史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

御津(みと)町は、三河湾に面した南向きの温暖な地域である。
大恩寺山(御津山:九十四・四メートル)はこの地域を流れる御津川右岸の山並みの先端に位置する独立峰で、その北側に抱かれるように古刹・大恩寺がある。


日本海軍は豊川工廠を守るため大恩寺山と権現山(豊橋市石巻本町)に高角砲陣地を築いた。
大恩寺山は山頂を削って作られた三基の高角砲台を中心に、測距儀を備えた指揮所、周辺三箇所に配置した探照灯台座、それに見張所や兵舎などを含む防空システム基地となった。艦上兵装システムをそのまま陸上に配置したであろう。

御津町役場の横田さんに陣地跡を案内していただいた。山頂には砲台の基礎部分が名残を留めていた。真中に直径十メートルほどの平坦なコンクリート台座(写真)があり、その北と南に同様の台座があったが今はほとんど姿を留めていない。南側の台座跡には見晴台が建ち、この上から見る三河湾のパノラマは絶景である。これら台座を結ぶ地下通路があったといわれる。山頂にはよく育った桜の木が立ち並び、その中に根尾谷から移植されたまだ幼い一本の淡墨桜があった。
山頂の西側に今は駐車場になっているが、ここに高い台座を築きその上に光学式測距儀が置かれていた。ここが艦上でいえば戦闘指揮所に相当したのであろう。

西部山上の高圧線鉄塔手前の林中奥深く、一辺の長さ約三メートル・高さ約二メートルの正方台形のコンクリート台座が眠っていた。これが探照灯台座の一つと考えられている。今日なら、ここに捜索・追尾レーダーを配備するところだが、当時はまだ実用化に至っていなかった。

町制七十周年を記念して御津町が最近刊行した「みと歴史散歩」は、豊川に向け上空を飛来したB-29との交戦の様子を次のように語っている。
高角砲は陸軍では高射砲といいますが、左右両端の砲台に各一門がおかれ、中央の砲台は予備のものでした。射程距離は水平射撃の場合一万二千五百メートルで、上空に向けた場合には八千メートルに達し得たとのことです。この日、B-29は高度一万二千三百メートルで飛来し、本町上空に近づいたとき一万メートルに降下し、さらに九千メートルになったので一番機に射撃を加えましたが、敵の一部は御油(現愛知御津)駅周辺に二百五十キロ爆弾三十八発を投下しました。このとき八千メートルに迫った一番機に命中させたとのことです。

対空砲火によるB-29の喪失及び損傷機数等各爆撃団からの報告を次に示す:
 爆撃団

投弾時間

(時:分)

 参加機数  喪失機数  損害機数  搭乗員数
重大 軽微 参加 負傷
314 10:13-24 33 0 5 4 402 0
58 10:23-34 30 0 0 0 364 0
73 10:26-31 29 0 0 6 393 0
313 10:26-39 32 1 1 5 393 4
10:13-39 124 1 6 15 1552 4
第三一三爆撃団の一機は帰途、硫黄島上空で機体を放棄し、搭乗員十一名がパラシュート降下し全員無傷で救助された。

目標地域での高射砲の迎撃状況をまとめた表 (注:上表と対照して機数が合わない)と、その論評を次に示す:
投弾時間(時:分) 編隊内機数 損傷機 備 考
10:13 12 5 貧弱で正確、強烈
10:20 12 3 貧弱で正確、強烈
10:23-24 9-10 0-0 貧弱で不正確、強烈
10:26-27 10-9-12 5-1-0 貧弱-正確から不正確、強烈
10:28-30 11-9-11-11 6-0-0-0 第1編隊に対し非常に正確,その他には不正確または零
10:34 9 0 貧弱で正確
1.上記の数字を解析して、敵の防衛は一度に単一の爆撃編隊のみ適当に対処出来るだけであるということである。即ち、ただ一編隊で彼らは飽和し、二分以内の間隔で次の編隊がやってくると、高射砲は零かまたは不正確になる。
2.被害の殆どはニ回の予測点集中による十~十二発の炸裂によるもので、二つの十一機編隊に命中した。
3.この比較的貧弱な防御は、明らかに日本軍が今までに立証した最も効果的な射撃をやって見せた。(This relatively meager defense apparently accomplished some of the most effective firing the Japs have demonstrated to date.)

更に次の記事がある:
第三一三爆撃団の一機が早めに投弾した。その爆弾は目標の手前約一万六千フイートに落下した。これらの爆弾は線路と列車に損害を与えたようであり、また建物が立ち並んだ小さな地域内にも落下した。また、一連の爆発が爆撃中心点の手前一万四千フイートで起ったが、現在得られている情報ではこれを命中弾とはなし得ない。

愛知御津駅は目標手前約一万八千フイート辺りなので、「みと歴史散歩」の記事とほぼ一致する。この爆撃団が搭載した二百五十キロ爆弾は一機あたり多くて約二十七発であり「みと歴史散歩」に記されたような三十八発は搭載できない。

なお、同書に記されてないが、編隊が御津町を通過したところで第二の地上爆発が起ったという横田さんの伝聞証言があることから、一万四千フイート手前の一連の爆発も裏付けられる。

B-29の高度は、既述のように四千九百から七千二百メートルでの水平投弾であったから、「みと歴史散歩」にあるような高高度から目標に向け降下していない。本州沿岸まで海上を這うようにやってきて爆撃高度に上昇し、以後そのまま目標上空まで飛行し投弾するのが通常の手順であった。本州を離れた後は、緩降下しつつマリアナの基地へ帰着する。全行程の燃料消費を最小限とし、爆弾搭載量を最大限にするようきめ細かい配慮をしているので、一万メートルもの高度に上昇することはない。

最後に、工廠内に配備された砲台に触れる。
第五砲台はビルの屋上に、
二十五ミリ機銃二門
十三ミリ機銃一門
十二センチ望遠鏡二台
四メートル測距儀一台
を展開していた。爆撃が始まり爆弾の断片が飛び交うようになり、誘爆の恐れが増したので射撃をあきらめ、弾薬を安全な場所に移した。熱田空襲の場合もそうだが、圧倒的な戦力の前に機銃はまさに蟷螂(とうろう:かまきり)の斧であった。

この爆撃の際、別に豊橋市の権現山にあったとされる高角砲陣地はどんな働きをしたのか不明であるが、その所在については次章で述べる。

大宝二年(702)十月十日持統上皇(注参照)は、伊勢より船で御津の湊へ上陸し国府に滞在され、十一月十三日に尾張を訪れている。従って当地は一カ月ほどの長期滞在で、後世の人がそのときの行在所(あんざいしょ)の跡に小さな祠を建て、御所宮と称し崇敬を集めた。このお宮は現在、音羽川下流の下佐脇の佐脇神社境内に移され御所大明神としてお祀りしている。

この間、御津町と音羽町の境にある宮路山へ御幸され紅葉を遊覧された。山頂には次の文を記した碑が立っている。
宮路山聖跡 愛知県
此地往古官道ニ當ル且眺望絶佳ナルヲ以テ歌詠頗ル多シ
傳エ云ウ大宝二年持統上皇行幸ノ時御駐蹕ノ地ナリト
大正五年十一月建之

宮路山は昔からもみじの名所として名高いが、そのもみじ・かえでの木をいうのではなく「紅葉」あかい葉という意味で、紅葉するのは普通ドウダンと呼ばれるコアブラツツジのこと。 この地は、古代・中世の頃から東海道(古道)の宮路越えの通路に当たっていた。応永二十年(1413)に現在の東海道ができてから、宮路越えはなくなった。

持統上皇はその後、尾張・美濃へ行幸されて「壬申の乱」の功臣の家に位を賜い、伊勢・伊賀を経て四十五日ぶりで帰京されたが、程なく崩じた。御年五十八歳。慶雲元年(704)飛鳥岡で火葬され、天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。

(注)下記「壬申の乱」の記述に出てくる鵜野(うの)皇女が、若き日の持統上皇である:
    第三集「尾張のキリシタン」2.沢城周辺14.濃尾平野
岡崎市史に次の記事がある:
平城遷都以前の藤原京の時代のことであるが、古代の三河にとって前後に類を見ないといえる事態があった。持統太上天皇の三河行幸である。
天皇位を孫の文武天皇に譲り、太上天皇となった持統は大宝二(702)年冬、東海地域への行幸を行ったが、その行程を順次「続日本書紀」から適記すると次のようになる。
1 9月19日 行幸の準備として、使者を伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五国に派遣し、旅先の仮の居宮である「行宮」を作らせる。
2 10月3日 諸神を鎮祭する。将に参河国に幸せんが為なり。
3 10月8日 持統太上天皇、参河に幸す。諸国の今年の田租を免ず。
4 11月13日 尾張国に至る。尾冶連若子麻呂と同年牛麻呂に姓(かばね)「宿祢(すくね)」を、国守多冶比真人水守に封土10戸を賜う。
5 11月17日 美濃国不破郡大領 宮勝(すぐり)木實に外従五位下の位階を授け、国守従五位上石河朝臣子老に封土10戸を賜う。
6 11月22日 伊勢国に至る。国守佐伯宿祢石湯に封土10戸を賜う。
7 11月24日 行幸の経路の諸国(尾張・美濃・伊勢・伊賀)の郡司および百姓のそれぞれに叙位・賜禄を行う。
8 11月25日 藤原京に遷都(車駕 参河より至る)。
9 12月13日 持統太上天皇 重態に陥る。
10 12月22日 持統太上天皇 死去す