史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク

西安旅行に先立って読んだ本の中(注参照)に、秦二世皇帝胡亥(こがい)の墓と寒窰(かんよう)を訪れた短い旅行記があった。これを読んで、そこに行ってみたいと思った。 (注)今泉恂之助著「兵馬俑と始皇帝」(新潮新書)

ある日、西安市内の観光を終えて午後五時前にはホテルに戻った。六時半からのホテル内での会食までに一時間半余裕があるので、隣室のT氏に声をかけたら同行しましょうとのこと、二人で早速ロビーにおりた。

徒歩で行く積りだったので、念のためカウンターの女性スタッフに地図を示して、距離はどれくらいあるか質問してみた。彼女が同僚に問い合わせているのを横から聞いた日本人女性客が、「徒歩では無理。タクシーを使ったほうが良い」とアドバイスしてくれたので、礼を言って早速それに従うことにした。

ホテルの入口でドアボーイにタクシーを頼むと、外へ出て大げさな合図をした。すると、遠くにいた赤い軽自動車が矢のようにやって来た。車種はスズキアルト、西安の街で最も多く見かけるタクシーである。

運転手は色浅黒く精悍で引き締まった顔立ち、一目で信頼が置けそうに感じた。私が前席に、T氏は後席に乗りこみ、地図を示してここだというと、ちょっと首をかしげ自信の無いそぶりをしたがすぐ車を発進させた。

ちなみに中国のタクシーは後席に乗った乗客から運転手を保護するためか、前と後の席の間は金網で仕切られている。だから地図などを後席とやり取りするのにその都度、金網の縦の隙間を通さざるを得ないので、不便この上もない。

隋のあとをうけて唐が完成させた長安は東西九・七キロ、南北八・二キロという広大なもので、その東南部に遊楽の地である曲江池があった。長安の東側の城壁は二重になっており、皇帝はその間の専用道路(幅約五十メートル)を通って、曲江池のある芙蓉園へ行幸したという。

玄奘法師がインドから持ちかえった経典を納めた七層で高さ六十四・五メートルの大雁塔が立つ大慈恩寺は曲江池の北岸に、そして我々がこれから訪問する秦二世陵や寒窰はその南岸に位置する。

車はホテルの右側の坂道を上りすぐ右に折れて市街地を出て、緩やかな下り道を南東から南の方向に廻り込んで行く。この辺りは起伏のある丘陵地帯で、育ちの悪そうな小麦畑がひろがっている。道の左側は黄土の段丘が連なり、右側は低地になっている。

この低地が唐の時代には満々と水をたたえた湖、曲江池だったのだ。我々が行く道はその東岸をまわっているのだが、砂漠化が進んだ今日、往時の水や緑を彷彿とさせるものは何もない。また、当時の水底であったところが区画整理されて住宅建設工事が進んでいたりして、人々の目を楽しませたであろう風物詩も過去のものとなってしまったのは、たいへん残念なことだ。

これも地球の長年にわたる気象の変化のなせる業であってどうしようもない。身近なところで、名古屋市南区では見晴台付近まで海が入り込み、万葉集にあゆち潟(がた)と呼ばれた景勝の地であったが、今や地盤の隆起や干拓により海岸線は数キロも後退し人家の密集した市街地と化してしまっている。

道幅は車がすれ違えるくらいの広さで、路面舗装も傷み放題。黄砂をもうもうと巻上げて走ってきたトラックがすこし減速して左に寄り、こちらも右に寄ってすれ違う(注2参照)。その直後、猛烈な黄砂を浴びる。開いていた窓を大急ぎで閉めると、運転手がそれを見て開いている左側の窓を顎でしゃくってこのように開けておけ、という。何故か分からないまま、指示に従ってまた窓を半分くらい開ける。窓を開けたからといって車内や衣服・毛髪が砂まみれになるわけでもない。 道路は、レンガ積みなど工事をする人、家の前で仕事をする人、通行人などで活況を呈している。

出発して五分ぐらいで、前方に寒窰の標識が目に入った。その手前で左へ曲がると、行く手に丘陵を背にして曰くありげな門が見える。その前で停車すると、右手からいつの間にか愛想の悪い老人が現れ、運転手と声高に会話が始まる。まるで、やってきたのが悪いかのような剣幕だが、中国人同志の会話はいつもこうだ。私は体を起こして右ドアの取手を動かしたが開かない。運転手が外からあけてくれ、降り立って老人の前に両足を左右に広げて立ちはだかった。

脇から運転手が、「入場料として五元必要で、私が立替えておきます」と懐から札束を取出しながら云う。言葉はわからなくても身振り手振りを観察すると、言っていることが何かしら分かる。T氏と、ひとこと確認の会話を交わして運転手に了解の合図をする。 金を貰った男は急に笑顔にかわる。単純な奴だ。続けて運転手が、ここに車を止めて待っていますという。ニ度も繰り返すので、真顔で強くわかった、と云ってやるとおとなしくなった。

歩いて谷間に入る。両側から黄土の崖が迫ってくる。右側の高台に思夫亭と書いたあずまやが建っている。ここで妻が夫の帰りを待ちわびたのか。

さらに進むと、右側やや高みに崖を削って内部に祠があり、伝説の夫婦の等身大の立像が並んでいる。あがって一礼し、左に進むと住居らしい横穴部屋があり、その前の通路の欄干に女が足を組んで腰掛け、笑みを浮かべて自分の左方向を指差す。民家の軒先らしく、遠慮がちに通り抜ける。

前述の今泉氏は著書の中でこう云っている。「横穴を入ると、土を掘っただけの数坪の小部屋が五つほどあり、廊下のような小道でつながっていた。唐の末期、皇帝の姫君が愛する夫と隠れ住んだ場所である」と。 そのとおりの光景が眼前に広がった。部屋の輪郭は桃の実を中心で切った断面に似た優美な曲線をえがいている。内面は叩いたりして滑らかに仕上げてあり、全体が黄色で何かしら女性の住居らしいなまめかしさと高貴さを感じさせる。 ベッドの高さだけ黄土の床が高くなっている寝室や、機織をする仕事部屋があったりして、それぞれの機能に合わせた構造になっている。室内の空気はほどよく乾燥しており、冬暖かく夏涼しそうだ。

粘土質の黄土でできた柔らかい感触の階段を降りるとここが一階で、応接室などがいくつかある。玄関とおぼしきところから外へ出る。 昨日、感陽にある乾陵へ行った時、広大な参道の脇にある横穴住宅(写真)を見学させてもらった。これも、横穴という言葉から来る原始的イメージとは程遠いまことに優れた生活環境であった。

長江流域の往時の稲作農耕では高床式住宅に住み、入るのに沓を脱ぎ床の上にあぐらをかいて座ったそうだ。これとは対照的に、黄河流域の横穴式住宅では沓をはいたまま入り、椅子に座るところが面白い。

時間がもったいないと谷間の奥に進む。左側に、穴倉があいていて、子供相手のお化け屋敷らしい。入ると、ところどころ灯りがともっていて馬の死骸らしきものなどおどろおどろしい光景が展開する。早足で通りぬけた。

引き返して右手の祠を二つ見て廻って、門のところまで帰る。待っていた運転手は車を始動させ、従順に我々を迎えてくれた。

その時、例の入場料徴収人が再び現れて、曲江風物介紹という標題がついた青色のいかにも野暮ったい小冊子を差し出した。ありがたく頂戴しようとすると引っ込める。運転手がまた片手を出して五元という。本来なら、三元と値切るところだが後で役に立つだろうと思って二冊買った。

現地で出版された書物には史書にのっていない史実が語られていることがあるので、貴重である。しかしこの小冊子、残念なことに殆ど読めない。今度こそ中国語の勉強を真面目にやろうと決心する。

(注1)窰:山腹を掘って住居としたところ
(注2)中国では、車は右側通行、運転席は左側です