史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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壇ノ浦
みもすそ(御裳)川は、国道9号線の下で壇ノ浦に注ぐ小さな谷川である。みもすそ川公園は国道と海岸線の間に挟まれ、対岸まで大きく弧を描く関門橋の下にある風光明媚な景勝の地である。
文治元年(1185)3月、海峡の東側海上で源平合戦が行われ、最後にここ壇ノ浦沖で勝敗の帰趨が決まった。二位尼(清盛の妻で安徳天皇の祖母:時子)は8歳の天皇を抱き、三種の神器を身につけて入水した:

安徳帝御入水之処
二位尼辞世
  いまそ知る
  みもすそ川の
  御なかれ
   波の下にも
   都ありとは

また幕末、長州藩が壇ノ浦に置いた砲台は、沿岸の他の砲台と協力して沖合を通過する外国船を砲撃し、のちの下関海戦の端緒となった。
天保製長州砲
幕末、関門海峡における6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月長州藩兵と英・仏・蘭・米四カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩の青銅砲はすべて戦利品として国外に運び去られ姿を消していた。 1966年春、渡欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリッド博物館に保管されている攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難であったところ、郷土出身の外務大臣阿部晋太郎氏の努力とフランス政府の好意によって1984年6月、貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、フランス政府の了解を得、創立20周年記念事業として、これを原寸大かつ精密に模造し下関市に寄贈した。 同長州砲は天保15年(1844)萩藩の郡司喜平冶信安の手になるもので、幕末日本人の危機感を象徴する歴史的逸品である。 鎖国に眠っていた日本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこのもの言わぬ証人を、海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平和を祈念する趣旨に他ならない。

赤間神宮

関門橋の下を通って、車の往来の激しい国道9号線を下関市内に向かうと、右手高台に赤間神宮が見えてくる。 今から800年前、源平最後の合戦の際僅か8歳で壇ノ浦に崩じ給うた安徳天皇を赤間関紅石山麓の阿弥陀寺境内に葬った。建久2年(1191)朝廷は長門国に命じて御陵上に御影堂を建立し、勅願寺として天皇のご冥福を祈られた。 明治時代に入って、神仏分離令に従って阿弥陀寺を廃し御影堂を天皇社と称した。明治8年(1876)社号を赤間宮と改め、社殿を造営した。昭和5年(1931)官幣大社に列格され赤間神宮と称せられた。しかるに、太平洋戦争の空襲により神殿以下悉く焼失した。昭和40年(1965)4月復興造営成り、御祭神780年大祭が催された。赤間神宮の左隣には安徳天皇陵がある。 赤間神宮の水天門は朱塗りの竜宮造りで、淀川沿いの石清水八幡宮、神戸三宮の生田神社などと同じ雰囲気がある。丘の中腹に位置するので、海峡を通過する船からよく望見できる。 境内に壇ノ浦で亡くなった平氏一門を祀った七盛塚がある。この塚は前後二列になっており、前列の塚は次の通り:
 参議中納言 平教盛(のりもり):清盛の弟
 大将中納言 平知盛(とももり):清盛の四男
 参議修理太夫 平経盛(つねもり):清盛の弟、清盛死後一門の長老
 副将能登守 平教経(のりつね):経盛の子、義経を追いつめるが討ち漏らす
 右近衛中将 平資盛(すけもり):清盛の長男重盛の子
 左近衛中将 平清経(きよつね)
 左近衛少将 平有盛(ありもり)
長兄重盛の死後平家一門を背負ってきた知盛は、安徳天皇と二位尼の入水を見届け、「見るべきほどの事をば見つ、今はただ自害をせん」と言って入水した。知盛の墓と伝えられる石塔と供養塔が対岸門司の甲宗八幡神社にある。もと神社裏山にあったが昭和28年の門司大水害の折崩れ落ちたので、拝殿の隣に再祀された。

境内に次の解説があった:
耳なし芳一の由来
その昔、この阿弥陀寺(現赤間神宮)に芳一といえる琵琶法師あり。 夜毎に平家の亡霊来たり、いずくともなく芳一を誘い出でけるを、ある夜番僧これを見あと追いければ、やがて行くほどに平家一門の墓前に端座し一心不乱に壇ノ浦の秘曲を弾奏す。
あたりはと見れば数知れぬ鬼火の飛び往うあり、その状芳一はこの世の人とも思えぬ凄惨な形相なり。さすがの番僧慄然として和尚に告ぐれば一山たちまち驚き、こは平家の怨霊芳一を誘いて八裂きにせんとするぞ、とて自ら芳一の手足に般若心経を書きつけけるほどに、不思議やその夜半、亡霊の亦来たりて芳一の名を呼べど応えず見れども姿なし、暗夜に見えたるはその両耳のみ、遂に取り去って何処ともなく消え失せにけるとぞ。
是より人呼びて耳なし芳一と謂うなり。

日清講和記念館

赤間神宮の左手に奇兵隊の屯所にもなった阿弥陀寺があったが明治初期、廃仏毀釈に遭って廃寺になった。その跡に料亭春帆楼が建ち、のちに日清講和の会場になった。現在は春帆楼右脇に日清講和記念館が建っている。

日清講和記念館
この記念館は、日清講和の会場に使われた調度品類や貴重な資料などを公開するため、昭和12年に開館されました。 展示品の中でも、特に椅子類はかっての浜離宮の調度で、ランプ、ストーブ、硯箱、インク壷、朱肉入れなどと共に講和会議の様子を今に伝える貴重な歴史資料です。
明治28年(1895)に隣接する春帆楼を会場に行われた日清講和は世界の外交史に残るもので、日本全権弁理大臣伊藤博文と清国講和全権大臣李鴻章の二人を中心に両国の代表11名が列席して和議交渉を行いました。 なお、この交渉の途中で、清国全権李鴻章が暴漢によって狙撃され、負傷するという事件が発生しました。
下関市教育委員会
1894年(明治27)8月、日清戦争が始まり9月17日、大日本帝国海軍連合艦隊と清国北洋艦隊(戦艦定遠、鎮遠、巡洋艦来遠、経遠、靖遠、致遠、超勇、楊威、広甲他4隻)と海戦し戦闘4時間、北洋艦隊の巡洋艦4隻が撃沈された。こうして日本は黄海の制海権を確立した。その後、戦況は我が国の圧倒的有利に進み、翌年清国は日本に講和の打診を始める。 1895年3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊した。翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が催され、4月17日に講和条約が調印された。
その要点は、
清は朝鮮から手を引いて朝鮮の独立を認めること。
遼東半島・台湾などを日本に譲ること。
当時の日本財政収入の約3倍にあたる3億円あまりの賠償金を支払うこと。
清が欧米諸国と結んでいた不平等条約を日本とも結ぶこと。
       北からアジア侵略をめざしていたロシアはドイツ・フランスと結び、遼東半島を清に返すよう日本に強く要求した。三国干渉である。この圧力によって日本は清からの代償金とひきかえに遼東半島を清に返還した。

当時は海外での権益の獲得に列強がしのぎを削っていた。日本もそのうちのひとつと言えばそれまでだが、ロシアの南進阻止が日本安全保障上最大の関心事であり、下関条約はこれに配慮した内容のものであった。遼東半島返還はのちの日露戦争で非常に不利を強いられることになる。

その三年後の1898年(明治31年)3月、ロシアは旅順、大連を清国より租借し、ここに軍港を設け要塞を築いて極東を制圧する根拠地とし冬季、長崎湾に仮泊していたロシア極東艦隊は不凍港 ・旅順に移って行った。日本は目前に迫ったロシアの南下にそなえて、清から得た賠償金などで軍備の増強に力を入れた。

1904年(明治37年)2月10日、ロシアに対する宣戦の詔勅が下った。我軍は海上から旅順港口の封鎖、陸上から旅順の後背地である203高地の攻撃を敢行して、5ヶ月にわたる猛攻の末59,000人の死傷者を出して明治38年1月1日、旅順を攻略し極東のロシア海軍力を一掃した。

第二次世界大戦最中の1943年11月27日、英米華三国はカイロ宣言で日本に次の要求を突きつけた:
右同盟国の目的は日本より1914年の第一次世界大戦の開始以後に日本が奪取しまたは占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、ならびに満州、台湾および澎湖島のごとき日本が清国より盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。日本はまた暴力および貪欲により日本が略取した他の一切の地域より駆逐されること。

日本は上述の領地を奪取・盗取して自国の領土に組み入れたわけではなく、列強が注視する中で交わした条約によって取得したのである。日本はこの屈辱に満ちた要求を到底受諾するわけにはいかなかった。

2004年、中国原潜がわが国の領海を侵犯し両国間が一気に緊張した。この事件によって中国は潜水艦技術のお粗末さを露呈した。香港の新聞は「今もし日中が戦えば、日清戦争当時の黄海海戦のように中国の敗北に終わるだろう 」と報じた。中国は経済発展に伴い軍事力の強化を図っているが、軍事技術は同朋のロシアが弱体化した今、ドイツやフランスに頼らざるを得ない。わが国と米国は東アジアの軍事バランスが揺らぐとして、両国に中国へ武器輸出せぬよう警告している。

紅葉館
春帆楼脇の小道を山肌に沿って西に進む。この道は日清講和交渉の際、李鴻章が狙撃された傷が回復したあと、その先にある宿舎・引接寺との往復に使ったといわれる。途中に紅葉館(藤原義江記念館)があると聞き、案内標識に従って階段を登って立ち寄ってみたが当日は閉館であった。そこは下関海峡を眼下に見下ろす絶好の地である。義江は高貴な英国紳士風のオペラ歌手で、「出船の港」、「出船」、「鉾をおさめて」などの歌謡曲で一世を風靡した。大阪で藤原歌劇団が公演した歌劇「カルメン」、「ラ・ボエーム」、「椿姫」、「蝶々婦人」等を観劇に行ったことがあるが、主役は決って藤原義江であった。その藤原義江が幼年時代を過したのはここか、と門前で深い感慨を催した。

後で聞いたことだが訪問前に予約電話を入れておくべきであった。一年後に下関を訪れた際、二度電話を入れたが通ぜず、再び訪問の機会を逸した。2004年7月のある暑い日、唐戸から歩いて坂道を登り正午前に門前にたどり着くと、11時30分から13時0分までは昼食休みとの掲示がしてあり、三度訪問がかなわないかなと思った。幸い、門扉は開いていたので中庭までは立ち入ることが出来た。蔦がまとわりついた三階建の洋館、庭から見下ろす海峡ともに期待通りの素晴らしい風景で、館内を見なくとも十分満足してもと来た途を戻って行った。

紅葉館
下関在住の作家古川薫氏の直木賞受賞作「漂泊者のアリア」によって改めて全国的な注目を浴びた下関出身の世界的なオペラ歌手藤原義江(1898-1976)の記念館です。藤原義江は父が英国人、母が日本人で、イタリアで学び、英国や米国でも活躍したわが国オペラ界の先駆者です。記念館は藤原義江の父のリードが住んでいた館で、関門海峡を見下ろす高台に立っています。近くには源平船決戦の壇ノ浦古戦場、平家一門と運命を共にした安徳天皇を祭る赤間神宮、旧英国領事館等の名所旧跡が点在しています。

藤原義江
テノール歌手、父は英国人。新国劇をへて戸山英次郎の名で浅草オペラにデビューした。イタリアに留学、欧米各国で演奏活動を行う。1934年藤原歌劇団を創設、日本のオペラ運動の推進に大きく貢献した。当時の有名な演奏家との交流も多くトスカニーニも藤原義江の演奏を聞いたという。

藤原歌劇団
藤原歌劇団は、本格的な日本の歌劇団の草分け的な存在。日本で初めて本格的にオペラを上演し、以後のオペラ運動を主導してきた。藤原義江を中心に1934年に創設され、同年プッチーニの 「ラ・ボエーム」で旗揚げした。1952年にはニューヨークでローゼンストックの指揮により「蝶々婦人」を上演し注目される。これは、日本の歌劇団初の海外公演となった。

戦後、もう一つの声楽家団体・二期会が生まれ、藤原歌劇団にも出演して日本オペラ界を複雑にした。
二期会
1952年(昭和27年)、当時最も盛んな演奏活動を行っていた三宅春恵、川崎静子、柴田睦陸、中山悌一の4名が中心となり、志を同じうする声楽家たちが集まって、声楽家団体「二期会」を結成した。 わが国洋楽運動におけるそれ以前の時代を第一期とみなし、その時代の先人たちの苦労を偲ぶと共にその偉業を継承し、更に発展させることを使命とする「次の世代」の人々の集団であるとの自負から「二期会」と名づけられた。

亀山八幡宮
国道9号線に沿って唐戸に向け進むと、右手に亀山八幡宮が見える。ふぐの集散地として全国に名高い下関地方卸売市場(唐戸市場)とは国道を隔ててほぼ正面にあたる。
亀山八幡宮の御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后及び仁徳天皇である。貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請された。八幡神が宇佐から石清水八幡宮へ勧請される途中、海峡を渡り当時島だった亀山の麓に舟をつながれた。その夜、「この山清浄なり。我もっとも愛す。暫くの間祭祀し奉り道を進むべし」と託宣が下ったので、供の勅使(奈良大安寺僧・行教律師)は国主に命じて仮殿を造営させて京に向われたという。

亀山八幡宮の境内に次の掲示があった:
江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外敵防御策をとり、長州藩主毛利元周公は亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。 文久3年(1863)5月11日午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商戦攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。
同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。敵弾は楼門をかすめるだけで社殿守兵とも損傷なく、時の人はこれを神威なりと矢よけ八幡宮と称えた。
翌年8月の四ヶ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ開国、尊王討幕戦を経て、明治維新へと急速に時が流れた。 亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのであった。
下関市

文久3年4月、長州藩は彦島・六連島・蓋井島等の古塁を廃し、新たに彦島から長府に至る15キロの区間の要害14箇所を選んで砲台を築き、117門の青銅製大砲を配備した。
山床砲台、弟子村砲台(以上彦島)
永福寺砲台、専念寺砲台、亀山砲台、杉谷砲台、駕建屋砲台、洲崎砲台、八軒屋砲台、御裳川砲台、壇ノ浦砲台、茶屋砲台、城山砲台、関見砲台

亀山八幡宮の境内の奥に次の碑(写真)が建つ:
林芙美子放浪記之一節
母は他国者と一緒になったと云ふので鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは山口県の下関と云ふところであった。
私の生れたのはその下関の町である。

花のいのちは
みじかくて
苦しきことのみ
多かりき
林芙美子

昭和41年2月、唐戸から県道57号線を北に行った下関市田中町に「林芙美子生誕の地」と記した碑が町自治会の手で建てられた。

唐戸地区
ふぐのせり市では日本一と称される唐戸市場は国道9号線と海岸線に挟まれ、立体駐車場を備えた近代的な市場である。最初に訪れた夕暮れ時、場内は閑散としており新鮮な魚介類は皆無であった。通常は二階から取引の様子を見守るだけだが、一階に降りて魚屋を見てまわることもできる。伊勢湾口でもふぐの水揚げが多いが、いったんはここまで運ばれてせりにかけられるという。

ある夏の蒸し暑い土曜日の昼下り、避暑がてら冷房の利いたこの市場に立ち寄ったところ、魚屋が昼食に訪れた客を相手に軒並み満員の盛況であった。驚いたことに夫々の店が魚介類の販売ではなくまぐろ等の寿司を握り、缶ビールを売りこれを目当てに大勢の客で賑わっていた。中とろ一貫200円、大とろ400円とお安いので私も味わってみたが、特に新鮮との印象はなかった。

東南アジア最大の水産市場である釜山チャガルチ市場は唐戸市場の比ではない。二つの水産市場ビル1階の広大な敷地内で、無数の魚屋が生簀の新鮮な魚をその場でさばいて刺身などにして食べさせてくれる。これを目あてに、終日大勢の客でごった返している。

唐戸桟橋の周りには旧下関英国領事館、旧秋田商会ビルなど明治大正時代の煉瓦建ての建物が保存公開されている:
旧下関英国領事館
古くから「海運と商業の町」として栄えてきた下関では、明治時代になると東アジアに近いことなど、その恵まれた立地条件から外交・経済・交通の拠点として、国内外でますます重要な位置を占め、にぎわいを見せるようになります。 明治半ばから昭和のはじめにかけて、この一帯に8ヵ国の領事館が開かれましたが、英国領事館が開かれたのは、明治34年(1901)のことです。市内でははじめてのことで、赤間町という場所にありました。下関に領事館を開く必要性を強く説いたのは、幕末に下関戦争に従事した英国人・アーネスト・サトウです。彼が英国首相に具申したことにより、明治39年(1906)唐戸町5番地に煉瓦造2階建の本館と平屋の付属屋が姿を現しました。
(重要文化財・旧下関英国領事館パンフレットより)

アーネスト・サトウは、英国の日本学者として、また英国の極東政策を指導した外交官として有名である。彼は幕末から明治維新へかけての変革期にあった日本に駐在し、日本の命運にかかわる多くの事件を見聞した。 サトウは1843年に生まれ、18歳のときに英外務省の通訳試験に合格し、日本駐在を命ぜられ1862年(文久2年)9月横浜に到着した。その一週間も経たない間に生麦事件が起った。その後、薩英戦争、下関戦争などを口火として尊皇攘夷運動そして倒幕へと連鎖し、外国勢力と交錯しながら、幕府の崩壊、明治維新政府の樹立に至る。 その間、サトウは通訳官から書記官へと進み、ラザフオード・オールコック公使や1865年7月その後任として横浜に到着したハリー・バークス公使の秘書として、片腕として革命前夜の日本国内を縦横に活躍し、1869年(明治2年)ひとまず帰英した。
1870年(明治3年)再び来日し、秘書官として東京の公使館に勤務し、1883年(明治16年)帰英した
。 1895年(明治28年)駐日特命全権公使として来日したのは日清戦争直後の三国干渉の時であった。日英同盟(1)の話もこの頃始まったといわれる。 サトウの日本滞在は前後を通じて約25年の長きにわたり、その間に、日本の古今の言語に習熟したばかりでなく、歴史、宗教、風俗なども徹底的に研究し、またキリシタンの研究に新しい境地を開いた。(アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(岩波書店)より)

旧秋田商会ビル 大正4年(1915)に竣工した和洋折衷の極めてユニークな建築物。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、塔屋付き、屋上には日本庭園と茶室を備える。西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築であるとともに、わが国に現存する同種建築物としては最古級のもの。特に屋上庭園については、「1915年の屋上庭園は、日本の屋上庭園の歩みの中でも群を抜いて早い。もしかしたら世界的に見ても、一番か二番になるかもしれない」と評価されている。(旧秋田商会ビルパンフレットより抄録)

唐戸桟橋から下関駅方向に歩くと、関門海峡の流れを模したと言われるしものせき水族館「海響館」や、高さ143mの展望台がある「海峡ゆめタワー」など近代的な建造物がある。

下関港の国際ターミナルから、関釜連絡船や下関・青島連絡船が就航している。関釜連絡船は三菱重工下関造船所で建造されたフエリー「はまゆう」(7747トン)が就航しており、19時に出船し翌8時30分に釜山に到着する。2005年5月釜山に向う途中、下関市六連島沖で片エンジンが故障し10時間漂流するという事故を起した。2002年4月からは、韓国の新造船「SEONGHEE」(星希)も就航している。また、下関・青島航路は6時に出船し翌々日の7時30分青島に到着する。

注(1)日英同盟:1902年(明治35年)に日本とイギリスが結んだ同盟条約。ロシアの東アジア進出に対抗して領国が手を握った。1921年(大正10年)ワシントン会議で日本、イギリス、フランス、アメリカが太平洋の安全保障条約を結んだ時廃棄された。