史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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広島に原爆が投下された翌日の八月七日、豊川海軍工廠への空襲は午前十時十三分から三十九分までのわずか二十六分間で終わり、工場はほぼ壊滅し二千四百十七人にのぼる死者を出した。
ここに徴用されていた年少の学生で死亡した人は四百四十七人、その中には国民学校七校の児童五十五人も含まれていた。

マリアナ諸島の各基地を発進した第五八、七三、三一三、三一四爆撃団百二十五機は、潮岬東方洋上で集合して編隊を組み、熊野灘から紀伊半島東南沿岸に沿い、知多半島方面に向かった。
松阪のすぐ東で伊勢湾に突出した陸地(南藤原・祓川河口:飛行遷移点)上空で、硫黄島を飛び立ったP51戦闘機四十五機と会合し、その護衛を受けて経路を東北東に変えた。更に、師崎に近い知多半島先端(進入点)で豊川に向け爆撃態勢に入った。

B29は十機ほどの編隊が十二のグループに分かれ、それらが長い縦隊となり、方位六十八度で御前崎先端、国鉄御油(現愛知御津)駅上空を経て次々と豊川に殺到した。工廠を防御する御津(みと)町・大恩寺山と豊橋市石巻本町・権現山の高角砲陣地等が対空射撃したが、日本側戦闘機の反撃はなかった。

当日、目標空域は視界良好、風向百度・風速十五ノットであった。目標とされた豊川海軍工廠に西南西側から高度約四千九百~七千二百メートルで飛来し、五百ポンド爆弾(M64:二百二十六キロ)を八百十三トン(約三千六百発)投下し、東に去った。その間にもおびただしい機銃掃射の雨が絶え間なく、続いたという。爆撃後、浜松周辺の高射砲を避けるため天竜二俣上空まで飛行し、南下して行った。

工廠上空に、最初に三一四爆撃団三十三機(12-9-12)が飛来した。第一編隊十二機が投弾したのは十時十三分、遅れた第二編隊以下が投弾を始めたのはその七分後なので、かなり時間差があった。ビルに数個の直撃弾と、このビルから約千フイート以内にある複数のビルに直撃したりニアミスしたりした爆弾があり、爆撃精度は高く、煙と塵埃が急速に目標地域に立ち込めた。

続いてやって来た第五八爆撃団三十機(10-11-9)の第一編隊は十時二十三分、爆撃中心点の周りに一斉に投弾した。その直後、目標全体が煙にさえぎられ第二及び第三編隊は推測により投弾せざるを得なかった。

次に、第七三爆撃団と第三一三爆撃団がほぼ同時に到着し、十時二十六分から投弾を開始した。第七三爆撃団(10-9-10)が投下した爆弾の大部分は目標区域内に命中し、巨大な雲の柱が東側以外のすべての目標をさえぎった。

第三一三爆撃団(11-11-11)は長々と連なって十三分かけて投弾した。目標は煙に完全に隠れてしまったが、目標上に立ち昇った煙の柱は弾着位置が正しかったことを裏付けている、と報告した。

護衛戦闘機団は、先導爆撃機団を目標上空及びその十マイル先まで護衛した。次に、出発点に戻りB-29の第二波を護衛した。最初の行程の後、何機かのB-29は西に戻り東に向け二回目の攻撃をした。最後の航空機が目標上を去るまで護衛を続けた後、基地へ何事もなく帰投した。

第五八爆撃団の一機が二俣に爆弾三・五トンを十時三十二分に投弾した。豊川に投弾後、三十八キロ東方の二俣上空まで飛行して南方に旋回したが、このB-29は残余の爆弾をここで処分した。

五百ポンド爆弾には、百分の一秒延時弾頭起爆装置と非遅滞性弾尾起爆装置が装着された。前者は屋根下六~十フイートでの爆発が期待でき、それにより建物の構造だけでなく、内容物をも破壊する。後者は建物から外れた場合、地表上で爆発させその爆風で建物に被害を与える。
工廠の南部には幅の短いのこぎり屋根の工場があり、破壊するには直撃が必要である。また、北部には土堤で保護された火薬庫が散在しており、土堤内部に着弾させないと火薬庫を破壊できない。多数の爆弾を区域内に集中し、直撃弾を得るため、五百ポンド爆弾が選ばれた。

豊川上空をB-29が百二十五機と護衛戦闘機P-51が45機通過したが、B-29は0.5インチ口径機関砲を試験発射以外使用せず、P-51は同じ機関砲の弾薬を全機で僅か800発しか消費していない。とすると、前述の「おびただしい機銃掃射の雨」は何だったのだろうか。

第二十航空軍司令部の計画は、第一目標の豊川海軍工廠が雲に覆われて目視爆撃が出来なかった場合、そこから東に百三十五マイル隔たった横須賀の航空機工場と研究センター攻撃を予定していた。その護衛として別にP-51の戦闘機団五十二機が伊豆大島北西上空で待機したが、予定時間までに爆撃機は現れなかったので、東京湾周辺の送電設備、変電所、鉄道施設などを機銃掃射して引き揚げた。

工廠内には夫々の防空壕があった。総員退避令が下された時間は明確でないが、爆撃直前とされる。最初の爆弾は正門近くの第十二女子寄宿舎を襲い、北陸三県から動員された大勢の女子挺身隊員の命を奪った。次々と落下する爆弾により工廠の至る所で火の手が上がり、B29が去った後も火薬に引火して各所で爆発が起った。まばゆい太陽が爆煙によっていつまでも赤黒く覆われていたという。廠内に高密度にばら撒かれた爆弾により、多数の死者を出す結果となった。
終戦の僅か八日前の悲惨な出来事であった。

敵機が進入点(知多半島先端)を過ぎ豊川に狙いを定めたことが明らかになってからも、投弾までなお五分以上の時間的余裕があった。御津町大恩寺山海軍高角砲陣地は、来襲に備えて満を持していた。遅くともこの間に総員退避令を出し、小都会並みの六万人近い人員を確実に防空壕に避難させる、あるいは構外に誘導しておれば、と悔やまれる。二ヶ月前の熱田空襲の苦い教訓は全く活かされなかった。

米国側からすれば、投下爆弾の全弾が命中した豊川海軍工廠爆撃と、愛知時計・愛知航空機爆撃とは、最小の機数と弾薬で最大の効果をあげた作戦であったが、ともに日本側の対応の遅れが敵に手を貸す結果になった。

ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議は、長崎に原爆が投下された当日の八月九日午後十一時三十分から始まり、翌十日午前二時天皇の裁可により受諾と決まった。まさに遅きに失した決定でありその間、多数の非戦闘員が犠牲になった。 太平洋戦争開戦布告の米側への通告が日本大使館の怠慢で遅れたり、決死の哨戒艇が発したドウリットル空襲の警報を受けていながら即座の対応を怠ったり、次々と顕在化する「後手々体質」は最後まで改まらなかった。

最後の空襲は八月十四・十五日の爆撃で、七尾、下関海峡(西)、宮津、浜田に機雷を投下した。そのB-29が基地に帰還する前にトルーマン大統領は日本の無条件降伏を発表した。前年の十月から始まったB-29による空襲は終戦までに三百三十一回を数えた。その他、単機による偵察・爆撃行動は無数といってよい。

広島に原爆が投下された翌日の八月七日、豊川海軍工廠への空襲は午前十時十三分から三十九分までのわずか二十六分間で終わり、工場はほぼ壊滅し二千四百十七人にのぼる死者を出した。
ここに徴用されていた年少の学生で死亡した人は四百四十七人、その中には国民学校七校の児童五十五人も含まれていた。

写真:現在の豊川海軍工廠跡地。炎天下、陸自第10特科連隊員が155ミリりゅう弾砲の展開・撤収訓練中。