史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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豊川海軍工廠は、昭和十四年十二月十五日に開所し、日本海軍の兵器・機銃・弾薬等その70%を生産していた。総面積は付帯施設を含め、約三百三十万平方メートル、人員総数は五万六千六百人に達し、うち動員学徒は六千人であった。終戦を迎え十月六日に解散式が行われた。

工廠というと官営の非能率な工場を連想するが、豊川海軍工廠は戦時中、指導を受けて能率向上に励んだという。(注参照)

旧海軍は工廠の生産管理に、品質管理の基礎であるPDCA (Plan-Do-Check-Action) を取り入れていた。
これはデミング・サイクルの進化した形で、日本には戦後導入されたが、海軍では 「計画と事前の打ち合わせ、実施、研究会」と言う海軍サイクルがあり、作戦・教育を含め広い分野で応用されていた。

また海軍は生産の改善、品質向上にも大変熱心であった。第二次世界大戦も半ばになると消耗戦となり、日本も兵器の大増産に追われることになった。 そこで海軍は工場の能率を高めるために日本能率協会の森川理事長に海軍工廠の工場診断を依頼した。診断を終えた理事長は昭和十八年一月、
海軍工廠の作業にはムダが多い。能率改善の余地がはなはだ多い。
と大変厳しい評価を下した。

これを受けた海軍は直ちに森川氏の指導を受ける事を決定、昭和十四年に操業を開始した新しい工場である豊川海軍工廠をモデル工場として選んだ。森川氏は豊川工廠を診断して、次のように酷評した。
ここは新米大工の寄り集まりと同じである。各自は熱心に仕事を行い駆けずり回っているが、その割に生産量が少なく品質は極めて粗末である。プロの大工はまず十分に考えてから道具を準備し、それから楽に仕事を行い、作業時間は短くとも量、質ともに十分な仕事を行なうものだ。当工廠もこのようにプロになるような心がけが必要だ。

森川氏は機関銃部で二十五ミリ機関銃を生産している第一機関銃工場の作業を一ヶ月にわたり工程分析を行い、総合作業の流れを分析した結果、七十五個所の改善個所を突き止めた。さらに森川氏は苦心して一ヶ月で改善事項を見出し、それを実施し、その結果を診断し、また改めることを繰り返した。まさにPDCAの手法通りに工場革新を進めた。

これにより工場は一新し、昭和十八年三月に工場診断を始めた段階で二十五ミリ機関銃一挺作るのに必要な機械加工と仕上げ工数は千六百七十もあったものが、昭和十九年十月頃にはわずか四十七にまで激減した。

「これはすばらしい」と驚いた豊川工廠ではこの機関銃部に取り入れた方法を機関銃弾包、信管等を作る火工部、双眼鏡・測距儀・コンパスなどを作る光学部を始め、多くの部署に取り入れて行った。

(注)この文章は下記ホームページから要約して転載しましたが現在、残念なことに原文は掲載終了になっています:
実践!管理者道場:http://www.uvc.co.th/J57.htm

豊川工廠の技術者達は、相当頭脳の柔軟な連中だったようだ。

写真は、陸上自衛隊・八七式自走三十五ミリ高射機関砲で、捜索・追尾レーダーを有し独立戦闘ができる。将来は、レーザー砲に進化するだろう。