史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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巌流島
唐戸から巌流島連絡船に乗り、10分で巌流島北東端の波止場に着く。次の便が到着するまで1時間20分の間、観光用に整備された島の東南部を散策した。島の他の部分は対岸の三菱重工下関造船所の所有となっている。

巌流島
正式名称は船島です。(下関市大字彦島字船島)
島の面積は埋立て部分を含めると103,000平方メートルの広さです。
慶弔17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりにも有名です。「二天記」によると、巳の刻過(午前10時)武蔵が到着、待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まりました。武蔵の木刀は振り下ろされ、頭上を打ちました。小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は小次郎の脇腹に振り下ろされ、勝敗は決しました。 勝って武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのを忘れ、船に飛び乗ったということです。負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。

慶長17年(1612)4月13日
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘
寿永2年(1,848)7月吉田松陰が下関周辺を視察。巌流島に上陸。小次郎の墓に参り、「近くの山に二郎兵衛がからいどあり」と書を遺している。
明治43年(1910)10月31日
「佐々木小次郎の碑」が島に建立される。
大正10年(1921)11月2日
斉藤茂吉が渡欧の途中に島へ渡り、「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」など歌3首と随筆「巌流島」を残す。その後、斉藤茂吉と菊池寛が武蔵と小次郎の大論争を展開。
昭和30年(1955)
巌流島の住民がピーク時約30軒になる。(50軒近いとの説あり)
昭和48年(1973)4月
島に残されていた老人一人が島を去り、居住者ゼロとなる。
昭和62年(1987)10月4日
巌流島いっぱいにかがり火をたきアントニオ猪木とマサ斉藤のプロレス「夜のデスマッチ」興行。
平成2年(1990)9月30日
巌流島にて岡山県大原市(武蔵出生地説)と福井県今立町(小次郎誕生地説)が、下関・熊本両市長立会いのもとに姉妹縁組に調印。
平成15年(2003)
巌流島整備事業完工。小次郎像(原型寄付・村重勝久)武蔵像(デザイン・広瀬直樹)の設置。浮き桟橋・釣りデッキ・人工海浜の整備。歴史に触れる観光地としての歩みを始める。NHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」放映
佐々木小次郎像 松岡昌宏序幕(平成14年12月11日)
宮本武蔵像 市川新之助序幕(平成15年4月14日)
森本繁「細川幽斎」(学研M文庫)P283に次の記事がある:
佐々木小次郎は巌流つばめ返しで有名な剣豪で、豊前小倉細川藩の兵法指南役であったが、彼の妻はキリシタンであり、彼自身も、これに心を寄せていたので、その門下にはキリシタンが多く、城下本町の道場は、耶蘇教徒たちの溜り場のような存在となった。
そこで、これを危惧した藩の老臣たちは、藩主忠興に進言してこの小太郎を抹殺しようとした。すなわち、このために仕組んだ武術試合がかくいう関門海峡船島(巌流島)の決闘だったのである。このことは当時豊前門司城代であった細川一門の沼田延元が書き残した「沼田家記」によって推定できることであり、たとへ小次郎が宮本武蔵との試合に勝っていたにしても、いずれは小倉藩によって抹殺される運命にあったのである。

  小倉・手向山
以前、小倉駅からタクシーに乗り、赤坂の豊長戦争の戦跡を訪れようとしたが、その場所が見つからず手向山公園に案内された。ここで偶然、宮本武蔵の碑を見出した:

宮本武蔵の碑
この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州(兵庫県)明石の領主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永3年(1626)15歳の時で、同9年小笠原氏が小倉に移ったときには若くして知行二千五百石の家老であった。
武蔵は数年間小倉に滞在したと伝えられているが、寛永17年には熊本に移り、生保2年(1645)5月19日に没した。
碑は、伊織が小笠原忠真から拝領した手向山に養父・武蔵をしのんで承応3年(1654)4月19日に建てたもので、古くから北九州地方第一の名碑とうたわれている。剣豪の生涯を伝える碑文は、武蔵と交流のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。
北九州市教育委員会

公園内に旧日本軍が構築した砲台跡が残っていた。門司埼の古城山の山頂にも1砲座の砲台跡が残っている。これ以外の沿岸各地にも、関門海峡防衛用の砲台が構築されたことだろう。
手向山砲台跡
明治になって手向山一帯を陸軍が接収、山頂より一段下のこの場所に砲台を構築した。日清戦争など敵艦隊の来襲を予測、関門海峡防衛のために建設したものである。
4号倉庫の上に明治20年9月起工、同10年8月竣工と刻んだプレートがはめ込んである。その後、大砲を配備し完成は同22年3月であった。 砲台は1砲座2門の臼砲を配備、全部で6砲座設置した。中央4砲座は直線に左右の端の砲座はやや内側に折れた「折れ線砲列」で、各砲座間は通路で連結されていた。砲台から関門海峡が見えないので、左右の端の砲座から100mの所に観測所を設置した。そこで位置や距離を確認し、砲台に連絡して砲撃する仕組みになっていた。幸いなことに、実戦で一度も発射したことはなかった。
戦前は要塞地帯のため立ち入り禁止で、終戦後は大砲はもちろん砲座もなくなった。ただ、弾薬などを入れた倉庫が入口を塗りつぶされて残っている。
小倉北区役所

武蔵の碑

武蔵の墓碑は次の各所にある:
西の武蔵塚(熊本市島崎)
武蔵の弟子・寺尾信行一族の墓所で、自然石に武蔵の名「玄信居士」という文字が彫りこまれている。信行の兄・寺尾孫之丞は、武蔵から「五輪書」を相伝された。龍田の武蔵塚には太刀だけを埋め、遺体は寺尾家の墓地に葬られたという説があり、西の武蔵塚と呼ばれている。 JR豊肥本線の武蔵塚駅西南1キロにあり、車掌は駅名を「むさつか」と呼ぶ。

東の武蔵塚(熊本市龍田)
遺言により甲冑姿に身を固め、立ち姿のままこの地に葬られたといわれている。

笠寺観音(名古屋市、写真)
武蔵の百回忌に際し、孫弟子の左右田邦俊の子孫門弟等が、武蔵を顕彰して延享元年(1744)に建立。
碑の正面に次の文字が記されている:
新免武蔵守玄信之碑
三傳中興祖左右田武助藤原邦俊
子孫門人等謹建之
新福寺(名古屋市) 宮本武蔵碑
武蔵の石碑は、ここ新福寺と南区笠覆寺(笠寺観音)の二か所があるが、この石碑は「新免政名之碑」と呼ばれ、寛政5年(1793)円明二天流を伝えた左右田邦俊五代の門弟市川長之が、その門人と共に武蔵149年忌の法要を営んだときに建てたものである。正面に「新免政名之碑」とあり、側面に燈外和尚が撰文した武蔵の履歴を記し、末に三言二十句の銘を付している。
碑に刻まれた文章は漢文で書かれているため解読することが非常に難しい。
名古屋市教育委員会

徳願寺(千葉県市川市)
武蔵が諸国行脚の際、この寺に逗留した縁で徳願寺第十五世水誉上人が武蔵の没後67年の正徳2年(1712)に供養のために地蔵尊を建てたといわれる。

武蔵年表:
天正12年(1584)3月岡山県英田郡大原町宮本に生まれる
慶長2年(1997)13歳にして播州平福で新当流有馬喜兵衛と闘う
諸国を巡り剣の道一筋に練磨し、その間京都一乗寺下り松で吉本一門と闘うなど60余度の勝負に負けたことがなかった。
寛永元年(1624)伊織を養子に迎え、姓を宮本とする
寛永5年(1637)島原の乱に小倉藩主小笠原忠真の指揮監として伊織と共に出陣
寛永17年(1640)熊本藩主細川忠利の客分として熊本千葉城址に迎えられる
寛永18年(1641)忠利の命により兵法35箇条を書き、春山和尚と交誼を結ぶ
寛永20年(1643)岩殿山霊厳洞にこもり座禅瞑想し五輪書を書き始める
正保2年(1645)五輪書を書き終えて病が重くなり62歳で永眠