史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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正月三ケ日はとうに過ぎているけれど、お稲荷さんの参道は高齢の男女の参拝客で賑わっていた。本殿にお参りすると、手を合わせる人、柏手を打つ人とさまざまである。

豊川いなり略縁起によれば、
豊川稲荷として世上に知られる当山は、豊川閣妙厳寺と称し、曹洞宗の名刹といわれ、嘉吉元年(1441)東海義易禅師の御開創で、御本尊に千手観音菩薩を安置し、又境内に鎮守として、法祖が御感見自作の善神、豊川托枳尼真天(だきにしんてん)を祭る。広く豊川稲荷と呼ばれるのはこの善神のことである。 凡そ七百余年昔の文永元年、禅師が入宋求法、同四年帰朝御乗船の際、海上に妙相端麗、稲穂を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨る御姿の霊神現じて御神示あり。禅師は深く感動され、帰朝後、示現の御姿を手ずから刻み守護神として祭られた。これより代々相伝せられ、妙厳寺開創とともに鎮守として祭られる。爾来幾多の霊験を現じ、福徳の神、抜苦与楽の神として広く崇仰され今日に至っている。

本殿には善神・豊川托枳尼真天が祭られているので、礼拝は二礼二拍一礼が正しい。本殿の様式は善光寺さんと同じ仏式で妻入二重屋根だから、ここに神様が在しますとは露知らない。だが、本殿の正面参道に立つ立派な石造りの鳥居が神の存在を宣言している。一方、千手観音菩薩像は同じ境内の法堂(はっとう)に安置されている。

明治初頭の神仏分離の嵐が吹き荒れるまでは、神と仏とがどんな姿で共存して来られたのだろうか。安井四郎著「実録豊川いなり物語」(東京経済)によれば、当時の状況は次のとおり。
明治時代になって、維新政府は神仏分離令を出し、妙厳寺もその渦の中に巻き込まれた。その当時は、朱塗りの鳥居が立ち並び、末社になると祭りの日には豊川稲荷大明神の幟(のぼり)も立てられていた。
政府は、神仏混交だと決めつけ、抑圧にかかった。その時の方丈、禅海霊龍和尚と共に黙童禅師は、廃仏毀釈に反対し、意思を貫き通した。そして政府に対し、托枳尼天の由来を説き、豊川稲荷大明神の名称を本来の姿、仏教の托枳尼天とし、正式の名称を豊川閣妙厳寺、豊川托枳尼天で統一し、政府を納得させ妙厳寺の危機を救った。これが現在に至っている。しかし豊川いなりの名はあまりにも有名であったため全国的に「おいなりさん」の名で親しまれており、観光を兼ねた参拝者が多いが、その由緒も彫刻建築美もあまり知られていない。

善神・托枳尼天は、明治新政府から仏であると認定された。しかし、前述の豊川いなり略縁起は神だとしている。こうして、神か仏か謎は更に深まって行く。

供養塔
お稲荷さんの参拝を終って、裏口から西北側に抜けると参拝客用の駐車場があり、その一隅に供養塔が建ち、碑には次の文が刻まれている。
供養塔の由来
昭和二十年八月七日午前十時三十分突然米軍機B29の大編隊が豊川海軍工廠に来襲数千の爆弾 焼夷弾 無数の機銃弾を投下され廠内は一瞬修羅の巷と化し阿鼻叫喚のうちに職員 従業員 学徒 女子挺身隊員 雇員 傭人等の尊い命二千人余を奪ってしまった其の惨状目を被はしめ混乱の状筆舌の及ぶところではなかった。
同年終戦和平となるや豊川海軍工廠報国団が中心となり現地に供養塔を建立して挺身国難に殉じた英霊二千余柱の冥福を祈らんとの議が起り全国の資金と団員の汗の奉仕とにより十月二十五日地鎮祭を行い翌二十一年九月二十三日竣工除幕式を挙行した。 因に塔中には戦死者名簿と廠内縁の土を納め各工場の石定盤に戦死者氏名を刻し台座周囲に組み以って永久に冥福を祈らんとした。
偶々昭和三十二年八月七日此の地に於て英霊十三回忌法要厳修の際生存者一同相諮り供養等の概要を記し後世に伝えんとて此の碑を定立す。
右記す
昭和三十二年八月七日
元豊川工廠従業員生存者一同
八七会


冷厳な事実を知らされ、身の引き締まる思いがする。

南へ下り、中央通を一路西へ辿る。佐奈川を渡り、なおも進むと右に豊川市役所がある。その北側の広大な区域が豊川海軍工廠の跡地で、現在は陸上自衛隊豊川駐屯地、日本車両、トピー工業、新東工業などの敷地となっている。

市役所の左隣に真新しい豊川市中央図書館があり、そこの市教育委員会市史編さん室を訪れ、豊川空襲の詳細を聞かせていただいた。また図書館には空襲関係の資料が充実しており、豊川空襲の大要を容易に知ることができた。

平和の像
図書館を出て、さらに西へ行くと立派な体育館の前に出る。このあたりに工廠の正門があり、退避しようとする人々の頭上に五百ポンド爆弾が降り注ぎ、多くの犠牲者を出した。

広い道路の右に平和の像が立ち、碑に由来が刻んである:
平和の像由来記
豊川海軍工廠は、東アジアに戦雲がたれこめた昭和十四年十二月、重火器、弾薬を製造する目的をもって開設された。第二次世界大戦勃発とともに規模を光学兵器等の製造にまで拡大し、徴用工員、女子挺身隊員、学徒報国隊員を各地から動員して総員五万五千人を数えたが、昭和二十年八月七日午前十時三十分、アメリカ空軍の爆撃により一瞬にして尊い二千四百七十七名の人命を失い、広大を誇った工場も壊滅した。終戦を迎えるや戦時中全従業員をもって組織した報国会が奉仕して、妙厳寺境内に大供養塔を建立し、台座に戦死者芳名を刻して冥福を祈った。
昭和三十二年八月七日、殉国者の十三回忌を迎えるにあたり元従業員をもって八七会を結成し、英霊の慰霊会員相互の親睦につとめ、毎年八月七日には盛大な慰霊祭を執り行い今日に至っている。この間昭和三十七年には、金沢市卯辰山山頂に豊川海軍工廠女子挺身体殉国者乙女の像が建立され、同年八月十八日八七会員が金沢市を訪れて地下に眠る女子挺身隊員の慰霊祭を執り行った。これを契機に被爆地豊川市に平和の像建立の委員会を結成し目的達成に努力した。
これが募金にあたっては、豊川市を中心に全国各地から一千三百万円の浄財を集めることができた。
像の製作は、金沢美術工芸大学教授彫刻家姫幸成氏の力作を高岡市堺佐芸社に委嘱し、昭和四十年八月一日完成をまって陸上自衛隊豊川駐屯部隊の協力を得て輸送隊を編成し、北陸道、東海道をパレードして沿道の県庁、市役所に立寄り、八月三日現地に安着した。 途上豊川海軍工廠において戦死した従業員の遺族が涙とともに礼拝する場面が各地に展開され、平和の像建立の意義がいかに大であるかを知ることができた。 かくして昭和四十年八月七日、数千の参会者を得て盛大な除幕式を挙行した。 ちなみに八七会の名称は、豊川海軍工廠壊滅の日八月七日を意味したものである。記念すべき像の建立にあたり、この碑を建てる。
昭和四十年八月七日
八七会


卯辰山(百四十一メートル)は金沢市兼六園の東北約一・六キロにある。

平和の像が建つ豊川公園をとりまく桜のトンネルは、豊川海軍工廠が開設された昭和十六年に植樹されたもので、樹齢五十年を過ぎた今も樹勢は衰えず、美しい花々を咲かせている。東海一の規模を誇り、市内はもちろん近隣からも多くの観光客が訪れるお花見のメッカになっている。毎年四月一日~十五日は、桜トンネルと佐奈川沿いを会場に桜まつりが催される。