史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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この多少長い物語を読むと、読者に歴史の知識があれば、ある出来事が人類の進路に劇的な衝撃を与えたことを知るであろう。本書で述べる事件では、太平洋戦争の狭間で数えきれないくらい多くの戦闘機パイロットの命が救われたのである。

私は今までこの事実を知らなかった。この墜落した零戦から得られ、学んだ情報から、どれくらい多くの米軍パイロットや航空機が、基地や母艦へ生還することが出来たであろうか。サンデイエゴ在住の人々は、身近なNASノースアイランドが零戦問題の解明に役立ったことを知り驚くことであろう。この物語はたいへん興味深い。

日本の零戦と、それを我々が飛ばせて学んだこと

第二次世界大戦が始まった頃、各国の戦闘機のコックピットには風防がなく、機体は織布で覆われた複葉機であった。1930年中期に日本軍が保有していた零戦の一世代前の艦上機は、すでに低翼で全金属製単葉機であった。しかし世界は日本の先進軍用航空機に無関心だったので、米国ではパールハーバーとそれ以降に出現した零戦に大きな衝撃を受けた。敏捷性と簡易性を兼ね備えたこの戦闘機は、連合軍のどの航空機も太刀打ちできない飛行性能を持っていた。軽量、簡易性、保守の容易さ、操縦感度及び素晴らしい運動性等。
1942年4月、零戦36機がセイロン(今のスリランカ)のコロンボにある英国海軍の港を襲った。約60機の英空軍航空機が迎撃した。迎撃機の種類は様々で、殆どは機種不明であった。英空軍機27機が撃墜された。内訳は、ホーカー・ハリケーン(英国の戦場では名高い)15機、フェラリー・スオードフィッシュ8機、そしてフェラリー・ファルマス4機。日本側は、零戦1機を失った。
米国が参戦してから5カ月後も、零戦は米海軍パイロットにとっていまだ未知の戦闘機であった。1942年5月7日、珊瑚海海戦で米空母レキシントンとサラトガから発進したパイロット達は零戦に遭遇したが、その名さえ知らなかった。
それから数週間後の6月3日と4日、日本空母・龍驤(りゅうじょう)と隼鷹(じゅんよう)から発進した軍用機がアラスカのアリューシャン群島にあるダッチハーバーの米軍基地を攻撃した。日本がアラスカを攻撃したのはパールハーバー以北に残っていた米艦隊をミッドウエイ島から追い払うためであった。日本軍はそこに、わなを仕掛けていた。だが、我が海軍パイロットは日本の第一線空母4隻をミッドウェイで沈め、米側の大きな反抗勝利となったので、日本側のこの企みは計画倒れに終わった。
6月4日の襲撃では、20機の爆撃機がオイル貯蔵タンク、倉庫、病院、ハンガー及び接岸した輸送船を爆発させ、11機の零戦が意のままに機銃掃射した。海軍下士官・遠藤マコトは龍驤から発進した零戦3機編隊を指揮した。従うパイロットは、飛行下士官・鹿田ツグオと古賀タダヨシで、古賀は19歳の若さ、田舎の大工の息子であった。
古賀の塔乗機はシリアル番号4593、色はライトグレー、両翼と胴体に日の丸のマークが付いていた。この機体は3ヵ月半前の2月19日に三菱航空機の工場を出荷したばかりの最新型であった。爆弾がダッチハーバーに降り注ぐ少し前、隣の陸軍前哨にいた兵士が、3機の零戦が重そうに進むカタリナ水陸両用艇を撃墜するのを目撃した。機体が沈み始めると、7人の乗員のほとんどが皮製の筏に転がり込んで、陸地に向けて漕ぎ始めた。陸軍兵士はゼロが乗員全てが死ぬまで機銃掃射するのを、おののきながら眺めた。そのゼロ達は、遠藤、鹿田及び古賀であったと信ぜられる。
カタリナの乗員を殺戮したあと、遠藤は自分の小隊をダッチハーバーに導き、そこで機銃掃射中の8機と合流した。その時、(鹿田が1984年にインタビューされたときに語ったことだが)古賀のゼロが地上砲火を浴びた。ある陸軍情報チームの一人がのちに「弾丸が機体の上部と下部に孔を開けた」と報告している。弾丸の一つはオイルクーラーとエンジンの間のリターンラインを傷つけた。エンジンが作動し続けると、壊れたラインからオイルが噴き出す。この襲撃の有様を収めた海軍の写真に、一機のゼロが煙を吐いているのが見える。それは多分オイルで、そのゼロは4593に違いないと思われる。
襲撃したあと、彼等はそれぞれの母艦に帰投した。米軍のカ―テイス・ウオーホークP-4Cが、バル(愛知D3A)急降下爆撃機をダッチハーバー西30マイルの地点で撃墜した。渦巻く数分間の格闘戦で、ゼロ1機を撃墜した。別のゼロがすぐ後方についたが、彼は上昇反転して逃れようとした。しかしそれはゼロを避けるには間違った行動であった。ゼロは容易に追尾して、二連の20ミリ機関砲と7.7ミリ機関銃を発射した。ケープとその乗機は海に墜落した。他のゼロが、ウインフイールド・マックリンタイア少尉のP-40を撃って来たが、彼はエンジンが停止したままクラッシュランディングして助かった。
遠藤と鹿田は、25マイル先のアクータン島に向けてオイルを吐きつつ飛行する古賀機に随伴した。そこは緊急着陸に指定されていたところであった。近くに一隻の日本潜水艦が、墜落したパイロットを拾い上げるために待機していた。3機のゼロはこの青々とした、木のない島の上空低く旋回した。古賀は車輪を降ろし、海面と同じくらいの高さの内陸に半マイルくらい入り込んだ草原状の谷底に三点着陸を試みた。主脚が地面にタッチすると、そのまま突っ込み、ひっくり返って水や草や土くれをまきあげた。遠藤と鹿田は上空を旋回したが、古賀が生きている兆候はなかった。もし古賀が死んだなら、墜落した戦闘機を破壊しなければならない。機関銃から発射する焼夷弾がその仕事をやってくれるが、古賀は彼らの友人であり撃つことが出来なかった。多分彼が意識を回復したら自分自身で機体を破壊し、待っている潜水艦へ歩いて帰って行ったであろう。遠藤と鹿田は墜落した戦闘機を見捨てて、200マイル南にいる龍驤に帰投した。
(龍驤は二ヶ月後、東ソロモンで空母サラトガから発進した航空機により撃沈さた。遠藤は1943年10月12日ラバウルで戦闘中に死亡、鹿田は戦争を生き残り最後は銀行員になった。)
難破したゼロは沼地の中で1ヶ月以上、米軍のパイロットや沿岸を通る船に見つけられずにいた。アクータンには、時々霧がかかり、常に吹くアリューシャン風がこの岩だらけの島の上で不愉快な空気の乱れを作っていた。大抵のパイロットは、海上を飛行するのを好み、アクガン上空は殆ど飛ぶことはなかった。しかし7月10日、米海軍のカタリナ機(PBY)が徹夜のパトロールから帰投する時、この島の上空を横切った。ウオールと呼ぶ機銃手が「あそこに飛行機が墜落している。その翼の上にミートボールが描かれている」と叫んだ。それは日章旗であった。このパトロール機の機長・ウイリアム少尉は、より細かく観察しようと機体を降下させて見たものは彼を興奮させた。

ダッチハーバーに戻って、ウイリアムは墜落した飛行機の調査チームに自分を加えてくれるよう団司令に頼み込んだ。その時点では、誰もその飛行機がゼロであることを知らなかった。この飛行機を発見した時のウイリアムの副操縦士であったロバートラルソン海軍少尉は、ゼロに接近した時のことを覚えていた。
「我々は草で覆われた深さ1フイートくらいの水の上を注意深く歩いて近寄っていった。古賀の遺体は革ひもでくくられ、機内で逆さ吊りになり、頭部は水没していた」「我々は機体の細部を見て驚いた」ラルソンは続けて、「機体は単純で、ユニークな造りであった。点検板は指先で黒い点を押すと開くことが出来る。翼端は、ラッチを外し手で押し上げて畳むことが出来る。パイロットはパラシュートと救命筏を身に着けていた」古賀の遺体は近くに葬られ、1947年に近くのアダク島の墓地に移された。その後、彼の遺骨は日本に帰ったと信じられる。

ウイリアムは壊れた機体を見て、ほとんど新品のゼロだと断定した。それが修理可能であることから、これは特別な意味を持っているぞと頭にひらめいた。しかし、主翼が取り外せる米国の戦闘機に対し、ゼロの主翼は胴体と一体であった。それが引き揚げと輸送を困難にした。海軍の隊員たちは機体を沼地から引き出そうと奮闘した。泥中に3から4フイート沈んだエンジンとその後胴体を引き上げるのに、三角台を用いた。あり合わせの機材では機体をひっくり返すには重すぎたので、岸やはしけにつくまで一台のトラクターで枕木の上を引っ張った。ダッチハーバーでクレーンでひっくり返し、主翼と全機を洗浄して箱詰にされた。ゼロ4593を収めた扱いにくい木箱がサンデイエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着すると、ハンガーの中で高さ12フイートの囲いがその周囲に建てられた。この非常に貴重な機体を飛行できるようにするために、海軍の隊員が24時間ぶっつけに働き、それを海兵隊が警護した。
(日本側は、誰が古賀機を引き揚げたか知ったという根拠はない)

9月中旬、エデイ・R.サンダース大尉は修理が完了した機体を約一週間調査した。46年後、彼は古賀のゼロに乗って飛行したことを鮮明に覚えている。サンダースは私にこう語った。「私の日記によれば、1942年9月20日から10月15日の間、ゼロに乗って24フライト行った。これらの飛行は、海軍の性能試験手順に従った」
「最初の飛行では、ゼロの弱点が露呈し、それは我々パイロットが適切に対応できるものであった。ゼロは格闘戦が行われる低速時にのみ、素晴らしい運動能力を発揮する。しかしすぐ分ったことは、200ノット以上でエルロンが動きが鈍くなる。その速度でのローリング速度は遅く、操縦桿に大きな力をを要する。左ロールの方が右ロールより易しい。また、負の加速度(急降下するような)では、気化器がフロートタイプのためエンジンが停止する。我々はゼロに追尾された時、脱出できなくなるパイロットに答えを出してやることが出来た。我々はパイロットに負の荷重をかけて垂直急降下に入り、ゼロのエンジンが停止した時、できるだけ相対距離をとり、速度を上げよと教えた。200ノット付近では、ゼロのパイロットの視界に入る前に右急旋回に入るようにアドバイスした」

古賀の飛行機を最初に飛行させた後、この推奨戦術は艦隊にラジオ放送されすぐに歓迎の回答が返って来た:
「その通りだった」とサンダースは言い、彼のラジオを通じての音声に満足したという反応は、半世紀後も彼の頭に響いている。
こうして、1942年9月の終わりまで太平洋戦域での連合国パイロットは、どうすればゼロの追跡から逃れられるか知った。「ゼロ4593は、モデル21型の代表と考えてよいだろうか?」とサンダースに訊いてみた。換言すれば、その機体は100%元通りに修復されただろうか?彼は「約98%」と答えた。
このゼロは米海軍の財産目録に加えられ、その三菱一貫番号がそのままつけられた。日本機としての機体色と記章は米海軍のそれに、後にはそれを飛行試験した米陸軍のそれに置き換えられた。米海軍は、その当時最先端のP-38ロッキード・ライトニング、P-39ベル・エアラコブラ、P-51ノースアメリカン・マスタング、F4F-4グラマン・ワイルドキャット及びF4Uチャンスボート・コルセア等と空戦を行わせ、それら各型ごとにゼロに対抗できる最も効果的な戦術と高度を開拓した。
1945年2月、リチャード・G クロメリン司令官がサンデイエゴ海軍航空基地でゼロ4593をタキシングさせていた。そこは太平洋戦域に向うパイロットを養成するために使用されていた。一機のSB-2Cカーチス・ヘルダイバーがオーバランし、ゼロの尾翼からコックピットまで切り裂いた。司令官は無事だったが、ゼロはそうはいかなかった。このゼロ4593のごく一部分が今に残っている。マニホルド圧力ゲージ、エアスピード・インディケータ及び左舷翼端折り畳みパネルが、1945年サンデイエゴで事故機を回収したウイリアム・Nレオナルド海軍少将から、ワシントンDCにある海軍工場の海軍博物館に寄贈された。
また、ゼロ製造会社の二枚のネームプレートが、写真家アルツールバウマンからアンカレッジのアラスカ航空ヘリテージ博物館に寄贈されている。レオナルド少将は私に「捕獲したゼロは宝物だった。私の知る限り、捕獲した兵器のうち必要な時に、かくも多くの秘密のカギを開けた例はほかにない」と語った。多少比較できる出来事が1944年、古賀がゼロを着陸させた同じ6月4日に、北アフリカで起きている。
ダニエル・Vギャラリー大尉が指揮する中隊が護衛空母ガタルカナルに搭乗していた時、ドイツの潜水艦U-505を捕獲した。敗走した乗組員が艦に穴を開けて沈めようとする前に、この戦闘力を失った艦に乗船し確保した。U-505から暗号表、海図及び操作指令が持ち出され、それらは連合国にとって非常に価値の高いものであることが分かった。のちにギャラリー大尉は次のように記している。「結果として、結成した受領委員会がその後、11カ月の間に300隻近いUボートを沈めるのに何がしかのお役に立ったと思う」U-505を捕獲した頃は、ドイツの戦いは既に破滅の始まりであった。
(Dデイはその2日後に始っている)
古賀の機体が回収された時、日本はまだ太平洋を支配していた。この機体がどれほど価値があったかを示す顕著な事例が1943年4月1日に起った。海兵隊のケンウオルシュが、F4Uチャンスボート・コルセアに乗り、ブーゲンビリア南東にあるラッセル島上空を飛行中に、単機のゼロに遭遇した。「私は偏角射撃をしようと敵機に向って行ったが、相手はその前にロールして私の後方の真下に付き射程内に入った。ゼロが非常に運動性がよいと聞いていたが、それが私の後方に弾かれたように入って来るのを見なかったなら、それを信じなかっただろう」最近になってウオルシュは次の様に振り返った「古賀のゼロの試験結果から、どうすればゼロの追跡から逃れられるか教えられたのを思い出した」単機のゼロに追尾された時、スプリットS(訳注1)を行い、急降下し自機をフルスロットルで最高速に持っていった。
私は少なくとも240ノット、望むらくは260ノット、を欲した。次に、前に言ったように急に右ロールした。それとともにダイブし続けた。ゼロからの弾丸の飛跡がヒューヒューと自機の胴下を通り過ぎた。「古賀のゼロからの教訓で、ゼロは左ロールより右ロールの方が緩やかであることを知っていた。もし私がどちらにロールすればよいか知らなかったら、恐らく左ロールしていただろう。そうしていれば、ゼロは私について来てロックオンし撃墜したであろう。私はこの運動を何回も繰り返し、ゼロから逃れることが出来た。」戦争が終わるまで、ケネスウオルシュ大尉(のちに中佐)は21機を撃墜(ゼロ7機、Val3機、Pete1機)し、海兵隊第四のエースになった。1943年8月、愛機コルセアに乗りソロモン島上空で2度の空中戦を勇敢に戦ったことで、Medal of Of Honorを受けた。彼は28年間勤務した海兵隊を1962年に退役した。
彼はDistinguished Flying Cross with six Gold Stars, the Aor Medal with fourteenGold Stars及び1ダース以上ものメダルや栄誉を受けた。
古賀のゼロを捕獲したことがどれだけ重要であったか?
奥宮正武(訳注2)は、他のどの日本海軍軍人より多くの空海戦闘を生き抜き、古賀がその最後の飛行を行った時の龍驤に搭乗していた。のちに彼は二冊の共著「ゼロとミッドウエイ」を著わした。奥宮は古賀のゼロを捕獲されたことは、日本のミッドウエイ敗北と比べればそれと同じくらい重要なことであり、「我々の最終的な敗戦を速めた」と振り返る。
「それを貴方は自覚していなかったのでは」とケンウオルシュは問う。
第二次世界大戦中、ゼロは日本の第一線の戦闘機であった。この戦争が終わるまで、五つの形式のゼロが約11,500機生産された。1939年3月、ゼロの原型機がロールアウトした時、日本はこの戦闘機に期待していたわけではなく、三菱の工場から飛行させる滑走路まで28マイルを牛車で輸送した。技術の進歩は著しい。

KCH Note: I tried to find the source for this, best match:
http://www.texasflyinglegends.org/kogas-zero
(訳注1)スプリットS:機体を180度ロールさせ、背面飛行状態になってから操縦桿を引き、進路を180度方向変換する運動。
(訳注2)奥宮正武:1942年(昭和17年)4月、第四航空戦隊航空参謀としてアリューシャン・ミッドウエー作戦に参加。