史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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第16章 広島(恐ろしい悲劇)

マンハッタン計画と「標的」

ナチスドイツの原爆開発の進展に大変驚いた(欧州からの)移民科学者と米国科学者たちはフランクリン ルーズベルト大統領に、そんな兵器を持とうとするヒットラーを早く打倒すべきであると警告し納得させた。1941年、ルーズベルトは後にマンハッタン計画と命名された事業を承認した。ルーズベルトはこの兵器の合法性に疑問を抱いていたかどうかは分らないが、その巨大な政治的含蓄を理解して、この計画をスターリンに知らせることをしなかったという証拠がある。と言うのは、歴史家バートン  ベルンシュタインが「この爆弾はソ連に対し米国に将来の十分な有利性を与えてくれるだろう」と述べているからだ。

事実上この原爆計画はどこから見ても巨大であった。価格(二百万ドル以上)は、この計画の殆ど全部の実態と共に他の費用の中にカムフラージュされ、立法支部や行政支部内の選ばれた人たち以外すべてに秘匿された。陸軍少将レスリー グローヴズは秘密の開発及び生産拠点の群島(最もよく知られているのはテネシー州、ワシントン州及びニューメキシコ州にあった)を率いてこの計画を遂行した。

ヒットラーの兵器庫に原爆があるのではないかという危惧は、1944年に入っても連合国を必死の努力に駆り立てた。しかし、ドイツは初めに連鎖反応を維持するに必要なウランの量をひどく過大見積りするという誤算をした。こうして、彼らは一個の爆弾を製造するに必要な核分裂物質は彼らが作り得るよりずっと多いと推論した。更に、この是認された困難からその製造計画が成功したところで得られるであろう爆弾の数が少ないか、威力が足りないか、その両方になるであろうという当然の結論に帰着して行くのは不可避のことであった。

日本では、帝国陸軍と海軍は原爆の開発計画を支援しており1943年初頭、陸軍航空技術研究所が原爆は可能であるとの研究結果を発表した。日本の将来は原爆が握っていると信じていた東条総理は、この個人的な関心を取り上げて仁科研究所にこの計画を無制限の予算と資源を使って進めるよう命じた。

この研究所は世界的な物理学者仁科義雄博士によって経営されていたが、陸軍がスポンサーとなったこのプロジェクトは彼の指示のもとで進むよりふらついた。日本人が直面した最初で基本的な問題はウラン鉱石の適切な供給を確保することであった。チェコスロバキアの鉱山から二トンの鉱石を潜水艦で積み出す契約をしたが、全く日本に届かなかった。

この日本の計画は1944年終りまでに比較的少ししか進まず、1945年の春にB-29の空襲がそれを効果的に停止させた。4月13日の東京焼夷弾空襲が主な研究施設を焼き尽くし、別の空襲によって遠心分離機を灰にした。

原爆の実験と装備に先立って、その破壊力の見積りは大幅に変化した。1944年8月の報告書では、ウラン爆弾はTNT換算で20,000トン、プルトニウム爆弾は少なくとも5,000トンに相当すると予想した。しかし1944年11月になると、ウラン爆弾の威力は10,000トンと見積もられた。プルトニウムについてはその破壊力を500トンとしたが、後にそれを2,500トンに引き上げた。1945年時点での考え方を理解するためには、B-29一機が投下できる爆弾は8から10トンであり、例えば500機のスーパーフオートレスが一回の空襲で4から5千トンの炸薬を投下できることを心にとめる必要がある。従って、一個の原爆の炸裂で通常の空襲による破壊力を大きく上回るものではない。

  原爆が手に入るかどうかも分からなかった。1944年8月の覚書は、1945年3月31日またはその1ヶ月前に最初のプルトニウム爆弾が手に入るとした。一個のウラン爆弾が用意できるのは7月であろうと言った。1944年12月まで湧き上がる期待に科学者達は最初のウラン爆弾は1945年8月1日に、第二の爆弾は年末までに入手できるであろうと予測した。グローヴスは「プルトニウム型の原爆が春の終わりに開発される、との我々の以前の希望は今や科学的困難のために遅延しつつある」と報告した。最初のプルトニウム爆弾が手に入る時期は7月で、その後年末までに「約17個」が完成するはずであった。

これらの兵器の実現見通しが見え始めると、これまで戦域司令部に委任されていた攻撃目標の選定が始まった。マーシャルは秘密保全要求と唯一の技術的配慮をグローヴスの配下のマンハッタン計画の指導者の手に任せることとした。グローヴスの将校と科学者達は4月と5月に会合を開いた。彼等の検討の基本になったのは:爆弾の数が少ないのでこの爆弾に価値ありと考えられる少数の目標であること。このような束縛のもとで後にグローヴスは次のように語った:

私はそこを爆撃されることによって日本人の意思に戦争を続けるのに最も逆の影響を与える場所を選ぶという支配的要素をもとにして目標の選定を始めた。加えるに、その目標は重要な司令部や部隊集結地、軍需品の生産或いは供給拠点等より成る軍事的性格のものでなければならない。この爆弾の影響を正確に評価するために以前に空襲で破壊されていてはならない。更に望ましいことは、最初の目標は我々がこの爆弾の威力を正確に推定できるために破壊がその都市の中に留まるような大きさであること。

相手国に衝撃を与える戦略に適合した優先順位付け命令はスチムソン戦争長官、マーシャル将軍及びその他のプロジェクト指導者たちに好感をもって迎えられた。この目標委員会の最初の会合で、日本の夏季の名うての悪天候下で晴れた日が数日しかなくても各爆弾の効果が照準誤差によってうやむやにならないようにするため、夫々の爆弾はレーダーを使わず、目視で投下すべきであるということで合意した。(第二の原爆任務でこの指針に違反したことは全く予期しない結果であった。) ヨーロッパ、そして日本に対する空爆の指針を与えて来たこの委員会は提起した目標を一つの「大きな人口密集地帯内の直径3マイルを超えない大きな市外地域」としただけで、何の不安も記録に残していない。

5月、次の目標委員会でオッペンハイマーは11項目の議題を挙げて会議をリードした。その殆どは技術的課題であった。オッペンハイマーは爆弾の核分裂物質は致死量の十億倍もの恐ろしい放射能を含み、「勿論それは目標地域に露出した人に影響を与える」と出席者に印象付けた。「それは露出した人を多かれ少なかれ死亡させることになろう」;この放射能はどれだけ長引き、どれだけの量が残存するか;或いは犠牲者は最初、熱や爆風で死亡するであろうから潜在的な輻射による致死量が問題になるであろう。オッペンハイマーは何も言わず、その乏しい記録は誰がこの点を議論したか記していない。

この会議は、オッペンハイマーの議題「目標選定における心理的要素」と「軍事目標に対する使用」を論議した。これらは不確定なままの爆弾の予想される威力と始めからつながっていた。それまでは、ある著者が言うには電信名「リトルボーイ」のウラン爆弾は5,000から15,000トン相当;「フアットマン」のプルトニウム爆弾は「誰かの見積では:700、2,000、5,000トン」であった。純軍事目標に限って使用する場合はこの兵器の威力を十分に与えることにならないこと、及び「爆風の被害にさらされるくらい大きな地域に投下すべきこと」が了承された。更にこの議事録は望ましい「心理的効果」は当該日本だけでなく「一般にこれが知れ渡ったとき、この兵器の重要性が国際的に認識されるほど十分壮観であること」を希望すると記している。

目標委員会は幾つかの候補の中から四都市に絞った:京都市、広島市、横浜市及び小倉兵器廠。新潟は代替に残された。京都がこのリストの筆頭に置かれたのは、大型都市(百万人以上)であること、及びその周知の文化的重要性のためこれまで論及されずに来たのに逆手を食らわせたからだ。委員会は、「心理的な観点からすれば京都は日本にとって知的中心だから、人々はかような兵器の重要性をより理解しやすい」と記録している。討論の間、東京と皇居自体も検討の対象になった。だが、この街は既に「部分的に破壊されている」というから除外された。皇居を目標とすることについて(恐らく天皇殺害の婉曲表現)、委員会は「我々はこれを推奨すべきでないが、これを爆撃するいかなる作戦も軍事政策に関る当局が命令すべきであると合意した。」5月28日の三回目の会合で、委員会の会員たちは勧告を順に次の三つにまとめ上げた:京都、広島、及び新潟。彼らは照準点を特定の工業地域でなく、市の中心とすることを確認した。何故なら、彼らは意図した命中点が5分の1マイルまで「それる」であろうし、威力を無駄にしたくなかったからである。

さらにもう一つの委員会が標的選定に加わった。戦時下で大統領隷下唯一の保護を受けて爆弾の秘密開発を行ったことは正当化できるが、平和時の原子力エネルギーに関しては世間の注目を浴びて多くの問題が生じる。これら戦後の問題の基礎を築くために戦争長官スチムソンは内部委員会(Interim Committee)を設けた。彼が抜け目なくこの名称を選んだのは、戦時危機を脱すると原子力政策の監視機能を大統領隷下が行使するのを立法部門が阻止するのを避けるためであった。この内部委員会はスチムソン、彼の副長官ジョージ・ハリソン、 バニーバー・ブッシュ(戦時科学振興の元締め)、ハーヴァード大学学長ジェームズ・コナント、物理学者でMIT学長カール T.コンプトン、国務副長官ウイリアム L.クレイトン、海軍次官ラルフ A.バードより構成された。トルーマンの個人的代表としてこの委員会に加わったのは、国務長官就任前のジェイムズ F.ビルネスであった。スチムソンはまたオッペンハイマー、エンリコ・フエルミ、エルンスト・ローレンス、及びアーサー H.コンプトンよりなる科学諮問委員会を組織した。

ハンブルグ、ドレスデン或いは東京の空爆にどれだけの犠牲を産んだか知らないまま、アーサーコンプトンがこの爆弾が「歴史上、最初の大量殺戮兵器だという問題」、及びそれに続いて「爆撃された地域に放射能毒が広がるという問題」を提起したので、この委員会がこの爆弾の使用法を審議することになった。ジョージ・マーシャルはこの点を熟慮し5月29日スチムソンに、最初この爆弾は民間ではなく軍事目標に使用し、次に民間人に避難するよう警告してから大軍需工場に使用すべきだと語った。

内部委員会の正規指示には爆弾の使用について明確な評論をしていない。この爆弾はできるだけ早く使用すべきだという論議(議事録の中にオッペンハイマーがこの点を明確に求めた、とある)に花が咲いた。しかしこれは多分、政策決定者達が合理的な成功の展望のある代替策を選択し、それを吟味することができた最後の機会であったろう。3月31日の開会挨拶でスチムソンは「この爆弾は、人と宇宙との新しい関係を意味する。この発見はコペルニクス理論と重力の法則の発見と較べられるが、それが人類の生命に影響するという点でより重要である。」と言った。

委員会で爆弾が日本人に与える影響を検証し始めたとき、誰かが爆弾の威力が「今日の航空隊が通常の規模の攻撃」をした場合とどれ位違うだろうかと質問した。それに対しオッペンハイマーは顕著な差があると答えた:「眼で見る原爆の炸裂はすごいものだ。それは輝いた発光体を伴い、10,000から20,000フイートの高さまで立ち昇る。この爆弾の威力はTNTの二千から三千トンの間に相当する;その輻射は「少なくとも半径三分の一マイル以内の人には危険であろう」。彼は日本人二万人が死ぬであろうと言い切った。

議事録に記された結論は:
各種標的に与えると思われる影響に関し多くの討論を行った後、長官は次の結論を述べ、それに全員が同意した。その結論とは、我々は日本にいかなる警告も与えない、我々は市民地域に集中しない、しかし我々はできるだけ多くの日本人に深い心理的印象を与える方策を捜さねばならない。コナント博士の提案に沿って委員会は最も望ましい標的は、多数の従業員を雇用している重要な工場とその周辺に労働者の家屋で密に囲まれているところである、とした。

ビルネスは6月1日、この勧告をトルーマンに伝えた。大統領は「唯一の正当な結論は爆弾を使うことだな。」とこれに同意した。

ここに二つの重要な出来事を記録せねばならない。バートン・ベルンスタインは最初から、爆弾はルーズベルトとマンハッタン計画指導者との間に共通認識が確立されたときに使用されるべきである、と極めて明確に述べた。この主張はルーズベルトからトルーマンへの頼りになる遺産の中でも鍵になるものであった。従って、これら政策決定者が爆弾の使用問題に苦しんだとか、またはトルーマンが爆弾を使用するのに個人的で孤独な決定をしたということはない。後にグロ-ヴスは、「トルーマンの決定はいわば非干渉であり、基本的に今の筋書きを覆さないものであった。」と語った。これら勧告者はこの爆弾の使用問題を再検討する際に動員されなかったので、決定を下す際にトルーマンを補佐する人はいなかった。*

*トルーマンは、侵攻戦略を審理するためにそのような会議を催すことに固執したにも拘らず、原爆使用を吟味するために彼の顧問達を正規に招集する命令を出さなかった。彼はフーバーの危急の覚書を受け取った後にその会議を招集した。勿論この会議から、フーバーと比べてトルーマン寄りでないある科学者が疑問を呈したにしても、トルーマンはこの爆弾を使用する計画を見直すことはなかったであろう。

第二点は、多数の非戦闘員が住む標的に対して熟慮した上での決定に関する。標的の決定に一致して同意した人達には、彼らの選択が疑いもなく大きな分水嶺を越えたとは感じなかった。この瞬間は、長い政策決定過程の頂点であった。その過程とは、第一次世界大戦のカイザーのツエッペリンと爆撃機から投下されたずんぐりした爆弾から始まり、次いで第二次大戦までに理論化され、最初に枢軸国によってアジアとヨーロッパとで試され、英国と米国によってヨーロッパでそして最後に日本に対し最高潮に達した。その関係は後世のために忠実に記録された公式記録の中で理解され、認知された。標的の決定は、予定する照準点は真の軍事目的地点(重要な工場)でなければならないという要求に固執する米国流爆撃教義と一致した。スチムソンは「我々は住民地域に攻撃を集中してはならない」と言明したほか、原爆は軍用施設の攻撃に重点を置くべきだという明確な計画を推し進めた。バートン・ベルンシュタインが言ったように、その家族(女子、子供、そして爆撃時の昼間においてさえ少数の労働者)が「労働者の家屋」に住んでいるということを彼ら全員が承知していた。

爆撃の影響は過去のものとは異なったものになるというより、莫大な市民に災害をもたらすと言い表すほうがより正しい。3月の東京大空襲が十万人に上る日本人を殺したという事実を傍受通信によって知っていた。そのうちの一人、スチムソンは日本市街に対する焦土作戦に悩み、6月上旬遅ればせながらアーノルドに鋭く詰問した。陸空軍は出来るだけ精密爆撃を心がけるが、日本の市街の配置を説明し巨大な隣接地が焼失するのを容認せざるを得ない、とアーノルドは答えた。

トルーマンは6月25日の日記に、攻撃目標は「純粋に軍事目標」だとしたが、これは多分トルーマンがこの爆弾の威力を理解していなかったか、あるいは内心中止させたがったが不承不承是認したことを反映している。それを恐ろしい爆弾だと言いながらトルーマンはルーズベルト、そして科学者達を救った恐らく総ての顧問達と同様、この兵器の真の恐ろしさを知らなかったに違いない。一方、長老科学者であるブッシュとコナントとは、この巨大で恐ろしい兵器の威力を都市で実証しないならば、国民と首脳は核兵器の国際管理システムを強化するに必要な国家主権の放棄に応じないだろうと信じていた。

5月31日、会議の席上で恐らく非公式だろうが原爆を無住地域で爆発させ立証してはどうかと言う課題が提起された。この考えは幾つかの理由から退けられた。原爆が正常に作動するか保証はない、失敗したなら回収する人たちに全く反対の結果をもたらすだろう;日本側は原爆を搭載した爆撃機を撃墜するだろう、日本の将官達は印象付けられるのを拒むだろう、あるいは日本側は連合国の戦争捕虜を指定された標的地域に移動させるであろう。非戦闘標的への使用と言う問題はそこで終ることなく別の問題(戦後の核危機)に引継がれて行った。

デンマークの偉大な物理学者、ニール・ボーアがスターリンが原爆計画に関っていることをチャーチルに説いて信じさせようとした時、荒々しい拒絶に遭った。1944年8月、ボーアはルーズベルトに面会した。ルーズベルトは以前に三度、最高裁判事フェリックス・フランクフルターに語ったように核の軍事利用の国際管理が必要との指摘をされたようである。だが、大統領はその構想を履行しなかったばかりか、実際は反対の行動を命じた。彼は翌月、チャーチルと「 [この原爆計画]に関し、世界はその管理と使用の国際協約の見通しを知らされねばならない。」という提案を明確に拒否した後、ある協定にサインした。

戦後のビジョンを持った科学者はレオ・シラードであった。彼は急進的に変わる一つだけでなく多くの考えを持っていた。戦闘において大衆を犠牲にして驚かせるためにその爆弾を使用する(これはブッシュやコナントと同様の意見)。ウラン鉱床を確保するための先制攻撃に使用する。爆弾を日本に使用したあとソ連に接近する。米国はよく考えられた平和の青写真が決定できるような「圧倒的かつ対抗不可能」な優位性を持つようになるまで実験を控え、その秘密を保持するとの口実のもとに使用すべき、等々。

シラードはまた、科学者たち、特に自分は、閣僚並みの政策決定の役割を果たすべく協調すべきだと信じていた。最初彼はルーズベルトに(原爆を使用したあとソ連に意見を求めに行くという提案を持って)面会しようとしたが、大統領が急死したため約束は取り消された。次に彼はトルーマンに面会しようとしたがジェームス F.ビルネスに回された。シラードはトルーマンがビルネスを国務長官にしようとしていることは知らなかったが、ビルネスが原子力政策に主な役割を担うであろうと推量していた。双方が互いの意見を明らかにしたほかは、その会合でどんな話し合いが行われたかは明らかではない。ビルネスは多分ソ連と原爆の交渉する場合の政治的な影響をほのめかし、原子力に関する多くの事柄に全く無知であることを露呈したことだろう。シラードが研究を秘密裡に続けるべきだと強調した時、ビルネスは議会が支出目的に助言なしで膨大な金を充てそうもないと指摘し、現実と言う手口で忠告を与えようとした。ビルネスはこの来訪者の「全体的な物腰」から受ける好ましくない印象を思い出し、シラードの恩着せがましい口調と政策決定に関与したいという主張をしたことを示唆している。 この意見交換で得られたものはなにもなかった。

シカゴ大冶金研究所は核兵器政策に関する知恵の泉であった。ここでシラードを含むグループが後にフランクレポートと呼ばれた報告書をジェイムズ フランクリンを長にして作成した。この報告書は、唯一の安全な解決策として国際管理(「相互信頼と前向きであるとの上に立って、全ての国が彼らの最高主権のうちのある部分をあきらめること」)を是認した。この著者は日本に原爆を警告なしで使用することは米国に対する大きな国際的憎悪を呼び起こし、国際管理の確立を大変複雑にするだろうという不安材料を提起した。彼らは国際的観衆の目前で無住地域での原爆実験を行うことを提唱した;その後、国連の容認のもとで日本に使用することを是認した。

フランクと彼の同僚とは、奇妙で不合理な矛盾に立ち至った。この兵器が日本に降伏という衝撃を与え得ないという考えを捨てる一方で、専制ソ連政府が外国の検査員の自由な立ち入りを容認するだろう、というのだ。

フランクレポートはスチムソンの代理であるジョージ ハリソンを刺激した。彼は内部委員会に科学陪審員を設置し、日本を早期に降伏させることに限定してその実験構想を見直すよう要請した。

このパネルは次の報告をした: この兵器を最初に使用することについて我ら科学者たちの同意見が一致しているわけではない・・・我々は戦争を終結させ得る技術的デモを提案できない;直接軍事使用に替わる良案は見出せない。

このパネルの構成員は、科学者として原子力によって生ずる軍事的、社会的、政治的問題を解決する特別な資格を要求するわけではない、と鋭く指摘した。6月21日、この報告をもとにして内部委員会は、この兵器の軍事使用以外に代案はないことを確認した。* 同時にこの委員会は5月からの立場を逆転させて、この爆弾を使用する前に「もし適切な機会が来たら」ソ連に通知するよう勧告した。

* シラードは引き続き世間を騒がし続け、日本が降伏条件の説明を詳細に受けた上で降伏を拒否するまでは使用しない、とする陳情書に68人のサインを得た。この陳情書はスチムソンに届かなかった。オリンピックに対する日本の宣伝の過激な発表にかんがみて、この陳情書が幾分結果を変えたであろうという後の空論は控えめに見てもたいへん感動させるものであった。

プルトニウム爆縮機構が予想通り作動するだろうかという前からの疑問を確認するためトリニテイと呼ぶコード名の実験が行われた。6月16日午前5:30、ニューメキシコ州アラモゴルド北西方のヨルナダ デル ムエルトと呼ぶ谷で静的に準備された爆縮装置が爆破された。グロ-ブスの副官のトーマス F. ファレル陸軍准将は語る:

地上は昼間の太陽の数倍の明るさのサーチライトで光り輝いた。金色、紫色、バイオレット、灰色、そして青色であった。それは近くの山脈の頂上、クレバス及び峰を明るくそして美しく照らし出した...偉大な詩人たちが夢みるがしかし貧しくかつ不適切にしか表現できない。39秒後、最初に爆音が聞こえ、大気が震えた...ほとんど同時に強く、持続する、恐ろしい轟音が続いた。その轟音は最後の審判日を予告し、我々ちっぽけな者がこれまで全能の神が取っておいた力を使ってあえていたずらをするという不敬をしたと感じさせた。

実験成功の簡明で秘密報告に続いて詳細な報告がグローブスからポツダムにいるトルーマンに届いたのは6月21日であった。グローブスは爆弾の威力は「内輪に」見積もってもTNT換算で15,000と20,000トンの間であると誇らしげに報告した。その音は100マイル離れたところで聞こえ、180マイルまで見ることができた。グローブスはトルーマンに、地上のそこここで放射能が非常に高いが住民を避難させる必要はない、と報告した。この報告書にはファレルが爆弾の威力に関する図示説明とこれに関連してきた人達の広がる反応が添付されていた。彼は次のコメントを述べている:「この度の戦争について言えば、ほかに何事が起ころうと戦争を迅速に収束に導き、数千人の米国人の命を救う手段を今や手に入れることができた。」死は運である。

原爆を投下する任務は第509混成群に課せられた。司令官は若く優れた能力の陸軍航空隊の士官であるポール W テイベッツJr.大佐であり、彼はヨーロッパで多大の実戦経験を持ったB-29のテストパイロットである。始め、ヨーロッパまたは日本で爆弾を投下する二つの爆撃群を組織するように指示されたテイベッツは結局、混成の第509群だけを組織した。この爆撃群は爆弾を携行し投下するために特別に改造されたB-29の単一大隊とこの爆撃群が通常の手段を独立して実行できるようにサービスと補給を行う支援部隊よりなる。1945年7月、この爆撃群はテニアンに派遣された。

第509混成群は彼等の役割に必要な特殊技能にできるだけ近い模擬ができるよう12の訓練任務をこなした。それぞれのB-29は「パンプキン」と名付けられた大型の破壊爆弾1個を逆風に向かい最低高度30,000フイートで選定標的上に投下した。投下点からパイロットは少なくとも150度の急旋回をしてエンジンパワーに追風の推力を加えて、航空機と爆発点との間の距離をできるだけ離す。科学者たちは、爆風から10マイル離れてもB-29は突然2Gの加速度に見舞われるであろうと予測した。B-29は4Gに耐えるようになっていた。

原爆投下の作戦指令をスパーツ大将が書いた。7月24日、トルーマン大統領が原案を承認し翌日、スパーツへ戦争大臣スチムソンと参謀長マーシャルの名で命令が下された。この「最初の特殊爆弾」は8月3日以降に目視投下できる天候の下で使用せよとの条件がつけられていた。標的は広島、小倉、新潟、長崎の順に列記されていた。スパーツは更に「追加の爆弾が製造され次第、上述の標的に投下されるだろう」と語った。 明らかに、引き続いての攻撃が予定されていた。

第509群の報告書によると標的都市の選定において、事前の破壊攻撃を行わないことが主要要件であることを知っていた。そのリストから京都が明らかに落ちたのは戦争大臣スチムソンの直接干渉の結果である。彼はグローヴスの強引で粘り強い反対を押し切ってこの都市を削除した。スチムソンは日本に旅したことがあり、この古都の文化的重要性と華麗さを認め、その工芸品はたとへ百万の住民がいなくても惜しむべきであると主張した。そんな時でも、第509は標的として残したという莫大な戦後の示唆を引き起こした京都近郊に対する訓練任務を行い始めた。スパーツとニミッツとが共にワシントンの上司に連合軍の捕虜収容所があることを考慮するよう指摘したが、京都に替わる都市は長崎になった。

第509群の任務番号13は広島の「都市工業地帯」を第一目標として指定した。小倉兵器廠と市街地は長崎都市地帯に続く第二位にランクされた。この任務報告書は、広島はB-29焼夷弾攻撃によって被害を受けなかった本州最大の都市(京都を除く)であると記述している。1940年、広島の人口は344,000人で、「陸軍の街」であった。そこには第5師団司令部があり、乗船用の主要な港があると、述べている:

この都市の北東及び東側はすべて軍事地帯である。その中央北部に広島城で象徴される陸軍師団本部、無数の兵舎、管理棟及び武器保管庫がある。更に、下記の軍事目標がある:陸軍入隊所、軍用飛行場、陸軍補給処、陸軍被服廠、港及びドック地帯、幾つかの造船所と造船会社、日本製鉄所、鉄道操車場及び無数の航空機部品工場.... この都市のサイズが選定のもう一つの要素であった。最初のデータによれば、原爆によって蒙る損害半径は7,500フイートであると信じられていた。照準点を市街の中心に置くと、予測される損害は南方の港湾地域を除いて広島の全地域をカバーする。

任務報告書には記載されていないが、この都市に畑陸軍元帥の陸軍第二総軍司令部があることは米諜報機関の知るところであった。畑の司令部を含めて約43,000人もの兵士が、280,000から290,000人だけの市民の間に入り込んでいた。多分、広島は日本の大都市の中で市民に対する軍人の密度が最も高かったであろう。しかし、広島が日本の戦争遂行能力において非常に顕著な役割を演じたにしても全くの軍事都市に位置付けることはできない。*

8月3日、この最初の原爆を使用するに希望を持たせる天候となった:8月5日、気象予報士は翌朝が必要とする快晴が望めると予報した。ティベッツの支配下で、彼の母親の名エノラゲイを付け、ウラン爆弾を搭載したB-29は8月6日午前2時45分、離陸を開始した。科学的計測と観測を行う2機が続いた。それに先立って3機の天候偵察機が標的を偵察していた。ウイリアム S.パーソンズ海軍大尉は爆弾の指揮官として、日本への平穏な飛行中にリトルボーイをアーミング状態にした。

* 人口第7位の広島と長崎(同12位)が原爆投下以前に爆撃されてはいなかったのだろうか?ハンセルと次のルメイとが6月15日まで準拠していた作戦命令は両都市を除いた唯の33の「選定した都会の工場集中地」を規定している。7月3日、統合参謀本部は京都、広島、小倉及び新潟に対するいかなる攻撃も除外する公式命令を発している。従って、広島に対しては原爆投下以前に攻撃ができる唯一の時間帯は6月15日から7月3日までであった。その期間、第21爆撃団司令部の作戦期間は唯の6日間であった。そのうち、6月22日と26日は昼間目視爆撃の機会であったので航空機製造工場の攻撃に用いられた。その他の4日間は14都市の夜間攻撃に向けられた。これらの都市は日本の60の最大の都市の中から選ばれたが、一般的には東京と名古屋の工業地帯の衛星都市かあるいは独立した港と工業地帯であった。広島は帝国陸軍の訓練、貯蔵、及び輸送の中心であったがとりわけ航空機生産の戦争資材の生産においては重要ではなかったので、標的とはされなかった。一方、長崎は主要な造船の中心地であり、機雷敷設の観点からは余分であった。より重要なことは、標準のAPQ-13レーダーを装備した航空機が夜間あるいは増大した搭載量のもとで攻撃するのは容易ではない15都市のうちの一つであった。統合参謀本部から陸軍総司令部、太平洋陸軍、司令部....WARX 26350, 1945年7月3日(統合参謀本部の許可なく京都、広島、小倉及び新潟を攻撃してはならない、との統合参謀本部の電文),RG218,Geographic File,1942-1945,373.11 Japan(8-20-43),Pt.13,Box 117;USAF HC File760.01,1 Jul-2 Sept 1945, v.14, Headquarters Twentieth Air Force, Office of the A-3, Subject: Attacks on Small Urban Industrial Areas, 21 July 1945, AFHC; USAF HC File 760.01, Narrative History, Headquarters Twentieth Air Force, 1 Jul-2 Sept 45, v.1; XXI BC MR, Nos. 206-9, 210-12, 215-20, 223-31, 234-37, 240-43.

広 島

私が南向きに開いた広い窓を通して庭を眺めていると、真っ青の空から降り注ぐ太陽の光を反射して震えるように光る木の葉と木陰とが心地よい対照をしていた。広島在住の蜂谷道彦博士はこう述べている。そのころ彼は陸軍医師の若い従兄弟に、戦争は悲観的なものだと言った。その従兄弟は「参謀本部は、国民がなんと言おうと陸軍は勝利をものにする」と言ったと言い返した。接近してきた気象観測機が蜂谷の上空を横切り、7時9分空襲警報が発令された。その飛行機は飛び去り、警報は解除された。人々は仕事につくために防空壕から出てきた;召集された学童隊は防火帯を作るため、建物の跡を取り壊し始めた。「このサイレンの音が多数の広島市民の命を奪ったのです」と学生の木村進は断言した。どんな防空壕でも無数の命を救えたのだ。

エンジンのピッチ音が変わるとエノラゲイは退避運動するために急なバンクをした。見上げていた多くの人々は「その強そうな胴体の目もくらむような輝き・・・青空を横切る飛行雲」が目に入った。リトルボーイは43秒で高度580メートルまで落下し、照準点の相生橋から170メートル南東の島病院の裏庭上空で炸裂した。この原爆の威力はのちにTNT換算で12.5キロトンと計算された。そして10分の1秒間、目もくらむような光を発した。その光の中心で摂氏3,000度に及ぶ高温に達した。

市の北西2キロにある岡の上にドイツ人のイエズス派の司祭P.シオメス氏が広島に向いた窓の外を眺めていた。その時、「写真撮影に使うマグネシウムの光に似たぎらぎらした光」に視界を覆われた。直後、強力な熱波が襲った。彼は窓の近くに飛んで行ったが、ただ「光り輝く黄色の光」を見、「大きな炸裂音」を聞いただけであった。帝国陸軍医療調査団は、光は近くにいた人には黄色に見え、遠くの人には青色に見えたと報告した。遠くの目撃者は赤く輝く日没に例えた。この出来事に次の二つの言葉が生まれた:ピカとドン。ピカはきらめく、ぴかりと光る、あるいは輝く閃光を、ドンはとどろき、あるいは大音響を表す。近くにいた人はのちに爆発音は聞こえず、ピカだけだったと言う;シオメス神父のように閃光を見、ごろごろ音を聞いた人はそれをピカ-ドン(閃光-轟き)と呼んだ。

ピカは、近くでは輝き以上を意味する。のちにある米軍士官がグランドゼロからおよそ370メートル離れた石橋に、一人の男の影が刻まれているのを見つけた。その影は荷を積んだ二輪車を弾いた姿で空中に30センチ浮いていた。その男の影はアスフアルトを熱から保護していたが、その他は表面がタールに溶け込み、塵を吸っていた。ある銀行の建物で御影石の上にぼんやりしていた男の痕跡がその影として残った。双方とも、人間の生理学では抵抗できぬ速さで通り抜ける光の速度かそれに近い速度で蒸発したのだ。原爆で亡くなった人々の中で、幸運にも彼らこそ多分何も知らなかったことであろう。

この光は直進したので遠方にいた人々は露出した身体の表面にやけど痕を残している。詳しい研究によれば、閃光は半径3.2キロまでは「主にやけど」をさせた。「そのやけどは特殊な傷害で、日常生活で通常経験するようなものではない」。蒸発しなかったものの中で皮膚は特色として暗褐色または黒い色合いを呈し、たいていの犠牲者は数分または数時間のうちに苦しんで死んで行った。ほとんどすべての物は、生きとし生けるものだけでなく、この色調を呈したので、広島の廃墟は「褐色、火入れする前の陶器の色」のように見えた。

ピカドンは山岡美智子を捕らえた。動員された15歳のこの高等女学生は電話交換手をしていた。そこは原爆が炸裂した直下の爆心地から800メートル離れていた。彼女は「日本は勝利しつつある、と未だ信じている。私たちはただ耐えるのみ」と考えていた。明るい日光の中で手を目の上にかざして飛行機のかすかな音を見上げたその時、リトルボーイが炸裂した。「音は聞こえず、ただ何か強いものを感じました。それは恐ろしく強烈でした。私は色を感じましたが、熱は感じませんでした。黄色ともいえないし、青色でもなかった」彼女は熱波に包まれ、爆風によって持ち上げられてほうり投げられたのを感じた。彼女は石の下に横たわりまわりを見ることもできなかったが「苦痛と絶望のうめき声」を聞いた。また彼女は「火事だ、逃げろ。助けて、早く」という声を聞いた。熱波が火災を招き、負傷した人や動けないでいる人の上を駆け抜けて、莫大な死者を呼んだ。山岡の母は彼女を見つけ、兵士たちがぱちぱちする炎が身近に迫るなかで彼女を掘り出した。彼女の肌と衣服は焦げ、毛髪はライオンのたてがみのように抜けた。付近では、内臓を胴体内に押し込もうとする人がいた;頭のない人;足のない胴体;血の気のない、膨れあがった顔。彼女は友人に出会い、呼び止めた。その友人は始め応答せず、そして「山岡さん、貴女は化け物みたいだわ」その時初めて自分がどれほどひどく火傷を負っていることを知ったのだ。

シンボクスは朝鮮人で1937年から広島に住んでいた。彼女の家族は警報解除と共に防空壕から出てきて、「光り輝くピカ、そして巨大な音であるドン」そして暗闇に見舞われた。彼女は義母が叫んでいるのを聞き、落ちてきた破壊物の砕片に捕まって13ヶ月の息子を抱きながら横たわっているのを見つけた。その年上の女性は恐れをなして駆け出していった。彼女の夫が現れて、火の手が彼等の家に向っているにも関わらず残った二人の子供を見つけるために狂気のようになって掘りはじめた;遂に兵士達が彼等を強く引き戻した。彼らは市の運動場で周りの瀕死の人たちと共に一夜を過した。翌日、一旦彼等の大きな家があった所に戻ったがそこはまだ燃えており、「子供たちの死体があった。私が近づくと、子供の白いシャツに付いていたボタンの列が見えた。私の娘・明子は武夫の脇で体をちぢめて丸くなっていた。炎がまだ彼らを焼き尽くしていた」。

蜂谷博士の場合は、光る木の葉の映像は瞬間的に消えた;庭の影も消滅した;石燈篭がきらきらと発火した;爆風が彼の衣服を剥ぎ取り多数の傷をつけた。負傷した妻と共に道路に逃げ、重い門の下に押しつぶされた士官の頭部につまずいた。「ごめんなさい、どうか許してください」とヒステリックに死者に対して叫んだ。道路では隣家が揺れ、そして心を切り裂く音と共に道路に崩れ落ち、その直後に自分の家が壊れ塵埃が舞い上がるのを微動だにせず茫然自失して凝視した。蜂谷はよろめきながら彼の仕事場である 広島逓信病院の近代的なビルに向った。彼は人々とすれ違った。彼らはみんな全く無口で両腕を前に出して歩いていた。その前腕はぶらぶらだった。ある若い女性はこの挙動をよりいきいきと見たまま描写している:

私と同じ学校と思われる三人の高等女学生がいた;彼女らの顔やすべてが全部日焼けし、カンガルーのように両腕を胸の前に出し、両手首をぶら下げていた。彼女らの全身から薄い紙のようなものがぶら下がっていた。それは剥がれた皮膚であった。また燃え残ったゲートルを引きずっていた。彼女らはまさに眠れる歩行者のようにうろついていた。

蜂谷と彼の妻は、道路が死者で一杯になっているのを見た。ある人は一所懸命に飛ぼうとして死によって凍りついたように見え、またある人は巨人の手で高所から放り落とされたかのごとく、大の字になって横たわっていた。

その病院は瀕死の人や負傷した人たちでみるみる一杯になった。やってきた彼らは「白衣を着た医者や看護婦はどこ」と探していた、と蜂谷は書き残している。砕けた死体があたり一面を埋めていた;たちまちのうちに床と地面は糞便、尿そしてへどで覆われた。到着した同僚の花岡博士は貯水池が生きながら煮られたような人たちで一杯になっていたと語った。もう一人の同僚である勝谷氏はもっと恐ろしい目撃談を伝えた。その最悪の物語は、彼がすれ違った負傷した兵士についてであった。彼等の皮膚はことごとく焼け焦げ、皮膚がはがれたところの「肉は鮮やかで、しわくちゃで、顔がなかった!彼等の目鼻と口は燃えてしまい、耳は溶け落ちてしまったように見えた」。リトルボーイは朝の体操をしていた数千人の兵士を捉えたのだ。広島城にあった陸軍第2軍団司令部が完全に倒壊し、畑陸軍元帥以下全陸軍参謀が負傷したという電文を傍受してのちに公表された。この爆弾で第59陸軍の司令官である藤井洋二中将が死亡し、彼の「黒焦げになった死体のそばに燃えた刀があった」。

その数日、数ヶ月、数年の間、この災害は日本と連合国によって細かく調べられた。8月13日、帝国陸軍医療委員会は広島での大量死を二つの原因に帰した:大部分は爆風とその結果起こった火災による建物の破壊による死、それに爆弾の熱輻射による少数の火傷による死。診察を受けたあるグループの患者の95パーセント以上は火傷を負っており、うち三分の二は顔面、前腕及び両手に火傷をしていた。同報告書はこの爆弾は、半径2キロの範囲では日本式家屋を、半径500メートルの範囲では鉄筋コンクリートは倒壊しなかったが石造りのものをすべて破壊したという。戦後のある英国調査団の報告書はこれに同意すると共に、これら死亡した人たちの大多数は病理的見地から見て複数の致死的負傷を負っていたという。

しかし、熱と爆風だけですべての死を説明できない。蜂谷医師は8月7日から患者が嘔吐したり下痢したりし始めたのを見た:彼らは食欲を失ったのだ。その兆候は桿状菌による赤痢に似ていたので、最初、蜂谷はその爆弾が致死ガスあるいはおそらく、細菌を投下したのではないかという疑いを持った。もっと不思議なことは、数日の間見かけは負傷したように見えない人たちが虚弱さと吐き気を訴えたことである。9日目までに患者の皮下に小さな出血が始まり、咳をしたり、吐いたり、血便をしたりし始めた。シンボクスの夫は始めかき傷だけだったが、8月25日には髪の毛が抜け始めた。彼が死ぬ頃には「彼の体は黒くなった。血が皮膚からしみだした。ひどく匂った」。蜂谷は「人々はどんどん死んで行ったので、私は死を当然のごとく受け止め、それに敬意を表するのを止めてしまった」と告白した。

蜂谷医師とその同僚が解決しようと努力した問題は放射線病であった。この病気は爆弾から放射されたガンマ線が皮膚を目に見える痕を残さず貫通してひき起こされる。英国の調査団はこの恐怖を 冷静に説明している:

このガンマ線は血流の中の細胞ではなく、血液の各種の型の細胞を形成する骨髄内の原始細胞を攻撃する。従って血液の中にある既成の細胞が次第に死に絶え、通常は骨髄の中で作られた新しい細胞によって置き換えられるのだが、そうならなくなると深刻な影響が現れる。重病の場合は、ガンマ線が骨髄を文字通り全部死滅させた時である。この場合は骨髄内の3種類すべての細胞(赤血球・血小板・白血球)に欠陥ができる。赤血球の生成が止まると、患者は進行性貧血に悩まされ始める。血小板の生成が止まると、薄い血が皮膚や目の網膜、時には腸や腎臓、の中に小さいか大きい出血となってしみ出てくる。白血球の数が減ると、軽い症状の場合は血球数測定によって見つけることができる。重症になると抵抗力が減り、患者はある種の感染を余儀なくされる。通常、口腔から始まり唇、舌、時には喉に壊疽を伴う・・・爆発後、1週間で死にはじめ、3週間後にピークに達し、6から7週間後にほとんどが死ぬ。

広島は日本の都会の中で捕虜収容所がない数少ない都市の一つである。1945年10月、日本軍司令官によれば、20名の米軍捕虜、その頃捕らえられたすべての航空機乗員、が最初の原爆によって死んだ。第6陸軍司令部、1945年10月9日、主題:死亡した連合軍捕虜、総司令官へ、第10部隊;
第6軍司令部、1945年10月9日、行方不明の航空機乗員、日本陸軍第2軍団総司令官へ同じ部隊、1945年10月9日、主題:米軍捕虜の死傷者;
参謀本部長、第2復員本部、1945年11月16日、参謀本部長へ、米第6陸軍、RG407登録427、第2次世界大戦作戦報告書、第6陸軍106-1.3、box 2410、NARA。しかしここには少なくとも1名及び恐らく2または3名が爆撃後、日本人により殺された。Daws「日本の捕虜たち」333-334ページ。これらの死者は日本に抑留されている間に死亡した1万人以上の米国人捕虜のごく一部に過ぎないばかりか、「友軍の砲火」が原因で起こった唯一の例である。日本人の手で監禁された影響で日々死亡した連合軍捕虜と民間人の被抑留者の平均的な数はこの値の倍を上回ることだろう。 (注)NARA: National Archives and Record Administration