史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

A.マリアナ諸島の発見
(Discovery of Marianas)


1521年3月、英語ではフエルジナンド・マゼランとして知られるFernao de Magalhaes が探検の途中、マリアナ諸島に短期間滞在した。彼は、原住民のチャモロ族が大勢、高速で小型の帆をかけたカヌーを大変上手に操って、彼の探検船の周りを動き回るのを見て驚いた。彼はこの島々を三角帆諸島と呼んだが後に、チャモロを非常に誤解していたことを知り盗賊諸島と改めた。

マゼランはグアム島西南のウマタック村に逗留したと一般に信じられているが、確証はない。マゼラン研究家のアントニオ・ピガフェッタは単に、彼らは"北西に小さな島を、そして南西に二つの別の島を見た。この島のうち一つは他の二つより大きく高かった。"と記している。
他方、マゼランの旗艦の水先案内人は"そこにさほど大きくない二つの島があり、その間に来たとき船を南西に変針した。"と記している。(写真:テニアンよりサイパンを望む)

ある歴史家は、これらの記事はサイパンを北に、テニアンとアグイガン(羊島)を南に見た航路と考えたほうが、ロタとグアム間航路より妥当であると推測している。
従って、マゼランは、グアムではなくテニアンの南岸に上陸したかも知れない。しかし、歴史家の大半はグアム上陸を支持している。

1565年1月、デ・レガスピは太平洋を横断して帰る航路を探す途中、マリアナ諸島に立ち寄り、グアム島の浜辺に十字架を置きこれらの島々 はスペインの領土であると宣言した。
数週間後、彼はフイリッピンに着き、セブ島に植民地をつくった。そして、自分の孫を船長にした船を仕立てて、太平洋を横断してアカプルコに帰還させた。この航路がその後二百五十年間、ガレオン船による貿易に利用されることになる。

テニアンの原住民チャモロ族と西洋人が接触した最初の記録は1602年、マリアナに住んだフランシスコ会の宣教師であった。彼は、1601年に難破したガレオン船の生き残りが奴隷として売られ、テニアンにいると報告している。

1638年9月20日、マニラのガレオン船がテニアン北端から3マイルにあるサイパンのアギンガン岬沖で難破した。伝説によれば、チャモロ族のタガという貴族が多数の乗組員を救助したという。その中にフイリッピン総督の甥ドン ・マルコ・フエルナンデスがおり、スペインの記録によると、彼がタガに洗礼を授けテニアン最初のそして多分、マリアナ諸島のチャモロの中で最初のキリスト教徒にした。

スペイン人によるマリアナ占領は1668年6月15日、ジェスイット派のデイエゴ・ルイス神父、数人の宣教師及びスペイン人、メキシコ人及びフイリッピン人の守備隊の到着で始まる。ルイス神父はグアムに上陸し、その列島をスペイン国王フイリップの未亡人でグアムでの伝道の後援者であるマリアナ ・デ・オーストリアにちなんでマリアナ諸島と命名した。

グアム到着四ヵ月後、ルイス神父はテニアンを訪れた。カソリック教会の記録によると彼が二つの相争う党派の間に立ったとき、チャモロが投石器で石を投げつけた。しかし、その石が神父の衣に当ったとき埃に変わったという。この事実が彼を聖人に列する証拠としてバチカンに報告された。

1671年、アロンソ・ロペツ神父がテニアンに移り、子供の学校を設立し役所を建てた。また彼は最初にマリアナのかなり正確な地図を作成した。

1684年、グアムのチャモロが暴動を起こし、スペイン人が数名殺された。反乱を起こした多くのチャモロは北マリアナ諸島に逃げた。その年、テニアンのスペイン軍隊の兵士達がチャモロによって虐殺された。

1690年、代りに軍隊が到着して兵舎が立ち、役所も改築された。しかし、17世紀末にスペイン人とチャモロの間で公然とした戦いが暴発し、1695年にマリアナ軍司令官はサイパンを攻撃し、グアムからチャモロを駆逐した。彼がテニアンを攻撃したとき、チャモロは切り立ったごつごつした断崖で囲まれたアグイガン島が安全だと思いそこに逃げ込んだ。しかし、スペイン軍は断崖をよじ登ってチャモロをすべて殺すか、あるいは捕虜にした。
1698年までに、北マリアナ諸島のほとんどすべてのチャモロはグアムに連行された。疫病で死んだもの以外はそこでチャモロ部落に同化させられた。こうして、スペインのマリアナ諸島の統治が確立する。

1710年まで、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病がグアムを荒廃させた。1668年にデイエゴ・ルイス神父が来島したとき、100,000人と見積ったチャモロ族の人口が、3,000人を少し超えるまでに減少してしまった。今日でさえ、スペイン統治以前の土着のチャモロは多めに見積って40,000から50,000人とされ、その減少は劇的といえる。

B.スペインの統治(Spanish Administration)

北マリアナ諸島の人口が激減して以来、英国人のアンソン卿が1742年8月、砲60門を備えた砲艦 ・センチュリオンに乗って世界一周の途中に上陸するまではテニアン訪問の記録はない。艦隊の他の船を失った彼はグアムのスペイン人を襲おうとした。それをあきらめて支那に向けて去るまで、テニアンに二ヶ月近く滞在した。

滞在中アンソンは、タガ・ハウスの巨大な支柱が全部立っているのを見た、と述べている。これは、ラッテ構造の安定性についての重要な証言である。彼はまた、テニアンの土地は肥沃で、スペイン人が持ち込んで野生化した牛・豚 ・羊などが島を徘徊していると報告した。

アンソンが島に着いたとき二人のスペイン人が住んでおり、彼らがこれらの動物を島に持ち込んだことを知った。時折、スペイン人がこの島に人を派遣して動物を殺し、グアムの軍隊のためにその肉を塩漬けにした。

その他、世界を旅する人たちはテニアンを食料調達のための滞在地として利用した:1765年にジョン ・バイロン艦隊司令官、1767年にサミュエル ・ウオリス船長、1788年にトーマス ・ギルバート及び1789年にモルチマ大尉等。

1815年頃、カロリナ人の二つのグループが台風で荒廃した自分達の島を離れ、マリアナに移住した。一つのグループはグアムに滞在し、サイパンに定住する許可を得た。見返りにカロリナ人は毎年、テニアンからグアムへ塩漬け肉を、彼らのカヌーで二艘分運搬することになった。彼らはそれに同意し、カロリナ人がアラブワルと名付けた現在のガラパン村に定住した。

1818年、ルイス ・デ・フレイシネ船長がテニアンに寄り、副長官の家を訪問した後、"彼の客間でこの島のすべての論題が取り仕切られていた。そこには12人ほどいた。我々は屋敷を見せてもらった。また四軒のみすぼらしい家畜小屋があり、その下に野豚の見張り役の召使が眠っていた。"と報告している。

1827年には、マリアナを訪れたマニュエル ・サンはタガハウスのラッテストーン12個のうち、7個が立っていると報告した。また、彼はこの島に家具や家を作るための良い堅木が豊富であることを知った。

1835年、マリアナのスペイン総督は、今はハンセン病と呼ばれているライ病患者を隔離することとした。男子患者をサイパンに移し、女子患者はグアムのアデラップに残した。少しして、男女ともテニアンに移し、ライ病患者保護局を設けた。患者約20人を海岸沿いの草ぶき屋根の小屋に収容し、この群落が肉やタバコを売って自活できるようにした。

二年後、天然痘の流行がテニアンの島全体に及んだ。この時、労働者二人がサイパンに逃れて助かった。

C.米西戦争(Spanish-American War)

1898年4月、米国はマリアナでは何もさせてくれないと言って、スペインに宣戦を布告した。グアムにはスペインの守備隊がいたが、米巡洋艦チャールストンの司令官ヘンリー ・グラス艦長は6月20日グアムを占拠し、スペイン政府の官吏達すべてを捕虜にして連れ去った。その結果、北マリアナ諸島は無政府状態に陥った。米国は西米戦争の後もグアムに居座ったので、スペインは他のマリアナ領をドイツに譲渡した。こうして、グアムのチャモロは北方に住む連中から行政的に切り離されてしまった。

1899年5月、ユージン ・ブランコ大佐がフイリッピンのパムパンガン地方からの分遣隊とともにサイパンに来て、ドイツによる内部統治を確立した。

6月30日、スペインとドイツの間で交換文書が署名され、1899年7月1日付でマリアナ諸島は公式にドイツに属すことになった。サイパンで統治権の受け渡しが行われたのは11月17日で、サイパンの北マリアナドイツ地区事務所の初代所長にジョージ ・フリッツが就任した。

スペインはその230年間の積極的な植民地経営の間、マリアナ諸島に多くの変化をもたらした。カソリックを導入したが、チャモロの人口を劇的に減少させた。

一方、とうもろこし、甘藷、かぼちゃ、西洋かぼちゃ、コショウ、きゅうり、とまと、たまねぎ、にんにく、豆、なす、パイナップル、メロンの一種、すいか、レモン、オレンジ、ピーナッツ、コーヒー、カカオ、カサーバを持ち込んだ。
彼らはまた、水牛、牛、豚、山羊、猫、犬、馬、らば、鹿、ねずみ、及び多分、鶏を輸入した。

D.ドイツの統治(German Administration)

ドイツはサイパンに本部を置いてマリアナを統治した。
ジョージ・フリッツによれば、テニアンにはチャモロ36人とカロリナ人59人が牛千頭、無数の豚、山羊及び犬及び野生のパパイヤやグアバの木とともに住んでいた。フリッツは、犬が他の動物を殺すので50ペニッヒを下賜して犬隠しをさせた。
また彼はグアムのチャモロを、交通と土地使用の自由を保証して北の島へ誘致しようとした。カロリナ人の移住と相まって、この企ては三分の一ほどの人口増につながった。

フリッツの企画を受け入れた人の中に、グアムのピチに住むデラ ・クルツがいた。
彼はドイツ警察軍の軍曹で、その胸にドイツ国旗を刺青していることで知られていた。彼は野牛を投げ縄で捕らえる能力があることでも有名であった。最後に彼はテニアンの野牛を捕え、ハゴイのドイツ牧場に連れてくる仕事についた。 彼はテニアンに住み、そこでロープの「わな」を作る才能に秀でていることから“ラッソー”というあだ名がついた。彼の子孫は今日、テニアンの“ラッソー”氏族を構成している。1914年に日本人がやってきてもデラ・クルツは漁業と農業をし、今もまだテニアンを自由にさまよっている野牛、豚や山羊を捕獲して生計を立てていた。

数人のチャモロは、他のドイツ地区へ送られた。四人の若いチャモロはヤップ島へ行き、電信交換手の訓練を受けた。そのうちの何人かの子孫が最後にはマリアナに戻った。その他のチャモロは支那の青島にあるドイツ学校に入った。

1904年、テニアンは後にテニアン興業と呼ばれ、牛肉を生産し輸出する会社にリースされた。その会社のオーナーは二人のドイツ人と一人のチャモロであった。

日本人はこのドイツの統治期に、マリアナで最初に投機事業を成功させた。1906年、比企株式会社と村山株式会社の二つの商事会社が活動していた。資金問題のため、1908年に両社は合併し南洋貿易会社になった。
南貿またはNBKと呼ばれたこの貿易会社はたいへん成功し、年間16から30隻の船をマイクロネシア・横浜間を運航し、米国領土のグアムへも寄航した。1,906トンのゲルマニア号がその当時の島々に補給する主な船であった。この船は年三回、シドニー、オーストラリア及び香港の間を航海し、パラオ、ヤップ、サイパン、チューク、ホンペイ、コスラエ、ジャルイット及びラバウルに寄航した。

ドイツのマリアナ支配は短期間で終った。1914年夏、第一次世界大戦が始まり8月に日本はドイツに宣戦を布告し、ドイツがマイクロネシアから出て行くよう強制した。10月14日、戦艦 ・香取に乗った日本海軍の兵隊がサイパンに上陸し、テニアンとその他の北マリアナ諸島は日本の統治下に入った。 写真:戦艦香取にちなんでサイパンのガラパンに建立された彩帆・香取神社。