でも豊かな土地として知られたところだったが、地主たちは前の年に海軍省から「軍は是非もない必要に迫られているから、土地を売り渡してもらいたい」との要請を受け、渋々承知させられていた。広さは、東端、根崎、和泉の三つの集落にまたがる百九十八万平方メートルで、里の人たちも交代で飛行場造りに精を出した。

    昭和十九年初頭には、飛行場が姿を見せ始めた。滑走路は、北西に向け扇の骨を開いたように四本、これに交差するように放射状に西に向け二本が作られた。その長さは二本が千四百メートル、他が千二百メートルで幅は二十五メートルであった。

    安城市街から安城碧南線(県道45号)を南西方向に進み、国道23号線の下を過ぎ和泉町西交差点を渡って少し行ったところから旧基地敷地に入る。田畑と住宅、工場の入り混じった地域を過ぎ、工場が尽きたあたりから前面に広大な麦畑が広がる。この地域に海軍が東洋一と自負した滑走路があった。県道はその中央を縦断し、再び住宅地が集まる南端町交差点に至る。その西方にある村社の隣にある公園の隅に下記の碑がある。

    明治航空基地之碑
    太平洋戦争たけなわの1943年4月、横須賀海軍施設部の監理の下、当時の愛知県碧海郡明治村大字東端、根崎、和泉の三集落に挟まれた約二百ヘクタールの農地に、海軍の軍用飛行場の建設が始められた。そして翌年三月下旬から終戦(1945年8月15日)に至るまで、建設工事と平行して海軍航空隊が航空基地として使用した。その間、配属航空隊は、訓練部隊として練習航空隊の教育を終えた搭乗員に対し、当時の各種新鋭機(零戦、紫電、月光、彗星、天山、彩雲等)の使用に完熟させるための練成訓練を行うとともに、一九四四年十二月から翌年四月にかけては、作戦部隊として主に名古屋地区に来襲した米陸軍長距離戦略爆撃機B-29の要撃や、米軍沖縄攻略部隊の撃滅作戦(沖縄特攻作戦)に参加した。 また、1945年1月13日早朝、この地区を襲った三河地震(東端の被害、住宅全壊七十七、同半壊百二十一、死者二十四、重傷五、軽傷三十六、等)の際は、近隣町村被害者の救出・救援並びに災害の復旧に当った。
    大東亜戦争終結五十周年を記念し、改めて世界恒久の平和を祈念するとともに、その歴史的事実を後世に伝えるため、この碑を建てる。
    1996年3月
    東端町内会
    明治航空基地配備航空隊名
     1944年5月~7月 第三四五海軍航空隊明治派遣隊
       同 7月~9月 第三四一海軍航空隊明治派遣隊
       同 9月~終戦 第二〇一海軍航空隊

     1945年6月~終戦 東海海軍航空隊

    例えば、前掲の「三菱航空機発動機工場、名古屋」爆撃(1945年2月15日)では、飛燕(攻撃回数:43)、月光(31)、零戦(30)、鐘馗(28)、隼(11)、屠龍(10)、機種不明単発(4)、機種不明双発(4)、雷電(3)が出撃しており、この中にこの海軍基地から発進した飛行機も含まれていたことであろう。

    彗星は三号三番爆弾を搭載した。この爆弾は敵編隊の上空より投下し、編隊付近で爆発させ飛散する弾子により敵機に損傷を与える目的の三十キロ爆弾である。この日も、あるB-29は、「機種不明単発航空機が1個の燐爆弾を投下したが、結果は確認できなかった」と報告している。三号三番爆弾はこの燐爆弾だったのだろうか。

    昭和二十年五月の編成替えで二一〇空は飛行訓練を再開し、要撃戦に参加しなかったため、基地周辺の住民から「明治基地の飛行機は敵機が来ると掩体壕に隠れ、敵機がいなくなると飛び上がる。一体何のための航空隊だ」などと陰口をたたかれたこともあったという。

    終戦時、飛行可能航空機は零戦四十五機を含め四十九機が残ったが、十一月進駐軍が来て滑走路で焼却処分され、滑走路も爆破された。跡地は地元に引き渡され組合を組織して開拓にとりかかり、昭和三十一年四月までに登記その他一切の開拓事業を完了した。

    畑仕事のおばさんに尋ねて、前記村社と公園の間の道を北へ三百メートルほど戻ると、右側の空き地に土管の親分のような巨大なパイプが土をかぶって横たわっているのが見える。部隊の武器弾薬の収納庫だったらしく、内部は幅・高さとも約二メートルのドーム形をしており、厚いコンクリート製で、長さ約十メートルの最奥の天井に通気孔が開いている。

    G. 河和水上機基地

    太平洋戦争直前の昭和十六年、海軍航空隊強化のため追浜(横須賀)海軍航空隊知多分遣隊を組織し、美浜町古布、矢梨、浦戸の耕地・宅地等約百八十町歩を買い上げて水上機基地を建設することになった。

    昭和十八年には、ここに整備員の養成を目的とする河和第1航空隊が、翌年四月には水上機搭乗員の養成を目的とする河和第2航空隊が設置された。

    河和漁港の右隣に、防波堤の下から幅約五十メートルのスリップが緩く傾斜して水面に伸びている。防波堤は戦後、特に昭和三十四年の伊勢湾台風以後に築堤されたものであろう。スリップの両側は石積みされ、表面は碁盤の目に仕切ってコンクリートが打ってある。防波堤が南に折れて真直ぐに続く途中にも幅約百八十メートルと八十メートルの二つのスリップが残存している。こちらは波浪をまともに受けるからか、石積みが崩れたり、砂が溜ったり、コンクリートが剥がれたりして特に破損が著しい。自然の為すがまま放置しておくと、やがて原型を留めぬまでに崩壊が進むであろう。

    水上機用のスリップは庄内川河口(4.名古屋飛行場参照)や、霞ヶ浦畔の防衛庁技術研究本部土浦試験場内(茨城県土浦市)に現存するが、規模の点では河和が最大ではないかと思われる。

    この海岸から南方山の手の見晴らしの良いところが、航空隊本部があった所である。今は公民館になっており、近くに航空隊の碑が建っていないか尋ねてみたが、心当たりはないとのことであった

    。 この航空隊には、零式水上観測機、九五式水上偵察機、水上戦闘機・強風など、およそ九十機が配備された。昭和十九年末からは特攻訓練が行われ、二十年五月には一期生が特攻隊として出撃し、一部は帰らぬ人となった。

    戦後、飛行隊用地百八十ヘクタールのうち、百五十五ヘクタールを戦後の国策に従い開拓地として再開発し、他は学校及び工場用地にあてられた。

    H. 豊橋海軍航空基地

    海軍は豊橋市大崎町の東側の三河湾に海上航空基地を建設することとした。 ここを選んだ理由は次のとおり:

  • 冬季北西季節風が強く着陸に好条件
  • 三河湾を取り巻く山々が低く、飛行機の離着陸に都合がよい
  • 飛行機関連機材の海上輸送が利く
  • 愛知は航空機工業が発達しているので、不足部品の調達に便利
  • 大津島・次島・平島にわたる一帯、総面積約七十万坪の海面を埋め立て造成し、五年有余の年月と多額の費用と労力を費やして完成した豊橋海軍航空基地は昭和十八年四月に開隊の運びとなった。

    その敷地の基本形は正八角形とユニークで、そこに長さ千五百メートル・幅百メートルの主滑走路三本が対称的に建設され、その間に長さ千メートルと八百メートルの副滑走路も追加された。この島の東北部分に張り出しを設けて管理・居住地区とした。まさに日本海軍が東洋に誇る最新鋭の航空基地であった。ここと真東の大崎町との間は、海軍橋と呼ばれる長さ約六百メートルの橋で結ばれた。海上飛行場としては長崎空港に先んじて、我が国最初に建設されたことは特筆されよう。

    ここに最初にやってきたのは台南航空隊として太平洋戦争緒戦に大活躍した零戦二五一空であった。その後、対潜哨戒、B-29迎撃、夜間飛行と戦技訓練そして特攻と変遷を重ねつつ終戦を迎え、僅か二年四ヶ月の短い生命を終わる。

    戦後、この島で製塩業を営んだり、滑走路の間に田畑を耕したりしたが、工場団地として新たに大々的な造成が行われ、特徴ある島の形状は消え滑走路も取り除かれて、基地の面影はことごとく消滅した。

    豊鉄バスを終点の大崎で降り、大崎小学校北交差点から真西に延びる道路を行くと、平嶋橋 (写真左)を渡る。ここで人工島・大崎島に入り、地名は明海町となる。最初の信号交差点「海軍橋」(写真右)は、私が目にした唯一の過去の痕跡である。 近藤正典著「大崎島」(昭和五十二年刊)に、基地建設の無事を祈念して平島神社を建立したとあるが、遂に見出せなかった。

    この道路の突き当たりがトピー工業の工場正門(写真下)で、ここまで海軍橋が来ていたと見られる。ここから南下し、中央分離帯のある道路を西の海岸端まで歩いてみたが、両側は大きな工場の敷地が続くばかりで無味乾燥、この島の前身を思い起こさせるものは何もない。更にその沖に巨大な人工島があり、この海上一帯に造成された工業団地の規模の雄大さに驚かされる。地方行政と企業はこの島の過去に何等注意を払うことなく、ひたすら高度成長の道を進んで行ったのであろう。

    2008年8月、この記事をご覧になった方から以下のような感想が寄せられた:

    豊橋の海軍航空基地(大崎島)に一番近くで生まれ、育った者です。昔の記憶が蘇り懐かしい思いです。現在は横浜に在住ですが、18歳まで大崎で生活し現在も母、兄は大崎で生活しています。戦後の飛行場跡で爆弾の投下跡穴で遊んだり製塩を手伝ったり、滑走路跡を開墾して田んぼを作ったりした事を覚えています。夏は魚取り、アサリ取り、冬は黒ノリ取り等で生活していました。 跡地をどうするかと言う事で村中が大騒ぎになって揉め、結果的には平和と働く場所確保で多数決によって、埋め立てを行い現在の工業団地になりました。私が大崎に居たのは埋め立ての始まる寸前まででその後、海が埋め立てられ、里帰りする機会は徐々に減りました。

    2011年8月、大塚久人氏よりいただいたメールの全文を掲げます。

    突然のメールにて失礼いたします。
    愛知の飛行場の豊橋海軍航空基地を拝見させていただきました。 この大崎町に生まれ、今も住んでいる者です。 わざわざ訪ねていただいて調べている方が、いるとは知りませんでした。 私どもの手元にある昭和21年の航空写真です、参考にしてください。 (アメリカ軍撮影で、町内の長老から教えてもらったものです)

    画像の説明です。
     ①平嶋橋 (写真上)で現在は、海軍橋と呼ばれています。
       (トピー工業入り口まで約1kmで、残りは埋め立て堤防でした)
     ②すでに埋め立てられていて、海軍橋と同じ位でした。
       南側にかすかに見える丸い影は、爆弾のクレータです。
       飛行場ですのでアメリカ軍の爆撃は、爆弾だったそうです。
     ③最長の橋でしたが、埋め立てられています(100m位だったと思います)。
     (しばらくの間は、埋め立て地の中に跨線橋の様に残っていました)
       この島の東北部分に張り出しを設けて管理・居住地区とした。
       この区域に昭和33年頃に東都製鋼(現)トピー工業が、進出しました。

    以上、参考にしていただければと思いメールさせていただきました。

    飛行場リスト(掲載順)
    名  称 所在地 使 用 者 現 状

    名古屋飛行場

    名古屋市港区

    愛知時計電機

    道路・埠頭

    伊保原飛行場

    豊田市

    愛知時計電機・海軍

    道路・浄水場

    小牧飛行場

    豊山町

    陸軍

    空港・空自基地

    甚目寺飛行場

    甚目寺町

    陸軍

    農地

    大府飛行場

    大府市

    三菱航空機

    工場

    半田飛行場

    半田市

    中島航空機

    道路・宅地

    桝塚飛行場

    豊田市

    海軍

    農地・宅地

    明治航空基地

    安城市

    海軍

    農地

    河和水上機基地

    美浜町

    海軍

    農地・宅地・漁港

    豊橋海軍航空基地

    豊橋市

    海軍

    工業団地