史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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赤坂合戦の碑
先回、探訪に来たとき小倉駅から気軽にタクシーに乗り、この史跡に連れて行ってくれるよう頼んだところ安受けあいしたドライバーはそこを全く知らなかった。やむを得ず手向山に案内してもらい、武蔵の碑や対岸の彦島を望見したりするに 止まった。

今回は駅の観光案内所に立ち寄り、よく調べた上で現地に向うことにした。ところが案内所でも資料がなく一時はお手上げの状態になった。案内所のお嬢さんは区役所のHP担当者に電話して詳しい情報を得ようとしたがらちが明かず、そこから北九州市観光案内ボランティアの松久さんに連絡をとり、地図を頼りに電話で詳しい道順を教えてもらった。居住者名が入った千五百分の一の地図のコピーを貰い駅前に出て、赤坂に詳しいタクシー運転手をと条件をつけたが、それにお構いなくどうぞと先頭車に乗り込まされた。

運転手に地図を示して国道三号線を門司方面へ走り、手向山公園入口交差点を右折し谷川沿いに南下する。公園入口を左に見てすぐ行き止まりになったので、引き返して右折し川を渡って上り坂にかかると車両通行止めの金属柱が行く手をさえぎった。地図上で先に進めそうな道を探ってみたが、この辺りは住宅地の裏側に当たるらしく自動車の抜け道は土地勘のある人しか分からないだろうと思われた。決心してタクシーを降り、徒歩で進むことにした。曇り空で直射日光は避けられたが高温 多湿の中、かなり勾配のきつい道を重いバッグをぶら下げて休み休み登る。五分もすると右手に町内地図を示した立札があったので、調べてみると目的の赤坂東公園はそこから鋭角に左折した先にあることが分かった。

赤坂合戦の碑はこの公園の南隅に立っていた。碑の左右には切り花が捧げられている。碑の正面には「慶応丙寅激戦の址」、右側面に「昭和八年三月」とある。また碑の右側に、由来を記した石碑が安置してある:

この標石は慶応二年丙寅の七月二十七日(1866)御変動のとき長州奇兵隊と小倉軍が戦い美しい桜丘の山河を血潮にそめた悲しい古戦場跡を偲ぶ碑石です 
小倉郷士会
この碑付近の東側斜面一帯で攻め上ってくる長州奇兵隊を肥後兵が迎え撃ち、双方に多くの死傷者が出た。長州兵の進路は私が国道から辿ってきた道筋とほぼ同じと思われる。当時としては最新の兵装をした長州兵も不利な地形のもとで苦戦を強いられたことだろう。この碑が立っている辺りをもう少し西に登ると丘の尾根に達し、そこから小倉城を指呼の間に望むことが出来る。

長州奇兵隊の墓
次に、赤坂の合戦で亡くなった長州奇兵隊の墓を訪れることにした。教えられたとおりもと来た道を引き返す際、来た時に通った谷川沿いの道とは反対側の道を戻ることにした。この道は車止めもなく自動車で容易に入ることが出来そうだ。そうこうするうちに、来た時より一つ小倉よりの赤坂四交差点で国道に出た。国道沿いに小倉方面に向け息を継ぎながら坂を上る。やがて下り坂になって赤坂一交差点に辿り着く。そこを左に入り、道なりに左に曲がっていくと前方に長い階段が見えてくる。これを登り切りT字路を左に曲がって突き当たりをまた左に曲がり、二軒並んだ奥の家の前を通って右に入ると目的の墓があるはずだが、そこは草の生い茂った空閑の地であった。失望して引き返す途中、奥の家に女性の姿が見えたので声をかけて教えを乞うと、墓は二軒の家の手前を右に入ったところにあると教えてもらった。行ってみると「長州奇兵隊戦死墓」と刻んだ立派な墓が北向きに建っていた。北を見ると眼下に歩いてきた国道が走り、その先に関門海峡を挟んで彦島を望む景勝の地であった。

墓の付近に次の説明が記されていた:
長州奇兵隊の墓
長州藩と幕府軍が戦った「長州戦争」において長州軍は慶応2年7月27日の戦いで、上鳥越、下鳥越、藤松越の三隊に分かれて赤坂突破を目指した。
特に肥後藩が守る上鳥越(赤坂三丁目)付近へ、肉薄してきた長州奇兵隊山田鵬介隊との戦いは熾烈を極めた。長州軍は隊長以下多数の戦死者を出し、遺体を収容できないまま大里(だいり)に引き揚げた。 翌日小倉の庄屋達が召集され、遺体を火葬にしたが、そのままにして帰った。肥後軍の参謀格横井小楠の指示で放置された遺骨を集め、「防長戦死者之塚」という木柱を立てて手厚く葬った。 明治元年、長州出身の木戸孝允が、遺骨を下関の奇兵隊墓地に移すよう頼んだ。話を聞いた横井小楠は「墓を移すのは肥後藩の気持ちを無視するもので、甚だ遺憾である。」と述べた。木戸は諦め、長州の僧芝玉を小倉に行かせ墓を守らせた。芝玉は長州がよく見えるこの地に墓を移し、現在の墓石に建て替え墓守を続けた。
小倉北区役所

目的を達して国道を小倉側に歩き、延命寺橋上のバス停からバスに乗って小倉方面に向う。小倉バスターミナルらしき所に着いて、小倉駅に行くかと聞いてみたら、行かないというので急いで下車し駅方向に向けまたもや歩く。駅の観光案内所に立ち寄ったら、親切に教えてくれた彼女は来客の応接中だったので、ひとまず昼食をとることにした。その後、再び案内所に行くと彼女は昼食で外出中だという。彼女の同僚に二つの史跡を探訪できたことを話し、謝意を述べて新幹線で帰名した。

下関厳島神社
国道191号線を厚生病院前から下関駅方面に向け南下し、厳島神社前を左折すると左手に厳島神社がある。境内の立派な堂宇に巨大な太鼓が吊るされている。
大太鼓の由来
毎年8月の最初の日曜日に、当神社では、境内の「太鼓堂」に吊るされている直径1.1メートル、重さ390キロの大太鼓を打ち鳴らす、「太鼓まつり」が行われます。 この太鼓は、小笠原の小倉城の櫓に吊るされ、近隣に時刻を告げる役目を果していたのですが、慶應2年(1866)の「小倉戦争」で幕府軍に大勝した長州藩の総指揮官高杉晋作が下関に持ち帰り、戦勝を記念して当神社に奉納したものであります。
なお、高杉晋作と当神社との縁は誠に強く、彼が「小倉戦争」勝利の翌年、29歳の若さで病死したのは下関市の上新地であり、また彼が多くの同志や恩師の吉田松陰とともにまつられている「桜山招魂社」も同じく上新地にあり、さらにまた、彼の偉業とされる「奇兵隊の結成」は下関市竹崎町にあった豪商白石正一郎邸で行われており、これらは何れも当神社と同一町内または極めて近い場所に集中しております。 この様に公的生活、私的生活の両面において当神社との地縁は誠に強く、大太鼓が当神社に奉納された意義を一層深くしています。
厳島神社太鼓まつり推進会
小倉戦争の戦利品として高杉等が下関に持ち帰ったものにこの大太鼓のほか、奇兵隊灯篭がありこれは吉田の東行記念館に展示されている。

厳島神社の入口付近は萩藩新地会所跡である。元治元年(1864)12月15日長州藩を牛耳る俗論党を討伐するために長府功山寺で決起した高杉晋作は馬関へ向い、萩藩の出先である新地会所を襲撃した。これを契機に藩内の討幕派は勢いを取り戻し、長州藩は一気に明治維新へと突き進んで行く。
小倉城
1569年(永禄12年)毛利氏が現在の小倉城のある場所に城を造る。
1600年(慶長5年)徳川方に味方して関が原の戦いに勝利した細川忠興は、小倉を中心にして39万9千石を治める。
1602年(慶長7年)細川忠興が今のような城を造る。
1632年(寛永9年)細川氏は肥後国に移り、播磨国から譜代大名の小笠原忠真が小倉に入り、九州諸大名の監視役となる。
1637年(寛永24年)島原の乱に小倉藩は藩兵六千人を派遣。
江戸末期の四境戦争(小倉口)のことを、小倉藩では豊長戦争という。
豊長戦争の次第は下記の通り:
1865年(慶応元年)
9月:幕府が長州征討の命令を発する
1866年(慶応2年)
6月17日:長州藩の奇兵隊が田野浦(門司区)に上陸
7月3日:大里(門司区)で戦う
7月21日:将軍家茂死去
7月27日:赤坂(小倉北区)で戦う
7月30日:肥後藩などは自分の藩に引き上げる
      小倉城で軍議が開かれる
8月1日:自ら小倉城に火を放ち、香春方面(田川郡)に撤退
1867年(慶応3年)
1月:小倉軍と長州軍との和議が成立
4月14日:高杉晋作死去
10月:徳川慶喜、大政奉還
1877年(明治10年)西南戦争の際、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が乃木将軍に率いられて出征。その後、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が小倉城内に置かれた。

1945年(昭和45年)8月9日朝、北九州の小倉上空には前夜の八幡爆撃で生じた大量の煙が流れ込んでいた。この時、フアットマン原爆を搭載したB-29ボックスカーは高度9,000mで小倉に侵入し、原爆を投下しようとしたが、この煙に妨げられて目標の小倉軍需工場を視認できず三度航程を繰り返した末、燃料残量が厳しくなったことから小倉に原爆を投下することをあきらめ、第二目標の長崎に向った。こうして、小倉の街は原爆被災を免れた。