史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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ツアーでは、兵馬俑博物館や華清池などを見て廻ったが、そのうちで歴史上の日本人に関係する史跡を紹介する。 西安は隋・唐時代に都が置かれたところで、長安と呼ばれていた。ここで日本人と因縁が深いのは、青竜寺と阿部仲麻呂記念塔(写真)である。

青竜寺 青竜寺は唐の長安城内の東南に位置する密教の有名な寺院であった。この寺院は、隋の開皇二年(582)に建立され、初めは霊感院と称されたが、唐の武徳四年(621)から一時退廃した。唐の竜朔二年(662)、観音寺として再建され、景雲二年(771)青竜寺と改称した。
会昌五年(845)、全国的な廃仏事件が起こり、その際青竜寺も破棄され、皇家の内苑となった。その翌年の五月再び寺院として復活し、護国寺と名付けられ、北宋まで存続したが、次第に荒廃し、遂には廃墟となり地上から消えてしまった。
中国人民共和国成立後の発掘調査により、その建築遺跡が七ヵ所もあることが分かった。そして門の跡、塔の跡、殿堂、廊下などの遺跡が発見され、蓮華紋様の瓦当、鴟尾の残片、筒瓦、三彩仏像の残片、金塗の仏像、経幢などの文物も出土した。
中国では唐時代は仏教の繁栄期であった。唐の有名な高僧恵果が主宰していた青竜寺は当時の密教の重要な道場の一つとして、一時盛大を極めた。仏法を求めるために内外から多くの僧侶がここへ訪れた。特に日本の僧侶が中国の仏教から受けた影響は大きかった。日本仏教史における入唐八家の中の六家(空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)が前後して青竜寺で仏法を学んだのである。
その中にはとりわけ密教阿闍梨嗣を受け継いだ空海は業績抜群であった。804年、遣唐使について長安を訪れた空海は初めに西明寺に住み、のち青竜寺の恵果大師に師事して、密教を学んだ。806年、帰国して日本で真言宗を創立し、日本「東蜜」の大師と呼ばれている。空海は仏教の布教と同時に、中国の文学、書道、天文、医学などの知識を日本に伝え、日中両国の文化交流のために大きな貢献をした。

空海大師とその師の恵果大師を記念する為に、日中両国共同で青竜寺遺跡に恵果空海記念堂、空海記念碑、青竜寺庭園が建立された。

阿部仲麻呂記念碑 西安市街の東方に興慶宮公園があり、阿部仲麻呂記念碑が建っている。 仲麻呂(698~770)は奈良時代の遣唐留学生。養老元年(717)、吉備真備らと共に唐に渡り、玄宗に仕え、朝衡(ちょうこう)と改名。天平勝宝五年(753)、帰国しようとしたが海難のため果たせず、在唐五十余年、七二歳で客死した。
和歌
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも の作者として有名。
記念碑には、唐の代表的詩人李白(701~762)の詩が刻まれている。仲麻呂が帰国の途中海難で死去したと聞き、友人として追悼の詩を捧げた。

李白「晁卿衡を哭す」
日本晁卿帝都を辞す
征帆一片蓬壺をめぐる
名月帰らず碧海に沈み
白雲愁色蒼梧に満つ

碑の前で我々の同行者が、この詩を朗々と吟じた。

数年前、長江ダムの堤が閉じられる寸前に重慶から長江下りをして、白帝城を訪れたときも、李白「早く白帝城を発す」の碑(周恩来書)の前で、日本人のグループがその著名な詩を吟じている場面に出会った。その一人が私に、「現地で吟ずることができ誠に感無量です」と話しかけてきた。その気持ちは分かるが、他国の人から見るとどこかの宗教団体がお経でも上げているとしか映らないであろう。

李白「早く白帝城を発す」 朝に辞す白帝城彩雲の間
千里の江陵一日に還る
両岸の猿声啼いて住まらず
軽舟すでに過ぐ万重の山


長江ダムが完成すると、水位が百八十四メートルも上昇するので船を下りるとすぐ白帝城に到着できるようになるから、年配者も輿に乗って山道を登らなくて済む。輿とは、二本の竹竿の真中に椅子を固定し、客がこれに座ると前後二人で竹竿を両肩に担いで運ぶ、簡便で快適な乗物である。