史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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功山寺
功山寺 長府の城下町らしい練塀が続く古江小路を北に辿ると、長府毛利邸の門前を経て功山寺に到る。
功山寺(こうざんじ)
鎌倉時代創建、唐様建築の美しさを保つ仏殿は、我が国最古の禅寺様式を残しており、国宝に指定されています。 また数々の歴史の舞台となったところで、毛利元就に追われた大内義長が自刃したり、高杉晋作が明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもあります。初代秀元をはじめ9人の藩主達の墓が仏殿裏にあります。 大内義長のものと言われている墓は、裏の墓地の奥まったところにあります。桜と紅葉の名所です。

大友宗麟の弟・春英(はるひで)は大内家を継いで義長と名乗った。弘冶三年(1557)四月、毛利軍に追われた義長は西に逃げ、長府の長福寺(現在の功山寺)に立てこもり自刃する。功山寺の墓地の奥まったところにある三基の宝篋印塔が、義長らの墓と伝えられている。中央は義長、右側が十七歳の近習杉民部、左は陶晴賢(すえはるたか)の末子で六歳の鶴寿丸の墓である。鶴寿丸は義長に随従した陶氏の重臣野上壱岐守が泣きながら刺し殺したという。

元冶元年(1864)12月15日、高杉晋作は長州藩を牛耳る俗論党を討伐するため、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らと共に功山寺で挙兵した。この寺にいた三条実美ら五卿に出陣の挨拶を述べ白銀の中、奇兵隊員約80名を引き連れ、馬関(下関)へ向った。

功山寺の山門前左手に「高杉晋作回天義挙之所」と書いた碑が建ち、その前を旧山陽道が通っている。これを西へ行くと前田砲台のあたりで海岸線に出る、と教えられた。功山寺挙兵後、降る雪の中を下関に向った晋作たちが辿った道であろう。それを少し歩いてみようと門前に出てみたが、旧道らしき風情は全くなく、早々にあきらめた。

桜山神社
下関駅前からバスに乗り191号線を北上して厚生病院前で降りる。信号交差点に面して桜山神社と大書された標識に向け通りを横切り、桜山小学校を左手に見ながら緩くカーブする長い坂を上って行くと右手にJR山陽本線が近づいてくる。更に道なりに進むと左手に桜山神社の鳥居が見えてきた。

文久3年10月高杉晋作は招魂場建設を発議し、翌元冶元年正月、新地岡の原(桜山)の地を選び、3月から奇兵隊士による整地作業が始まった。

明治天皇勅宣
長門国桜山招魂場を弔し給へる勅宣
汝等晨に乾綱の不振皇威の不宣を憂へ尽忠致死人をして感奮興起せしむ
朕今巡行追感殊に深し
依て侍従番長高島昭光を遣し汝等の墓を弔し且金幣を賜う宣す
明治五年六月十二日

桜山神社招魂場
元冶元年(1864)1月、高杉晋作の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(1865)8月には社殿も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。創建当初は、文久3年(1863)5月10日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔うものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死したもの、さらには長州の尊王討幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋らの霊も加え、今日では396柱の志士がここに祀られている。この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉という名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士・町民の身分制度を越えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。なお、この地は奇兵隊の調錬場でもあり、招魂になって以後桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡の中でも、ことに重要な意味を持つ聖地ということができる。

弔らはる人に入るべき身なりにしに
とむらふ人となるぞはずかし(晋作)

桜山神社は、明治二年六月に建立された東京招魂社(後の靖国神社)の母体になった。この靖国神社にA級戦犯合祀したことが近隣諸国との間で問題になっている。

東京裁判で処刑された東条英機元首相の次男・東条輝雄氏の発言:
東条氏は雑誌(「諸君!」87年1月号)のインタビューに答え、「A級戦犯、戦争犯罪人というのは戦勝国が一方的に指定しただけの話で、国際法にあるわけじゃない」「被告は自衛戦争です、と抗弁し続けた。それを遺族が東京裁判が妥当であったかのごとき動きをやれば、将来に汚点を残すだろうと思っているわけです」と語っている。
(毎日新聞1999年6月8日)

日本人は通常、いかなる罪人も刑の執行を受けたうえは常人と同じ、という観念を共有している。一方、大陸では、死刑だけで飽き足らず本人を地上から完全に抹殺するばかりか、罪は係累にまで及ぶとするのが歴史の証するところである。この観念の格差が中国や韓国首脳の首相靖国参拝反対に現れ、それに同調する日本の一部政治家のA級戦犯の靖国からの分祀論に及んでいるのは残念なことである。

別に、宗教界から首相の靖国参拝は信教の自由を規定した憲法に違反するとの声が上がっている。公人は特定の宗教に偏してはならないという。そういう彼等もまた、国家権力に取入って他宗派を弾圧した醜い過去を背負っていることを忘れてはならない。

七卿史跡
桜山招魂場の鳥居の右手の空閑の地は七卿史跡の一つである。

七卿史跡
維新回天発祥地桜山招魂場を視察
文久3年(1863)8月18日の政変により三条実美卿等七卿は京都妙法院をあとに西下長州に向う。 翌元冶元年3月26日六卿は馬関砲台を巡視発程の途上錦小路は病を発し29日彦島巡視の予定を延べ同日晴れ八つ時五卿方招魂場ご覧あり帰路鋳造場へ立寄らる。
頼徳卿は馬関にて静養中遂に客舎にて逝く悼惜何ぞ堪えんや。
桜山神社

土地の由来
此所は明治維新当時高杉晋作等奇兵隊の屯所で元火薬庫があり爆破して砲弾が四散した。その跡に古い土蔵が最近まであった。これを整理して七卿史跡の記念碑を建立した。
この古井戸は隊士等が使用したといふ。
桜山神社

七卿とは:
三条実美(さねとも):維新後は名目上、政府の最高責任者をつとめ、常に政権の上位についた。公爵。
沢宣嘉(よしのぶ):他の六卿とは別行動を取り、後に長州生雲の庄屋に幽居した。慶応4年(明治元年)2月、明治政府九州鎮撫総督として長崎に着任し、浦上四番崩れの処理をした。
錦小路頼徳(よりのり):下関の海防視察に出かけたとき、疲労のため元冶元年(1864)4月25日卒去。
四条隆謌(たかうた):王政復古で官位を復し、帰京。戊辰戦争では征夷大将軍錦旗奉行、中国四国追討総督、東征大総督府参謀、仙台追討総督などをつとめ維新後、陸軍中将、元老院議員などを歴任。伯爵。
壬生基修(もとなが):王政復古により新政府に参与として加わり、会津戦争では越後口総督となる。戦後は東京府知事等を歴任し、晩年は貴族院議員。
東久世通禧(みちとみ):王政復古により帰京して軍事参謀、外国事務総督、神奈川県知事などを歴任。元老院副議員、枢密院副議長などをつとめた。伯爵。
三条西季知(すえとも):王政復古により帰京し、維新後は明治天皇の侍講を務める。

松陰神社
東京都世田谷区若林に鎮座する松陰神社は、正四位吉田寅次郎(松陰)を祭神として明治15年11月21日に創立された。三軒茶屋から鄙びた東急世田谷線に乗り、三つ目の松陰神社前駅で降りて北へ徒歩約300mで神社入口に達する。鳥居をくぐると左側に萩の松下村塾の複製が建っている。

同神社が平成2年10月に発行した由緒書に、晋作の度胸の良さを物語る次の文が載せられている:
松陰は安政六年(1859)十月、中央区日本橋伝馬町の獄に下り処刑され、遺体は小塚原回向院に送られた。桂小五郎等はここで松陰の屍に対面し衣服を着せ持参したかめに納め、左内の墓の左方に葬り上に巨石を覆う。
文久二年(1862)八月、戊午以来罪を国事に得たる者を釈し死者の罪名を削るべし、との朝旨が幕府に下る。翌年正月、高杉晋作等は松陰と、同じく国に殉じて墓を接せる頼三樹三郎、小林民部を大夫山に改葬することとし、三墳を掘り遺骨を新棺に納め、高杉馬に騎して先駆となり行きて上野山下の三枚橋の中橋に来かかった時、ここを守る者が叱って此の行列を止めんとした。 さてこの時、高杉鞭を上げて叱咤し「我々長州の同志勅旨を奉じて忠烈死の遺骨を葬るなり、途に此の橋を過ぐるに何ぞ不可あらんや」と辞色ともに励しかったので幕吏恐怖して逃げかくれたという。

こうして晋作は松陰の首に手をかけた幕府の権威を、公衆の面前で踏みにじって見せた。幕府は、この事件を表沙汰にした場合の影響を考えてあえて不問に付した・・・と三好氏は言う。一方、池宮彰一郎氏は、この時期、幕威はおとろえたといっても、この事件を不問にするほど落ちてはいないので、この話は後年の作り話であると言う。同様に、京に上る晋作が箱根の関所を道中駕籠から下りずに通過したとか、文久3年(1863)3月天皇の賀茂行幸に扈従した将軍家茂に「いよう、征夷大将軍」と囃したというのも俗説であるという。

三枚橋は不忍池から流れ出る小川にかかっていた。特に中橋は将軍参拝の通路に備えたもので諸侯以下は皆左右の橋を渡るべきとされていた。中央通を北上してきた将軍の行列はこの橋を渡り、黒門を通って上野寛永寺の境内に入って行った。今は橋もなく川は暗渠となり付近一帯は車の喧噪が渦巻き、僅かに「みはし」と称する店にその名を残すだけ。

晋作ゆかりの地
下関市内の国道9号線と191号線の沿線には、若年ながら奇兵隊結成、下関海戦講和、俗論派対決、小倉戦争指揮等で名を馳せた高杉晋作に関わる史跡が点在している。
高杉晋作奇兵隊結成の地(下関市竹崎町)
長州藩を明治維新へと推し進めたのは奇兵隊であるが、さらに明治維新を解明する鍵が奇兵隊にあるといわれている。奇兵隊は文久三年六月、この地の回船問屋白石正一郎家で結成された。正一郎は結成と同時に入隊し、高杉晋作を援けた。年齢も、身分も全く違う二人の固い結びつきが奇兵隊をささえたと言える。

阿弥陀寺(下関市阿弥陀寺町)
白石邸で結成された奇兵隊は阿弥陀寺と極楽寺に分屯した。阿弥陀寺は赤間神宮の西隣にあったが、明治初期の廃仏毀釈で取り壊されその跡に料理旅館・春帆楼が建っている。

極楽寺(下関市阿弥陀寺町)
奇兵隊分屯地で赤間神宮の東隣にある。

光明寺(下関市細江町)
久坂玄瑞らが光明寺党を結成した所。

教法寺(下関市赤間町)
長州藩士で結成された撰鉾隊の屯所となった。この寺に奇兵隊士が押しかけて騒動になった。この事件で晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は小郡に移された。

高杉晋作療養之地(下関市桜山町)
慶応二年十月下旬、肺結核を病んだ晋作は病気を白石の家族に伝染させないようにとの配慮から白石家を出て、桜山招魂社のほとりに庵を結んで東行庵と称した。高台にある民家の一隅に、次の石碑が立っている:
落花斜日恨無窮  落花斜日恨窮まりなし

自愧残骸泣晩風  みずからはず残骸晩風に泣くを

休怪移家華表下  怪しむをやめよ家を家華の下に移せしに

暮朝欲拂廟前紅  暮朝廟前の経を払わんと欲す

高杉晋作終焉の地(下関市新地町)
翌年春、東行庵は手ぜまであり、晋作の家族が萩からやってきても寝るところがないため、新地の林算九郎という酒造家の離れを借り、そこに晋作を移した。その跡地に次の文を記した碑が建っている:
高杉晋作(号東行)は天保十年(1839)八月二十日萩藩士高杉小忠太の嫡男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ傍ら、松下村塾で吉田松陰に師事し尊攘思想を養いました。
文久三年(1863)六月、攘夷の決行で外国艦に砲撃された下関を防備するため来関し、直ちに奇兵隊を結成しました。
奇兵隊は「志」があれば庶民でも入隊を許した画期的な軍隊でした。元冶元年(1864)8月、下関戦争の戦後処理にあたり、また、同年12月には長府功山寺で挙兵して藩論を討幕へと導きました。
慶応二年(1866)六月からの四境戦争(第二次長州征伐)では、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退しましたが、既に病に冒されており、慶応三年四月十四日、新地の庄屋林算九郎の離屋があったこの地で没しました。27年と8月の短い生涯でした。
なお遺骸は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に埋葬されました。

東行庵
晋作は、遺言により奇兵隊の駐屯地があった吉田の清水山に葬られた。山縣有朋は近くにあった無隣庵を晋作の愛人おうのさんに譲って東行庵とし、晋作の墓守をさせた。この東行庵に隣接して東行記念館が併設されている。

東行庵を訪れるため早朝、博多駅を発った。JR快速を小倉で降り、下関行き普通に乗り換え、更に終着下関で新山口行き普通に乗って新下関、長府を経て小月駅に着く。ここでタクシーに乗り、東北方向へ走ること約十分で吉田に着く。時刻は既に正午近くになっていた。この吉田を通る旧往還は古くは馬関と萩を結ぶ街道で、吉田に本陣を置いていた奇兵隊がここから萩に向け進撃し藩俗論派を打ち破った。

北に抜ける山間の街道の東側に小高い清水山、西側に街道に沿って数軒の民家と商家が並ぶ閑静な土地柄である。 清水山には晋作の墓と顕彰碑を中心にして、彼と因縁の深かった奇兵隊士の墓があり、麓には晋作の愛人うのがその生涯を閉じるまで過した東行庵がある。 

国指定記念物(史跡)
高杉晋作墓
指定年月日 昭和九年五月一日
高杉晋作(号東行)は天保十年(1839)八月二十日、長州藩士高杉小忠太(家禄二百石)の長男として、萩城下に生れました。藩校明倫館に学ぶ一方、松下村塾で吉田松陰に師事。文久二年(1862)には幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、ヨーロッパの半植民地と化した街を見て大変な衝撃を受けました。
文久三年六月、下関を外国艦から防御するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊でした。
元冶元年(1864)八月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年十二月には長府功山寺で挙兵し、藩論を倒幕路線に統一しました。さらに下関開港・薩長同盟などを推進。慶応二年(1866)には、奇兵隊などを指揮し、長州再征軍を小倉口で撃退しました。 慶応三年四月十四日、下関で結核のため病没。奇兵隊陣営近くの吉田清水山に埋葬されました。二十七年と八ヶ月の短い人生でした。
山口県教育委員会
下関市教育委員会

高杉東行(晋作)顕彰碑
高さ3.2m 幅1.5m
従三位公爵毛利元昭公篆額
正三位大勲位公爵伊藤博文撰
この碑は明治四十四年この山上に建てられ同年五月井上 薫公によって除幕された。動けば雷電の如く発すれば風雨の如しという名文に始まって東行の残した業績がよく書いてあり字は明治の三筆といわれた杉孫七郎のものである。
動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目は駭然として敢て正視するもの莫し。此れ我が東行君に非ずや。

白石正一郎の墓
下関竹崎で回船業を営むかたわら鈴木重胤の門で国学を修めた。文久三年(1863)六月、高杉晋作により奇兵隊が結成されるや、物心両面から惜しみない後援を続けたが、その結果一千両もの負債をつくり、家は傾いた。維新後は、赤間神宮宮司をつとめ、明治十三年没。
墓は昭和四十八年四月に新設された。

東行庵(とうぎょうあん) この地は清水山と称し幕末の頃奇兵隊軍監山縣狂介(有朋)は麓に草庵を建て無隣庵と名付けていた。慶応三年(1867)四月、高杉晋作(東行)の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人うの(後に谷梅処)は黒髪を断って出家したので、山縣は明治二年(1869)無隣庵を梅処に贈り欧州に旅立った。
現在の庵は明治十七年伊藤博文、山縣有朋、井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたもので、梅処は明治四十二年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。
昭和四十一年東行の百年祭を機に庵の原形をとどめるため大修理を行った。

東行記念館

東行庵に隣接して、東行記念館がある。

奇兵隊灯籠 高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年(1866)8月、小倉口の戦いで、幕府軍根拠地である小倉城を攻略したとき、城下の延命寺から戦利品として持ち帰り、吉田本陣近くの天満宮に奉納していた灯籠である。 右の棹には漢文で由来が刻まれ、左の棹には「元冶三年冬立 奇兵隊」と銘記されている。 「元冶」は元年で終り、次の年は「慶応」と改元されているので、元冶三年はあり得ないことである。しかし、これには、次の理由がある。 慶応という年号は、一橋慶喜が朝廷に内申し、「文選」の中の一節から取ったもので、善を勧めて悪を懲らしめる、という意味がある。 当時は「長州征伐」という時であったことから、善は幕府で、悪は長州を指し、さらに、長州の「志士」たちは、慶喜に応じろ、という意味があるのでは、と疑ったのである。そこで、慶応への改元を認めず、すでになくなっている「元冶」という元号を使い続けたのである。

庵主の尼さんは道路に出て観光客の応対をする一方、東行記念館を訪れる人々を案内するなど唯一人で忙しく立ち働いておられた。東行記念館に展示されていた晋作の遺品は、高杉家と萩市の話し合いで萩に新設される博物館に展示されることになった。これに伴ない、東行記念館学芸員・一坂太郎氏は身を引かれた。

館内には次の掲示があり、晋作の遺品をめぐって醜い争いがあったことを物語っている。我々のように遺品との対面をめあてに吉田までやってくるものにとって残念なことである:
<東行記念館>仮開館にあたって
本展の開催にあたり、ご来場いただき、厚くお礼申しあげます
。 皆様御承知のとおり、当記念館は、所蔵品の持ち出しという悲しいできごとにより、今年二月から閉館しておりました。しかし、地元をはじめ、多くの高杉晋作フアンから、是非開館をとの強い希望が寄せられ、ここに「仮開館」の運びとなりました。 それは、明治維新の英傑・高杉晋作の顕彰のため、当記念館の建設に情熱を燃やされ、心底から努力された東行庵第三世谷玉仙庵主の志を無にしては、ならないからです。
当記念館は昭和41年(1966年)、高杉家から高杉晋作の遺品全てが寄贈されるということから、東行庵第三世谷玉仙庵主が、全国から浄財を集め、建設されたもので、高杉晋作の顕彰という熱い心がこもった施設として、多くのかたにご愛顧を賜ってきたところです。
ところが、ささいな間違いから、不幸にも所蔵品のほとんどが、持ち出されてしまいました。
持ち出しは、寄贈ではなく寄託であった、との理由によるものですが、それを示す根拠は見当たりません。寄贈であったことは、当時の木下友敬下関市長の開館に当たっての祝辞をはじめ、「東行庵だより」など各種の文献にも記述され、なによりも、第三世谷玉仙庵主が昭和58年の在世中に発刊された書物に、「すべて寄贈」と明記されておられるのです。 このように寄贈であったことは、明白な事実であり、やがて返還されてくるものと信じています。そうでなければ、道中三味線はじめ、所蔵品に経費をかけて補修され、安全に保管されてこられた第三世谷玉仙庵主のご努力は何であったのかということです。 わずか5歳で東行庵に入庵され、在庵60余年、常に慈悲の笑顔でお導きくださった、あの谷玉仙庵主を、悲しませてはならないのです。
良識をもってすれば、所蔵品は必ず返還されることと確信しています。そのときには、仮開館の「仮」という文字を取り払って、正式な開館となります。その日の近いことを願っているところです。 本展を御高覧いただきましたみなさまにおかれても、引き続き、返還への御支援を賜りますよう御願い申しあげます。 結びにあたり、本展開催に御協力を賜りました多くの方々に、心から御礼を申し上げます。
平成15年6月8日
宗教法人 東行庵

白石正一郎
新下関駅に近い山陽本線高架の北側に、車の往来の激しい国道に面して立派な碑が建ち、次のように刻まれている:
白石正一郎
文化九年(1812)三月七日、この地に生まれ、明治十三年(1880)八月三十一日、69歳で世を去った。正一郎は、回船問屋小倉屋の主人として家業にたずさわるかたわら、国学に深い関心を持ち、43歳の頃国学者鈴木重胤の門下に入って、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。また、「橘園」の号を持つ歌人でもある。 彼の残した日記は、明治維新研究にとって第一級の貴重な資料といわれる。その中には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)のいわゆる維新の三傑をはじめ、坂本龍馬、梅田雲浜など志士四百人余の名をかぞえることができる。また明治天皇の叔父中山忠光卿、三条実美卿ら七卿も白石家に滞在している。 文久三年(1863)六月、白石家で奇兵隊が結成されたことは、あまりにも有名であり、以来、彼も奇兵隊員として、また商人として高杉晋作と親交を深めるとともに奇兵隊を援助した。 このあたりに白石家の浜門があって、海へ通じており、志士たちはここから出入りした。白石家の海へ降りる門は新しい時代へ向かう黎明の門だったといえる。
中国電力株式会社
明治に入って正一郎の経営する回船問屋は没落し、正一郎は赤間神宮の宮司となった。

維新の史跡(大鳥居)
明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資産を投入しこれを援助した豪商志士白石正一郎の功績は計りしれないものがある。 この白石正一郎は敬神の念厚く文久二年、氏神大歳神社に大鳥居を奉納して攘夷必勝を祈念した。参道(石段)の下の鳥居がそれであるが、終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎を顕彰する数少ない史跡である。また京都における文久三年八月の政変によって三条実美ら勤皇の公家七人が西下し、下関巡視の際には白石邸にも宿泊した。その七卿落ちの有様を画碑として境内に建立している。
下関市
時、産まれた諸隊は次の通り:
■長州諸隊:萩野隊、奇兵隊、膺懲隊、御楯隊、義勇隊、八幡隊、集義隊、真武隊、遊撃隊
■家臣団隊:干城隊、第四大隊、第五大隊、装条銃隊、南北大隊
■農(商)兵隊その他

晋作年表

晋作が活躍した時代の年表を、維新のうねりと関連付けて分りやすく纏めた:

  • 嘉永6年(1853)6月 アメリカのペリー提督、黒船を率いて来航、幕府に開国を迫る。
  • 安政元年(1854)3月 松陰、アメリカ渡航に失敗し捕わる。
  • 安政3年(1856)3月 松陰、萩の松下村塾で教鞭をとり始める。
  • 安政5年(1858)4月 井伊直弼、大老就任。米露蘭英仏と修好条約締結。安政の大獄。
  • 安政6年(1859)10月27日 松陰、江戸伝馬町牢で刑死。桂小五郎等、遺骸を小塚原回向院に埋葬。
  • 安政7年(1860) 井伊直弼、桜田門外で暗殺さる。
  • 文久元年(1861) 長州藩主毛利慶親、藩士長井雅楽(うた)の「航海遠略策」を採用。

文久2年(1862):

  • 4月   薩摩藩主の父島津久光、兵を率いて上洛。長州藩の影途端に薄れる。
  • 4月27日 晋作、長崎を出航し上海へ、7月24日長崎に帰着。
  • 7月24日 長州藩、航海遠略策を捨て、攘夷へと方針を一大転換する。
  • 11月28日 幕府、安政5年以来の国事犯刑死者の罪を許し、その礼葬・復権等を行う大赦令を発表。
  • 12月12日 晋作、久坂玄瑞、赤禰武人等、品川御殿山に建設中の英国公使館焼討ち。

文久3年(1863):

  • 1月5日  晋作、伊藤俊輔等松陰の遺骸を小塚原から掘起し、現世田谷区若林に改葬。
  • 3月  上洛した将軍徳川家茂、5月10日をもって攘夷を断行すると孝明天皇に上奏。
  • 3月  晋作、玄瑞らの唱える尊皇攘夷路線から離脱し剃髪、萩の山奥に隠棲。
  • 4月  毛利家が攘夷断行の名目で萩より地の利を得た山口に移る。
  • 5月10日 関門海峡で外国艦砲撃開始。
  • 6月6日  晋作、外国艦に砲撃された下関に来関。翌日、豪商白石家で奇兵隊を結成。
  • 7月2日  薩英戦争。
  • 8月18日  会津・薩摩は御所内で政変を起し、長州は御所の警護を解任される。
    三条実美ら尊攘派七卿は長州に逃れる。
 

元冶元年(1864):

  • 1月 下関攘夷戦で戦死した奇兵隊士の霊を弔う桜山招魂場を下関郊外に創建。
  • 2月12日 周防上関駐屯の義勇隊、別府浦碇泊中の薩摩藩御用商人の船を襲撃沈没させる。
  • 3月29日 晋作、京都への脱走の罪で野山獄に投じられる。
  • 6月5日 三条小橋の旅宿池田屋で、長州系尊攘派を新撰組が襲撃(池田屋騒動)。
  • 7月19日 禁門(蛤御門)の変。会津・薩摩が長州を撃退。玄瑞自決。
  • 7月23日 朝廷、幕府に長州征伐を命ず。
  • 8月3日 晋作、藩主から呼び出され下関防衛を任される。
  •  
  • 8月5日 英米仏蘭連合艦隊17隻が下関を砲撃。
  • 8月8日 晋作、旗艦ユリアラス号に乗り込み、講和交渉を開始。
  • 9月25日 「正義派」井上聞多、「俗論派」刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負う。同夜、「正義派」首領周布政之助自害。
  • 11月12・13日 「正義派」三家老を切腹させ恭順謝罪し、長州征伐は不戦解兵で終わる。
  • 11月 「俗論派」の台頭に行場を失った晋作は、福岡へ渡り野村望東の平尾山荘に潜伏。
  • 12月15日 晋作、下関に舞い戻り、功山寺で旗上げし藩出先機関の下関新地会所を襲撃。
 

慶応元年(1865):

  • 1月 奇兵隊など諸部隊が「俗論派」藩政府軍と、秋吉台に近い山間部の絵堂・太田で
    交戦し勝利する。
  • 3月 晋作、イギリス行きを企むも断念。脱藩し四国に潜伏、6月帰藩。
  • 3月23日 長州藩「武備恭順」の方針を一決。
  • 8月26日 薩摩藩名義で、小銃7,300挺と蒸気船一艘を英商グラバーより下関に密輸。
 

慶応2年(1866):

  • 1月22日 幕府、長州藩処分案(藩主父子の蟄居と十万石削封)を朝廷に奏請。
  • 2月  長薩連合成立。
  • 6月7日  大島郡で四境戦争始まる。
  • 7月27日 赤坂方面(小倉口)の戦争始まる。
  • 8月1日  小倉城炎上。
  • 10月下旬 晋作、白石宅から桜山招魂社付近の小宅に移り、東行庵と命名。
 

慶応3年(1867):

  • 4月14日 晋作、下関新地の林算九郎宅の離れで死去(29歳)。
    奇兵隊の本拠・下関市吉田町に葬られる。
  • 10月  徳川慶喜、大政奉還
 

明治元年(1868):

  • 1月  鳥羽伏見の戦い
  • 4月  江戸開城
 

明治44年(1911):
5月20日 吉田町清水山で高杉晋作顕彰碑の除幕式が行われる。