史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

二つの史観
日本書紀に記述されている神功皇后の存否を巡って対立する二つの史観を紹介する:

黒岩重吾「謎の古代女性たち」中公文庫、P116
新羅で望みを達した皇后は、勇猛な騎馬民族の国である高句麗や、百済をも服従させ、意気揚々と筑紫に戻りました。 何度も念を押しておきますが、これは「日本書紀」の作り話で、史実ではありません。 ただ、神功皇后よりも少し後の、高句麗の広開土王(好太王、374~412)の時代、王の功績を記した碑文によりますと、391年に倭が海を渡って、朝鮮半島に出兵し、百済・新羅を破り臣民となす、とあります。結局、倭軍は広開土王のために壊滅させられるのですが、この碑文がどこまで史実といえるかは疑問とされています。

平泉澄「物語日本史(上)」講談社学術文庫、P67~68
広開土王の碑を見ると、日本軍が、西暦391年、海を渡って朝鮮半島に攻め入り、百済や新羅がその勢力圏に入ったこと、その後たびたび戦いがあって、404年には日本軍北上して漢口流域に入り、さらに進んで平壌に迫り、高句麗と激戦したことが書いてあります。(略)日本書紀を見ると、神功皇后の御時、百済王が使いをつかわして貢物をたてまつったこと、ことに新羅の害を除いてくださったことを感謝して、いつの日、いつの時にか、この大恩を忘れましょうやといって、七枝刀一振りと、七子鏡とを献上したことが記されています。(略)この珍しい七枝刀が現存しているのによって、日本書紀の七枝刀献上の記事が正確なる事実を示していることも分かれば、またあの広開土王の碑に書いてあるところの、日本軍が百済を救わんがために、朝鮮の西側を北上し、漢江一帯を平定し、進んで平壌に至って高句麗と激戦したという記事の、真実であったことも、いよいよ確かめられるのです。

平泉説は、当時を伝える重要な史実、日本書紀、今日まで伝えられてきた広開土王の碑と七枝刀、を使って朝鮮半島情勢を分析し、その中で日本側の指導者・神功皇后の姿を明快に画き出している。逆に、かような史実を否定して新たな古代史観を作り出そうとする黒岩説には無理がある。 戦後の古代史家は、江戸時代から続く国学が創り出した皇国史観を悉く否定しようとする。これに対し正統派史家は、それは行過ぎた自虐史観(じぎゃくしかん)だと批判する。 自虐史観とは、「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観である」として、一部の歴史観を偏向しているとする考え方である。

長府・豊浦宮
下関から国道9号線を周防灘沿いに北東方向に行くと、程なく長府市内に入る。下関市立美術館前を右に折れ、豊浦高校の南側を通って関見台公園の展望台に登ると、海上に神功皇后ゆかりの干珠、万珠が望見できる。

更に国道を行くと東側は長々と工場の塀が続き、さっき見た周防灘の美しい景観が遮られてしまう。西側の丘陵地に広がる調布市中心地には、忌宮神社・長府毛利邸・功山寺等名高い史跡が点在する。

忌宮神社内には「豊浦皇居趾」と記した碑が建っている(写真):
長門国二ノ宮・旧国幣社「忌宮(いみのみや)神社」由緒
忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政治を行われた旧祉で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。その後聖武天皇の御世に神功皇后を奉際して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の際中殿忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。 忌(いみ)とは斎(いみ)と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。 現在の社殿は明治十年の造営で、昭和五十六年に改修す。 古来、文武の神として暦朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の二ノ宮として広く親しまれている。

平泉澄「物語日本史(上)」講談社学術文庫、P64
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子・仲哀天皇の御世に九州が乱れたので、天皇は御后神功皇后とともに、兵をひきいてこれを討伐されたが、勝利を得ないで、急病でお隠れになった。皇后は、民心の動揺を防ぐために、崩御のことを秘匿して発表せず、九州動乱の原因は朝鮮半島にあると判断し、男装して三軍をひきい、海を渡って朝鮮に攻め入られた。新羅を討ち、百済を救い、平壌まで進んで満州の勢力と雌雄を決せられた。仲哀天皇が陣中でおかくれになった後、皇子が生誕になり、やがて即位せられて応神天皇となるが、その成人まで十数年の間は母后が摂政された。

福岡・香椎宮(本宮)
博多駅から地下鉄を利用して香椎宮(かしいのみや)を訪れた。まず、中州川端駅でJR箱崎線に乗り換え、終点・貝塚で西鉄宮路岳線に乗ると三つ目の駅が香椎宮前である。西鉄とJR線の踏切を渡ると両側が楠の大樹の並木道に入る。やや登り勾配の参道を八百メートル辿ると左手に香椎宮が見えてくる。

香椎宮(福岡市東区香椎)
祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神。西征中この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭ったのが宮の起源とされる。香椎は鴻臚館貿易の衰退した12世紀から博多津に代って栄えた貿易港で、元寇の際、豊後の大友氏が香椎・多々良地区を警固してから大友氏の支配を受けるようになった。同氏建立の多々良の顕孝寺辺りは内外の僧侶・商人で賑った。香椎造りで著名な享和元年(1801)再建の本殿は国指定の重要文化財。香椎宮の周辺には武内宿禰ゆかりの不老水、急死した仲哀天皇を祭る古宮、戦いから帰った神功皇后が植えたという綾杉の大木などがある。

御祭神 仲哀天皇 神功皇后
由緒 香椎宮の創建は仲哀天皇の御神霊を神功皇后躬つからお祀りあそばされた(200)ことに由来し、これを古宮と申します。
神功皇后の宮は、元正天皇の養老七年(723)皇后の御神託により朝廷より九州に詔して社殿の造営を始められ、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工しこの両宮を併せて香椎廟と称します。明治以降官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しています。
香椎廟は本朝鎮護の宗廟なれば、廟号を以って格別の御崇敬を捧げさせられ奈良平安このかた廟司以下六百余戸の奉仕団また千数百町歩の神領を賜わり国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ現代に於いては十年毎に勅祭を斎行せられます。
仲哀天皇八年(199)筑紫の橿日宮に坐しまして天下冶しめし率先御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばされました。
皇后は御遺志を継がれ神祇の教えを受けご懐妊の身を以って躬つから国内を平定せられ更に船団を率いて三韓御渡航の壮挙を果され初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました。 この御大業は正に神わざとして史上に輝き、朝貢あり帰化あり交流盛んにして国運愈隆盛に赴きました。 御子応神天皇は八幡神として遍く信仰を集められ、御孫仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳陵によって聖徳を偲ぶことができます。かの雄渾な土木技術を始め建築、裁縫、工芸、文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に淵源しやがて絢爛たる日本文化の花が開かれて行きます。この国に生を享ける者の一日も忘れまじき御神徳であります。

古宮
仲哀天皇皇居橿日宮址、沙庭斎場遺跡、香椎(棺桶椎)あり

御本殿
香椎造と称し我国唯一の建築様式で国の重要文化財
享保元年(1801)筑前藩主黒田長再建

御神水綾杉
神功皇后三韓より御帰還の際、三種の神宝を埋めその上に杉を植えてとこしえに本朝を鎮護るべしと誓ひて神霊を憑け留められ杉でこの杉の葉に不老水を添えて毎年禁裏に奉献いたします。火災に遭ふも若芽根より生じ植継ぐことなく伝っております。

不老水
大臣武内宿祢公ゆかりの不老長寿の霊泉。古来痼疾を除き齢を延ばす極めて霊験ありと伝えられ名水百選の認定を受く。

勅使参拝標石
中門内左右に「御脱剣所」「衛士居所」と高さ六十センチの標石があり、中門階段下左右に「御手所水」「御祓所」、勅使館前に「御休息所」の標石が立っています。これは勅使または太宰師の参拝の時、昇殿に至る順序を指示した石で奈良時代のものと推定される。

勅使道
大正十一年貞明皇后御参拝記念献木の楠並木八百メートル。福岡県知事以下県青年団在郷軍人会処女会植樹奉仕。行啓記念碑を建つ。古来の勅使参向の道筋なり。

福岡・香椎宮(古宮) 本宮の右手から社外に出て約百メートル行くと、古宮がある。
沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新内外政策は開闢以来の大偉業なりし為め、常に沙庭を樹て神教を乞請された聖地である。沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である。
棺掛椎
仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給い、神功皇后は天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎に立て掛けられ、恰も天皇御臨の御前会議を開かれた。この時御棺より薫風漂いたるにより、香椎の名起るとの地名伝説もあり。

摂社古宮大明神址
祭神 仲哀天皇
社格 香椎宮摂社
由緒 神亀元年十二月二十日(西暦724年)仲哀天皇・神功皇后を併祀する香椎廟とし新宮に遷宮されてより年を経て何時しか(恐らく平安末鎌倉初期)香椎廟が普通神社の如く取扱はれ祭神も神功皇后一柱とせらるるに至り、仲哀天皇の御神霊を聖地に移し摂社として祭る。大正四年十一月十日仲哀天皇を香椎宮に御加列になり又本宮に移し祭る。今日当地の玉垣のみ残れり。

神功皇后ゆかりの神社と言えば、ここに記した香椎宮や忌宮神社(下関市長府)の他、
城南宮(京都市):神功皇后が戦の上にお立てになった御旗を、八千矛神(やちほこがみ)らの神霊と併せ祭ったのが始めと伝えられる。
住吉大社(大阪市):神功皇后新羅遠征の帰途、海の神である住吉大神を祀ったのが始まりとされる。
生田神社(神戸市):生田神社が御鎮座されたのは、西暦201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港にてお船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」と日本書紀に記されている。
甲山神呪寺(かぶとやまかんのうじ:西宮市):神功皇后は西暦190年ごろ、西宮市のほぼ中央に位置する甲山に、平和を祈念して金のかぶとを埋められた。この山は現在、甲山神呪寺の境内になっている。
筥崎宮(福岡市):神功皇后が応神天皇を産んだ後、その胎盤(御胎衣=おえな)を箱に収めて埋め、そこに松を植えた「筥松」が本殿のすぐ脇にあり、この筥松のある岬ということで、「筥崎」と呼ばれるようになったと言う。
等枚挙にいとまがない。
また、神功皇后にまつわる言い伝えが、皇后が朝鮮半島より帰還された長崎の地に地名、長与(長夜)や蚊焼、として残るなど、知れば知るほど神功皇后神話が戦後の史学者が言う作り話ではないことが実感される。