史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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前掲の「みと歴史散歩」に豊橋市石巻本町の権現山にも海軍高角砲陣地があったと記されているが何処か、その所在を探った。

豊橋市東北の石巻本町という地名で、探すべき範囲は限定される。また、豊橋市観光マップには、主要観光施設としてその町内の豊川左岸に権現山古墳の名が記されている。ここまで特定できたから簡単に探し出せるだろうと、タクシーを拾い気軽に現地へ向かった。豊川と権現山らしい山との間を北上し、三上橋東詰で運転手が危ぶむの振り切って車を降りる。山の西面中腹にある神社までの登り道はあるが、行き止まりで山頂へは進めない。事前調査の不備を嘆きながら、あきらめて豊川まで歩き、帰った。

  次に豊橋に行った機会に、先ず豊橋市中央図書館に立ち寄った。駅西口付近と聞いて歩き始めたがかなり遠く、分かりにくい。疲れた足で更に図書館の建物を半周廻って、やっと入口から入る。館員に権現山の所在を聞くと、親切に市の詳細な地図を持ち出して調べてくれた。暫くして眼前に開かれた地図には権現山の山頂まで北側から道が回り込み、豊橋・豊川の市境にあたる山頂に何か施設らしきものがある。前回は行動範囲の狭い徒歩でもあり、この道までは探索の足を伸ばさなかった。

今回は車で主要地方道国府馬場線に乗り豊川市役所前を東に、豊川を渡り小倉橋交差点を左折して前回と同じ道を北上する。三上橋東詰を過ぎてすぐ右折し、狭い村道に入り山の北面から斜めに上りに入る。右手にコンクリート製の巨大な水槽が三個連なり、やがて行く手は権現調整池と書かれた門に阻まれる。少し引き返して水槽の右手に廻ると、豊川市水道局の標識があり、水槽を設置するため醜く抉り取られた山頂が見える。コンクリートを吹き付けた断崖に鉄製の階段が設けてある。この階段は山をかくまで荒らした豊川市の、いささかの償いの気持ちのあらわれか。これを上って、山頂に出た。

雑草が伸びた平地の一角に小さな碑が目に入る。
表に
三笠宮殿下御臺臨記念碑
裏に、
昭和16年11月23日
発起者 山本茂
昭和56年3月15日建立
和泉会
山本増美(以下九人の氏名)


御臺臨の意味を考えてみると、御臨(ぎょりん)とは臨幸と同意で、天子がその場所にお見えになること、臺とは台の旧字体でこの場合、砲台を意味すると考えられる。従ってこの碑は、太平洋戦争開戦寸前の「昭和十六年十一月に、三笠宮(昭和天皇の弟君)がここ権現山の高角砲砲台にお見えになった記念に建立した」という意味であろう。実際には、それから四十年後の昭和五十六年に発起者の意を受け、九名の親族の方々が建立されたらしい。碑が建っている平地は、今も手入れがなされているように見受けられる。

豊川海軍工廠は前述のとおり昭和十四年十二月に開所された。その約二年後に防空用砲台が完成し、宮様を迎え式典を執り行ったと考えられる。今日、標高五十メートル(推定)ばかりの権現山の頂は大きく姿を変え、僅かに碑の建つ平地が残るのみ。ここから東側は眺望が利くものの、工廠を望む西側は密集した背の高い潅木に遮られている。今は、臺の一字がその過去を物語るばかりである。

地図上で見ると、権現山から工廠の中央部まで方位二八八度(西北西)距離六・二キロである。ちなみに、大恩寺山から工廠までは方位七二度(東北東)距離五・七キロで、両砲台とも工廠を南半球側からの攻撃に対する防空陣地として最良の地の利を占める。そして前述のごとく、豊川空襲に際しては米軍も賞賛するほどの活躍をしたのだ。