史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

A.松江春次

1914年11月、臨時南東群島防備隊に編入された第2南海大隊がサイパンに司令部をおき、島々を軍事管理下に入れた。
写真:サイパンに咲き乱れる真紅のブーゲンビレア(bougainvillea)

1915年春、日本政府は数回マイクロネシアの科学探査を行い、島々が開発によりどの程度の経済的潜在能力を持っているか調べた。これが経済開発の道を開き戦後、この島々に対する日本の主張を確実にする助けになった。英国は日本に地中海の対潜パトロールをしてもらう見返りとして、第一次世界大戦後に日本のマイクロネシア領有を支持するとの秘密協定を結んだ。これが1917年、日本のこれらの島々に対する主張を受け入れる決定的論拠になった。

1919年5月、米国の反対にもかかわらず国際連合の最高会議は日本にマイクロネシアの委任権を与えた。国際連合は、米国の反対を聞いたあと1920年12月17日、日本のマイクロネシアに対する主張を再び是認した。ワシントンD.C.での日本と米国及び他の世界列強との間で重要な交渉が行われた結果、米国は日本がグアム以外のマイクロネシア諸島を支配するC級委任統治とすることに合意した。そして1922年2月11日、日本のマイクロネシアの委任権が発効した。

1922年3月、総理府の下に日本民政の南洋庁が設立され、それまでの海軍の管理を引き継いだ。1924年、南洋庁は総理府から外務省に移された。
日本の植民地政策は次の四点である:
 経済開発
 労働力の輸出
 新植民地の住民の日本人化
 戦略的軍事力の優位

日本はスペインやドイツの領有時代にも、マイクロネシアでの商売に成功を収めていたが、領有後はなお更であった。それは、可能性のありそうな経済的機会を十二分に科学的な探求を行い、成功しそうなものについては政府が援助して進めた結果であった。

南洋貿易会社(南貿)はドイツ統治時代に粘り強い努力の結果、かなりの優位に立っていた。日本がマリアナ統治を獲得してから、南貿は日本海軍からマリアナ海域での海運に関して独占的な契約を得た。しかし1917年、南貿に代わって日本郵船会社(NYK)が日本・クロネシア間に就航することとなった。NYKは神戸 ・ロタ間をサイパン及びテニアン経由で年48航海の定期航路を開いた。しかし、南貿はその多くの貿易の販路とそのバス路線ばかりでなく、島々間の海運を運営し続けた。南貿の補助モーター付の帆船はすべてのマリアナ諸島を月一回、周回した。清水商会と呼ばれた会社はその頃は唯一の民間海運会社であった。

日本は、台湾で砂糖事業に成功していたので、同じ能力を持つマリアナに目を向け始めるのに時間を要しなかった。最初にサイパンで砂糖製造を始めたのは、西村拓殖と南洋殖産だが両社とも資金難に陥り失敗した。朝鮮人労働者が島に取り残された。

次いで、すぐれた技術と不撓不屈の精神を持った一人の男が現場を見にやってきた。松江春次はルイジアナ大出身で、台湾での砂糖栽培に成功していた。彼はサイパンの問題を研究し、1921年までに彼にマリアナで砂糖黍を栽培させてくれる東京の後援者を納得させた。彼は南洋興発株式会社(NKK)を興し、仕事を始めた。

1922年、沖縄から労働者を連れてきて、二つの破産した会社から取り残された朝鮮人と一緒に仕事を始めた。彼らが島を開墾し穀物を植える間、松江は砂糖黍を工場へ運搬する鉄道を建設した。1924年までに、鉄道の出費がかさんだために殆ど失敗しそうになった初期段階の困難を経て、利益が出るに十分な量の砂糖を日本へ船積みできるようになった。1926年、彼は砂糖精製工程の副産物の糖蜜を利用する蒸留所を建設した。すぐに彼は“本物のオールド ・スコッチ・ウイスキー”(サイパン産)を日本に出荷した。

1928年までにサイパンは刈入れ期に一日1,200トンの砂糖を日本へ輸出した。松江の努力を支えるため、南洋庁はサイパンからの輸出が取り扱えるようにタナパクの港湾設備を拡張した。日本、沖縄及び朝鮮人労働者の日本製品への需要が急増しているのにも対応せねばならなかった。

B.テニアンの繁栄

他のどのマリアナ諸島以上に、また他のどの日本の領土以上に、テニアンは日本が作った、またはより正確には松江が作った島である。1926年、NKKはテニアン全島をリースした。第一次世界大戦中、初期の経済的失敗の後、日本はテニアンを事実上見放した。1926年でもテニアンはまだ無人島であった。日本牧場のために、野牛や豚を捕らえてきた“ラッソー”デラ ・クルツとその家族以外は、テニアンにチャモロ族はいなかった。1926年に彼らの孤独は突然終わりを告げた。

サイパンでの事業を十分掌中にした松江は、資金、労働力及び専門技術をテニアンに注ぎ始めた。1930年までに、テニアン最初の砂糖製造所を稼動させた。みすぼらしい小さなサンハロン村が、近くの浅い港に沿って工場や倉庫が出来て新しい町になった。この工場の緩やかな坂の上に、松江は鉄道車庫、事務所、クラブハウス、薬局、酒保及び約70軒の会社の建物を建てた。

そして松江は、島をきちんとした小さな碁盤目に分け、それを更に小作人の区画に分割し、すべてを狭軌の鉄道で結んだ。道路や鉄道の連接部には小さな村が出来た:マルポ、カヒ、チュル及びウシ。その結果、1935年には新しい町を中心に人口は14,000人を数えるようになった。

チャモロなしで、日本人が日本人のために作ったテニアン町は日本の田舎の町に似ていた。中心街は商店、学校、美容院、映画館、写真館、金物屋、魚屋、お寺、料理店及びお茶屋で立て込んでいた。

売春は表向き不法であるが、マイクロネシアの主な町々には花柳界があり、テニアン町も例外ではなかった。料理屋には七、八人の女性がおり、そのうち数人は求めに応じた。テニアン町は南亭、八千草(はっせんそう)及び松月堂の設立を自慢した。沖縄人達は見晴し、小松、南月で夜を楽しんだ。

テニアンの産物は砂糖だけではなかった。日本人はまた、甘藷、綿及びコーヒーを栽培した。この全農地化によって、この島の自然の森林が剥ぎ取られ、多くの古代からのラッテ遺跡が地ならしされてしまった。何人かがペストに罹った。日本人の繊細さにつけこんで“アフリカかたつむり”が大流行した。砂糖黍の穿孔虫を駆除するために持ち込んだヤドリバエは悪い蚊の問題を引き起こした。

1937年までに、テニアンは年に砂糖42,180トンと糖蜜13,643トンを輸出した。これらの品物はテニアン町の前にある長さ150ヤードの埠頭から貨物船に積み込まれた。また、グアガン岬のすぐ東にある小さな入江に3,000から4,000トン級の船を二隻収容するに十分な長さの埠頭があった。その年の総輸出額は12,276,409円、総輸入額は3,261,833円であった。

この生産性はすべて外国の労働者によって達成された。1918年にはテニアンは全く無住であったが、1935年までに日本が領有している他の島と同様、人口は劇的に変化した。この時点でこの島には少数のチャモロとカロリナ人と、14,108人の日本人がいた。チャモロ族は三等民で、日本人のみ島民と呼んだ。本州からきた日本人は一等市民、沖縄・朝鮮からきた日本人は二等と格付けされた。

C.戦争の影

前のドイツと同様、日本にとっても世界の出来事がマイクロネシアでの経済的な成功の終結を早めた。数年前から、米国は日本が満州、支那及び台湾へ進出するのに反対していた。それに対し日本は米国がハワイ、グアム及びフイリッピンを開発するのに反対した。必然的に、日本と米国はそれぞれの太平洋の影響圏で戦争の準備を始めた。

1934年、アスリート飛行場がサイパンに完成した。翌年、水上機基地がサイパンのプンタンに出来た。同じ年、日本は国際連合から脱退した。1935年、グアムのスメイ米海軍航空基地に水上機基地が完成し、パンアメリカン航空にリースされた。

日本は戦争が太平洋に及んでくると確信したとき、チャモロを戦略的な防衛基地の一つになるであろうテニアンから他に移すこととした。1936年、殆どのチャモロはロタ島に行きたいと申し出て、そこに移った。デラ・クルツとその家族は、彼らに約束された土地を受けず、より良い機会のあるサイパンへ移り住んだ。数人のチャモロは、必須の商売のために日本政府で働いていたため、テニアンに残った。

1939年、テニアンで大規模な軍事工事が始まった。そこでは少数の労働力しか得られなかったので、1,200人の日本人囚徒が飛行場建設のため送られてきた。彼らは1940年には送り返された。

この事態を見て狼狽したのは、この島を故郷と呼ぶようになった14,000人の日本人達であった。1941年には、移住してきた労働者達は二つの砂糖工場及びその関連施設、そして十二の狭軌鉄道で働いていた。40トンの機関車が長さ40マイル以上の軌道を、収穫物を牽引して農場から工場へ運んだ。テニアンは耕作できる土壌(15,000エーカー)の90パーセントが栽培され、サイパンよりかなり多い砂糖を生産していた。サイパン支所長の山口与三郎とそのテニアンの事務員の邦夫はテニアンの大きな病院、郵便局、監獄その他の公共施設を監督していた。これらはすべて破壊される運命にあった。日本の軍事・政治の指導者達は米国との戦争に突入するときが来たと決心した。