史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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機雷と焼夷弾攻撃
太平洋戦争当時、米軍が実施したB29による機雷敷設作戦44回のうち、下関海峡を目標にしたのは34回もある。昭和二十年(1945)テニアン北飛行場を基地とする第313爆撃団のB29編隊が深夜幾度となく飛来し、下関海峡の機雷封鎖を継続するために、パラシュート付の機雷を多数投下した。その都度、日本側は掃海して機雷を除去したが、港湾・航路の安全宣言が行われたのは1949年のことであった。

期間 1945年3月27日~8月14日(141日間)
出撃回数 34回(4.1日/回)
出撃機数 延1,200機(35機/回)
損失機数 14機
機雷種類 MK25、MK26、MK36
携行機雷数 徐々に増え、末期で8.8個/機

また、同年6月28日深夜、門司市街地は第313爆撃団のB29編隊91機により焼夷弾攻撃を受け、市街地の28.8%を焼失した。
さらに、7月1日深夜、下関市街地はグアム北飛行場を基地とする第314爆撃団のB29編隊127機により焼夷弾攻撃を受け、市街地の36%を焼失した。

機雷封鎖作戦の記録
幾つかの資料から、機雷敷設作戦に関連する部分を抜粋して以下に掲げる:
B29の港湾航路封鎖作戦で各地に投下された機雷は、対馬海峡だけで6000個に及び、20年3月、未だ月間総計7万トンの船舶が航行できた下関海峡が、5月には7500トン、週一回2000トン級の貨物船一隻が辛うじて無事通過するといった有様であった。アメリカ側が、Operation Starvation(飢餓作戦)と呼んだ港湾封鎖は、食糧軍事資材の流通を阻害しただけでなく、外地との人事交流をも不可能にしていた。
(阿川弘之「軍艦長門の生涯」新潮文庫)

B29特定任務の作戦の中で、最も成功したと思われるのは、沖縄侵攻に先立って開始された、大規模な機雷投下作戦であろう。(略)
第一回の出撃は3月27日で、これは関門海峡の西側入口封鎖を目標とした。92機のB29は1000ポンド(約450キロ)や2000ポンドの音響機雷、磁気機雷を海峡に投下した。 突然、関門海峡にあらわれた機雷原は日本軍をおどろかせた。そして、全船舶が海峡の掃海が終るまで、航行不能になってしまった。日本海軍はただちに大掛かりな機雷監視の組織を作り、海岸や付近の丘、海峡内の漁船などに配置した。レーダー、探照灯、水中聴音機なども機雷投下の発見のために用いられた。しかし、日本海軍には掃海用の器具が不足しており、この機雷投下作戦がたび重なるにしたがって、関門海峡の安全航行を維持することは困難になって行った。(略)

日本側をひどく痛めつけたのは、関門海峡の封鎖であった。機雷による被害は一日平均約8隻にものぼった。5月中、機雷は米潜水艦よりも多くの被害を日本船舶に与えるという好成績をあげた。この一ヶ月で85隻、21万3000トンの日本船舶が沈没又は大破した。
(Carl Berger「B29 the superfortress」日本語版:中野五郎監修「B29<日本本土の大爆撃>」サンケイ新聞社出版局)

B29乗員の回想
次は、メーリングリスト「B-29 Superfortress」に私が撮った下関海峡の写真をつけて投稿した文である:
添付した写真は、日本の本州と九州を隔てる下関海峡で、下関市が対岸に横たわっています。この海峡への機雷敷設は945年3月27日に始まり、太平洋戦争終結の1945年8月15日の前日に終りました。第313爆撃団のB-29約30機が殆んど二日おきにこの作戦に従事した。この海峡の最小幅は約700メートルで、大昔から交通、運輸及び軍事の要衝であった。この周辺には数多くの史跡が集中しています。現在は、自動車道の吊橋が空を横切っています。

これに対する返信を二通掲げます:
美しい写真を有難う。私の兄は、第313爆撃団に属し、1945年7月に機雷敷設に従事中、死にました。門司市の浅い墓に葬られていた死体は1946年に持ち帰りました。私はいつもそのあたりが今、どうなっているか気がかりでしたが貴方から写真を送って下さりありがたく存じます。これは私にとって多くのことを意味します。(2001年10月28日、Betty M. Precour)

B-29グループに写真を送ってくださり有難う。この写真によって、この地域の機雷敷設の難しさがよく分かります。私は二回、この作戦に従事し、機雷をうまく敷設することがたいへん難しかったことを覚えています。私たちは夜間、10,000フイート以下の高度からレーダーを使って投下したので、目標に命中させるのがどれほど困難であったか、そして幾つかは地上に落ちて損傷を与えたのを覚えています。
私の戦闘記録のコピーを添付します。そのうち、記憶に残っているのは東京と8月6日及び9日のことです。私は二個の原爆が投下されるのを、50~100マイル離れて目撃しました。その記憶は22歳の年老いた若者にとって原爆以上の印象でした。長崎地区へは、日本に捕虜になっている人たちに物資を投下するために戦後すぐ行きました。私たちはその近くを高度約500フイートで飛行し、その印象を心に刻みました。(2001年10月28日、Ford Tolbert:505 BG of 313BW)

Ford氏は、1945年5月25日東京空襲に参加してから、同年8月9日長崎原爆投下時に救難機(スーパーダンボ)に搭乗するまで22回出撃した。その間、下関機雷投下には6月7日、同19日及び同29日の三回出撃している。また、戦後も捕虜収容所にいる戦争捕虜(POW:Prisoner of War)への物資投下のために、日本へ飛んだ。

 
下関市史抄録(P804-810)
防衛態勢
海軍 下関市吉見に「下関海軍防衛隊」を置き、関門防衛に専任し、関門西口の防衛に当たった。 その後、関門海峡を含めた対馬海峡の防衛専任部隊として昭和20年4月10日第七艦隊が編成され、司令部が門司に置かれた。従って下関海軍防衛隊は、同日付けで呉鎮守府舞台から離れ、第七艦隊所属となった。
第七艦隊の主力は、関門の防衛を担当する下関海軍防衛隊であって、昭和20年当初同防衛隊の兵力は次の通りである。
下関海軍防衛隊の兵力
本隊 約600人
防備衛所 蓋井島、白瀬、賢女、川尻、波津崎、計5か所、約330人。
特設見張所 角島、六連島、計2か所、約20人。
駆潜特務艇3隻、特務監視艇1隻、汽艇1隻、大発2隻。
防備の対象は、主として敵潜水艦にあったが、対空兵器も25ミリ機銃約57門、13ミリ機銃約11門を陸上に配備していた。
陸軍 陸軍は関門海峡の防空を担当していた。このため、次により防空戦闘機部隊と高射砲部隊を配備していた。
防空戦闘機部隊
小月に第12飛行師団司令部を置き、戦闘機を次のように配備して関門を含む北九州の防空に任じていた。
小月 飛行第4戦隊
芦屋 飛行第57戦隊
防府 飛行第71戦隊
高射砲部隊
B29が昭和19年6月に北九州に初来襲。その後、高射火器を増強、昭和20年4月には西部高射砲集団長指揮のもと、高射砲36箇中隊210門、照空15中隊90基、機関銃中隊が関門を含む北九州に配備された。

昭和20年(1045)3月27日
一回目の作戦は、昭和20年3月27日の夜に実施された。テニアン基地を離陸した92機のB-29爆撃機は2345より翌日の0130にかけ波状的に関門海峡上空に達し、関門西口航路筋及び同東口航路筋をそれぞれ目標に1機ずつ低空から機雷を投下敷設した。小月基地の飛行第4戦隊は、全力要撃により10機以上の撃墜を報じた。米軍側の記録によると、「敵の航空反撃は弱かったが、低空を飛行したB-29群は、多大の対空砲火を受けた。その中には、若松地区内にあった船舶からの対空砲火も含まれていた。3機が失われた。」となっている。
二回目の作戦は、3月30日の夜、行われた。85機のB-29は、関門海峡東口航路筋に投下敷設した。この空襲は関門上空まで飛来しなかったらしく日本側の記録には無い。

4月に入り、1日から12日までに5回、延べ45機のB-29をもって機雷が敷設されたが、関門海峡の真上から敷設したのは4月10日のみである。このときの様子を下関海軍防備隊戦闘詳報第1号によると、同夜B-29約30機来襲、高度ならびに来襲状況は、磁気機雷が主で、新しい水圧機雷が含まれていた。そしてこの機雷の被害は投下早々から続出した。

門司海軍武官府は、3月28日総艦艇に対し、関門海峡の航行禁止を告示し、下関防備隊は既定計画に基づき掃海を開始した。また呉鎮守府は下関防備隊へ掃海兵力として駆潜特務艇などを増援、派遣した。

掃海対象海域は、第1水道(蓋井島東側水道)、第2水道(蓋井島南西側水道)、北九州水道、部埼門司崎水道、吉見水道(北、中、南)、六連泊地、部埼泊地、若松外港泊地の8か所であった。

磁気機雷に対する掃海は、小型艦艇が磁銲20個前後の数を結びつけた約100メートルの曳索(3式)、または通電した電纜(5式)の2種の掃海具をそれぞれ単艦または2隻で曳航し、機雷に感応させ誘爆させるものであって、4月中に21個処分している。

音響機雷に対しては、発音弾を海中に投下するのと掃海艇が音響発信機を曳航して感応させるものがあった。発音弾は主として水上機から投下させた。4月中の処分機雷は36個だった。

機雷の感応度は高く、4月中の触雷による被害は、海軍艦艇で14隻、民間船舶33隻に達し、狭い水道のあちこちに沈船のマストのみが海面に露出している光景が見られた。

昭和20年5月
5月に入り、沖縄戦は峠を越し、沖縄支援のための関門の価値はなくなったが、大陸からの重要物資搬入路としての価値は益々高くなったので、B-29による機雷攻勢も高まり、5月中の機雷敷設は9回に達した。

防空作戦は一向にはかばかしくなかった。第10方面群は高射砲隊及び照空隊を下関及び門司方面に増強した。第12飛行師団は機雷投下のために来襲する敵機の要撃に努めたが、夜間のため、また低空であったので、B-29の捕捉攻撃は困難であった。

呉鎮守府は、関門掃海を強化するため、佐世保防備隊および舞鶴防備隊の掃海兵力の協力を求め、下関防備隊の掃海能力を強化した。下関防備隊は増強された掃海兵力を9個の掃海隊に編成し、24時間掃海に努めたが、投下される機雷の性能は、その都度高性能で複雑になってこれまでの掃海具では用をなさぬものもあった。

下関防備隊は、鑑定司令部の特例を受けながら関門における安全水路の設定に努力したが、被害は増すばかりで、5月中に一般船舶13隻以上、海軍艦艇3隻がそれぞれ触雷し沈没した。

関門の投下機雷のため船舶の運効率は、著しく低下した。第7艦隊は5月19日以降「爾今関門海峡に改正型以下の船舶に対しては航路を特に綿密に指定して相当の危険を冒すも極力通航せしむることと致したく」と思い切った処置に出た。

5月中のB-29の来襲回数は9回、来襲奇数は127機、投下機雷数648個、関門東口通航船舶数1026隻、触雷数23隻、関門西口通航船舶数878隻、触雷数18隻。

6月になると、B-29による機雷攻勢は、日本全国の主要港湾ならびに水道に拡大された。しかしその間においても関門海峡に対する機雷攻撃は弛められず、6月中においても9回の来襲をみた。投下要領は単機波状的に行うもので、来襲高度は、晴天、暗天3000~6000メートル、曇天の夜間は雲間を縫って1000メートルくらいに下がることがあった。

このころ北九州防衛のため小月、芦屋、防府の三基地合わせて戦闘機約40機を保有していたが、昼間作戦で手いっぱいであり、低空を飛来するB-29の夜間攻撃は、技術的にも、機の数からしても要撃は困難であった。

対空砲火も夜間は敵機捕捉が難しく、有効な射撃ができなかったと報告されている。

下関防備隊の兵力は6月に入って更に増強された。
駆潜特務艇23隻、大発16隻、特設監視艇10隻、曳船1隻、徴用漁船10隻、海防艦3隻、特設駆潜艇4隻、特設掃海艇13隻。

来襲機は5月に比べて更に増え、154機、投下機雷数40個、関門東口通航船舶数3,250隻、触雷数19隻、西口通航船舶数2217隻、触雷数27隻。
6月中の防備隊の機雷処理数は、磁気31、音響30、自爆61、陸上処分の計215個であった。
昭和20年7月
B-29による関門方面の機雷攻撃の手は、7月以降も全く弛められなかった。7月始めから終戦までに投下された機雷は、14回、3578個に達したが、その半数は関門海峡および内海に落とされた。おそらく、大陸から内地に運ばれてくる食糧、軍需資材を徹底的に遮断しようとしたのであろう。

これに対して制空権のない関門防衛は、大型高射砲と探照灯によって捕捉したにすぎない。しかしB-29は、攻撃高度を高くすることによって回避した。それには、落下傘付機雷を使用したが、これは、流されて多数陸上にも落下するようになった。

船の墓場と化した関門海峡の航路の再開に下関防備隊を主力とした第7艦隊は全力をあげて実施したが、それでも7月から終戦までの45日間に関門の閉鎖は16日間に達し、輸送能力は、3月ごろに比べ、その7%に激減した。

加えて、海峡周辺都市に対するB-29の焼夷弾攻撃は、6月28日門司市、6月29日、7月2日下関市、8月8日八幡方面工業地帯へと機雷攻撃と平行して行われ、8月に入ると、ほとんど関門海峡は閉塞状態だった。

当時、最も心配されていた関門鉄道トンネル破壊を目的とする爆撃は行われなかった。米軍側において意識的に爆撃目標としなかったものか、それともトンネル地帯に密集する対空砲火を恐れたものか、いずれにしてもトンネルが爆撃されなかったことは不幸中の幸いであり、仮に破壊されていたとすれば、戦後の日本経済の復興はかなり遅れただろう事が容易に想像できる。

昭和20年8月15日太平洋戦争の終結により、4ヶ月余り続いた関門に対するB-29の機雷攻撃は終止した。しかし、大量の感応機雷が投下された関門の危険性は持続し、航行が著しく制約された。海軍は、下関防備隊跡に下関掃海部を置き、掃海隊を所属させて関門の航路再開に努めた。 しかし、米軍の資料によると関門に投下された米軍の機雷は4329個(日本側資料によると4696個)に達し、これを掃海によって絶滅することは容易ではなかった。昭和20年11月末海軍が解体した以後も掃海部は存続し、掃海作業が継続された。

米軍投下の感応機雷の命数は順次延長されていた。すなわち、米軍は日本に投下した感応機雷は昭和23年ごろ感応力を失うと日本政府に通告していたのであるが、5年たっても10年経っても触雷事故が発生するため米国は順次その命数を延長してきたのである。

しかし、戦後、懸命の掃海作業によって、港湾、航路の安全宣言が行われた。昭和24年1月19日関門港、同年10月11日関門東口、昭和27年5月15日下関南東水道、下関海峡東口、長府航路、関門港下関海峡西口、下関第3水道、下関第2水道、蓋井島泊地。
ところが実際には安全ルートを外れた海域を航行する船舶の触雷事故はその後も発生し、下関掃海部は解散することができず、海上保安庁、海上自衛隊と所属名称は変わっていたが、昭和40年代まで海上自衛隊下関基地隊を基地として関門の掃海を継続したのである。

昭和25年6月、朝鮮戦争の勃発に伴い国連軍の掃海作業に協力を求められ「日本特別掃海隊」を編成、掃海艇20隻、巡視船4隻、延べ1,200名が参加して、当時交渉中だった対日講和条約の締結に大きく貢献することとなった。

日本特別掃海隊
下記WEBに記載の文章をここに転載しました:
特別掃海隊・非軍人1,200人を動員
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/anpo/t000620.html#tokusou
「海の神様」で知られる香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮。五月二十七日、山口県大島郡沖浦村(現大島町)出身の中谷藤市さん(73)=大阪市浪速区=が長い石段を上った。海上自衛隊が毎年、旧海軍記念日のこの日に営んでいる掃海殉職者慰霊祭に出席するためだ。

一九五〇年、中谷さんの弟、坂太郎さん(当時21)は海上保安庁の機雷掃海隊員として、極秘裏に朝鮮半島沖に出動した掃海艇に乗り組んでおり、十月十七日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)元山沖で機雷に触れ、亡くなった。

金比羅山にある掃海殉職者の慰霊碑には、戦後、瀬戸内海などで機雷を除去する仕事で死亡した七十九人の名が刻まれる。その中に、坂太郎さんもいる。だが、ただ一人の「戦死者」であることは記されていない。「弟が朝鮮に行ったことは当時、固く口止めされた。最近でこそ堂々と話せますが…」。中谷さんは、弟の名をなぞった。

「下関に集結せよ」。五十年十月初め、日本各地の海上保安庁の掃海部隊に、指令が下った。朝鮮戦争に派遣する「日本特別掃海隊」編成のためだった。

開戦当初、北朝鮮軍は進撃を続け、釜山近くまで達する。九月、米軍を主体とする国連軍は反攻を開始。元山上陸など重要作戦に欠かせないのが、北朝鮮軍が敷設したソ連製機雷の除去。米軍は終戦直後から国内での掃海を続けてきた日本の出動を強く求めたのだ。

下関市の唐戸桟橋に集まった掃海隊員たちは、初めて朝鮮戦争に「参加」することを知る。「平和憲法があるのに外国の戦争に行っていいのか」と、艇ごとに議論が続けられた。

「われわれは軍人ではないと荷物をまとめようともした。だが、米軍に命令されたのだからやめるわけにはいかないと…」。広島県賀茂郡黒瀬町に住む元掃海隊員の川原次郎さん(73)は明かす。ほとんどの隊員が朝鮮半島へ向かった。

元山沖には、掃海艇四隻を中心とした船団が到着。湾内の無数の機雷を処分する作業を命じられた。沖合には、上陸に備え米軍の空母や戦艦が待機。日本の掃海隊は作戦自体に組み込まれていた。川原さんは新婚早々だったが、「国内で掃海経験は十分ある。やるしかないと覚悟を決めた」。

十月十二日、米軍の掃海艇二隻が触雷し沈没。五日後、中谷坂太郎さんが乗っていた呉の掃海艇「MS―14号」が水面下の機雷に接触する。ペアを組む別の掃海艇にいた川原さんは、その瞬間を目撃した。「こっぱみじんでした」
呉市に住む高木義人さん(72)はMS―14号の生存者だ。「午後三時ごろばーんと音がして体が飛んだ。みんな甲板にいたのに調理員の中谷君だけが、食事の準備で、船倉に降りていた」。坂太郎さんの遺体は見つからず、高木さんら他の十八人も重軽傷を負った。

残った三隻の掃海艇は、現場を離脱して帰国、指揮官らは解任される。しかし、掃海隊派遣は続き、十二月までに七回、延べ千二百人が半島沿岸で掃海。海上保安庁は翌年、鋼鉄製の「モルモット船」も走らせ、機雷が処理されたのも確認した。

吉田茂首相(当時)は憲法に抵触する可能性から、犠牲者が出た事実はもちろん日本特別掃海隊の存在すら公表せず、隊員たちにもかん口令が敷かれた。

だが、戦後三十年余りたって当時の海上保安庁長官の手記が出版され、全容が明らかになる。坂太郎さんが叙勲を受け、朝鮮戦争での「戦死」が公認されたのは、79年のことだった。

金刀比羅宮での慰霊祭。掃海部隊のOBでつくる「航啓会」の細谷吉勝会長(62)=呉市=は、式辞の中で日本特別掃海隊に触れ、「翌年の講和条約を有利に運ぶのに、大きく貢献した」と評価した。

以前は事実を隠す国に憤りを感じた中谷さんは最近、「弟の死が必ずしも無駄ではなかった」と思い始めている。そして「歴史のかなたに忘れられることがないように」と願う。

海上保安庁の掃海部隊の人材とノウハウは日米安保体制のもと、五四年に発足した海上自衛隊にそっくり引き継がれた。「その伝統は、掃海部隊の二度目の海外派遣であるペルシャ湾掃海(九一年)に生かされた」と細谷さん。そして今、周辺有事で米軍が期待する分野の一つが、海自隊の掃海能力だとされている。

かつては国家機密だった日本特別掃海隊の秘話。今では海自隊は「海外派遣の先人」として、当り前に紹介するようになった。

B-29機雷敷設
下記の団体に寄稿された体験談を和訳しました。
The Northwest Chapter of the Distinguished Flying Cross Society
http://www.dfcsociety-nw.org/ はじめに
シカゴ在住の私の息子が、私に第二次世界大戦中にB-29を初めて沖縄に着陸させた物語を書くよう勧めました。彼は貴女が第二次世界大戦爆撃群親睦会に招かれて、ある事柄について話されたのを読み、読者たちは恐らく私の話に興味を抱いてくれるだろうと考えたからです。この11月で私は79歳を迎えますが、オハイオの小さな町を出てこれからお話しする体験をしたのは21歳の青年の時でした。残念なことに、我々の第9爆撃群は生存者が非常に少なくなったので解散しました。この14年間、数多くの親睦会を催してきましたが、今は我々11名の乗員のうち4名だけになってしまいました。

私はマリアナ諸島のテニアンに駐留した第313爆撃団第9爆撃群第5大隊所属の陸軍航空隊B-29のパイロットでした。 ある期間、第9爆撃群は支那、朝鮮、台湾やインド支那から日本への交通路を遮断するために、すべての航路と大きな港に機雷を敷設する任務に従事しました。

1945年5月24-25日、我々を含む我が群の31機の航空機が下関海峡西通路に機雷を敷設する任務を命ぜられました。この海峡は九州北西海岸にある重要な港である福岡港付近にありました。各航空機は単独で飛行し、各機単独で飛行し、各個に機雷を敷設し、我が海軍が機雷をどこに敷設したか分るように投下した機雷のレーダースコープ写真を撮影し、群の他機と交信せず単独で帰投しました。我々は、海中入射時の速度を落すためにパラシュートを装着した2,000ポンド機雷を7個搭載しました。ある機雷は音響式、磁気式、そしてある機雷は頭上を通過する船の重量を測定し、それが大型の場合のみ炸裂するよう設定されていました。

緊急着陸
我々はテニアンを午後10時に出発しました。 機雷投下高度は約5,000フイートまたはそれ以下でした。幸か不幸か、投下した機雷は日本巡洋艦を夾叉(きょうさ)した様に思われました。その高度では、夜の暗闇の中であったにも拘らず海岸の部隊ばかりでなく、その巡洋艦からも強烈な対空砲火を受けました。4時33分、目標空域を離れ、東南方向に向け旋回し九州と四国の間を抜けて帰ろうとしたとき、油量計が予想より少ない燃料しか残っていないことを示しており、マリアナ諸島の我が基地があるテニアン島へ帰るに十分な燃料がないことに気がついたのです。我々は対空砲火によってどれくらいの数の穴を開けられたか分りませんでした。ブリーフイングでは硫黄島の天候は悪く、多分大雨と視界零のため滑走路はクローズされていると聞いていました。従って、機長のアルビン P.バワーズ大佐と私は硫黄島より近い沖縄に向う決心をしました。

我々は、日本戦闘機が攻撃して来ないように、九州東岸から遠く離れた海上を南下しました。我々は沖縄の南端周辺を旋回しましたが、そこは未だ強力な日本軍が守備していました。そして北に引き返して、読谷(よんたん)航空基地に向いました。そこは緊急時に使用できると説明を受けていました。読谷地域に近付いたのは日没直後のことで、戦艦、巡洋艦、駆逐艦及びその他の海軍艦艇が那覇市付近の日本陸上施設を射撃する巨大な艦砲の砲口から発する閃光を目撃しました。戦艦の巨大な艦砲が一斉射撃するたびに、衝撃波が航空機をひどくゆするので味方の砲弾が我々に命中したのではないかと思いました。海軍の上空を飛んでいる間中、読谷の管制塔を呼びつづけましたが、その甲斐もありませんでした。次に、読谷の滑走路の両側に飛行機が燃える大きな火災に気付きました。

コードネームでサリー(97式重爆機)と呼ばれる日本の中型爆撃機が、読谷に着陸しようとしている海軍の夜間戦闘機を追尾して、車輪を上げたまま滑走路上に着陸しました。日本の落下傘部隊が壊れた飛行機から飛び出してC-54、B-24、及び他の海軍と海兵隊の飛行機の列に駆け寄り、飛行機に手榴弾を投げ込んで火災を発生させました。飛行場に沿う高射塔にいた海兵は40ミリ高射砲を下に向け、日本兵を撃ちましたがそれはまた多分数機の飛行機にも命中したことでしょう。この乱闘の最中、我々は着陸許可を求め続けていました。でも、通常のVHFでは何の応答もなかったので、曳航ワイアアンテナを繰り出してB-29に搭載していた500ワットのコリンズ通信機から呼び出しを続けました。その間、艦隊上空を数回往き来し、常に艦砲の衝撃波にゆすられ続けたのです。

整備
最後に誰かがVHFで我々を呼び出し、読谷南方3-4マイルの海兵隊F4U戦闘機用の泥まみれの嘉手納滑走路に着陸せよと指示しました(説明書には5,000フイート長とありましたが、テニアンの見慣れた9,000フイートの舗装滑走路からすれば、恐ろしく短く見えました)。我々は嘉手納を探し出し、エンジン出力を上げ、フラップを一杯まで下げました。その滑走路はとても短く狭かったので、滑走路上で停止できるよう航空機の速度を失速速度より少しだけ上に保持するようにしたのです。接地したとき、滑走路の四分の三の辺りを地ならし機が横切り始めました。バワーズと私は共にブレーキを力いっぱい踏みつけ、衝突したら大事故になるので地ならし機を避けられるよう祈りました。我々はタイアを一個パンクさせ、停止したあともう一個がひどく裂けていることを知りましたので、次の離陸までに交換せねばなりませんでした。

  海兵隊は早速我々を迎え、B-29を戦闘機用擁壁の中に後ろ向きに引き入れてくれました。そこは日本の爆撃機や戦闘機が攻撃してきた場合、B-29の一部を保護できる程度の広さでした。両翼は擁壁上に突き出ました。海兵隊はB-29をあわてて少し隠してくれました。というのは、神風が4-5マイル先の港内の艦隊を攻撃していたので、この銀色の怪物が彼らの目に止まることが我々全員の心配だったからです。

  海兵隊は6×6トラックを用意し、機関士、ボーエン中尉(爆撃手)、ブラス(航行士)及びその他の乗員を読谷航空基地に連れて行きました。というのは、誰かがB-24のタイアがB-29に合うのを知っていたからです。そこで、破壊されたB-24からタイアを二個貰って来ました。乗員達は読谷で戦場の跡とそこで死んだ日本兵士を目撃しました。

 
帰還
その間、パイロットのバワーズ大尉と私は地下にかくまわれていました。その海兵隊の作戦中枢、食堂、生活区域等は航空機の攻撃や日本兵の奇襲から守るために地下深くに置かれていました。硫黄島ではある夜、神風兵士が戦闘機パイロットの野営地に侵入し、多くの陸軍航空P-51パイロットを滅多切りにしたり、殺したりしています。

我々は、来襲する神風を要撃するために一日中短い飛行をくりかえして、行ったり来たりしている海兵隊戦闘機パイロットと、彼らの話を聞いたり我々の話を聞かせたりしました。あるパイロットはこの島で手に入れた薄地の黒い着物をくれました。私はそれを今も持っています。「レデー テデイー」の状況を見るために暫時上に上がったとき、一機の海兵隊パイロットが墜落する日本の飛行機のエンジンに当たって左翼を5フイートもぎ取られて着陸してくるのを目撃しました。

やっと、タイアの交換と我がB-29の給油が終わったので、我々は離陸するために滑走路の端にタキシングしました。私はブレーキをかけ、四基の2,200馬力エンジンを最大出力(マニホルド圧54インチ)に上げ、ブレーキを緩めました。テニアンに帰る6-7時間の飛行に十分なだけの燃料を積み込んでいたので、離陸は比較的短く日本陸軍の予想される地上砲火からなるべく早く逃れるために、上昇しました。教範には離陸は完全に行え、とありますがその通りだったとは思えません。多分、狭く泥だらけの3-5,000フイートの戦闘機用滑走路から離陸するのに、通常の慣例に従えなかったでしょう。我々は、午前7時に着いた沖縄からテニアンへ午後3時30分に出発しテニアンに午後10時30分に帰着しましたので、24時間以上の勤務でした。幸運にも我が国の防空は非常に激烈なので、出撃時には日本戦闘機を全く見かけませんでした。沖縄滞在中、那覇に対する我が海軍の艦砲射撃と我が軍の航空機の急降下爆撃は絶えることなく、また我が艦隊に対する神風の攻撃もひっきりなしでした。

B-29超重爆大隊では、パイロットは右に、機長は左に着座します。我々の場合は、バワーズ大尉と私との間で良き約束があって、すべての任務は私が操縦しました。今回の飛行では、バワーズはテニアンに帰る海兵隊の非番の操縦士と飲酒していました。

陸軍と海兵隊が行った沖縄戦役を振り返ってみると、那覇での戦闘が太平洋戦争で戦われた戦場の中で最も恐ろしいものの一つだったでしょう。

機 雷
機雷は大型で、B-29の弾倉に2個以上積めない。前部弾倉に2個、後部弾倉に1個、計3個以上積んだことはない。各機雷は2個の信管を持つ。そして水溶性リングが水中で数時間かけて溶解して信管をホット状態にする。信管に二つの形式があり、各形式は掃海艇を騙すように設計されている。一つはラチェット型で、掃海艇が海上を通過する回数が多くならないと機雷が活性化しないようにされている。 もう一つは音響型で掃海艇が既定の回数だけ通過したことを数えてからライブ状態にする。 機雷をB-29に搭載する作業をするとき、作業員は身体に金属を着けたり持ったりすることができない。ベルトのバックルのようなものは駄目でリングは良い。トラックでハードスタンドに運搬できない。信管が不完全になる恐れがあるからだ。
機雷にはコンポジット炸薬が用いられる。爆弾と異なり、衝撃によって爆発する恐れがある。爆弾にはTNTが用いられ、高射砲弾などでは炸裂することはない。