史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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春先、西風が吹くと、はるか大陸から黄砂(黄塵)が日本にやって来る。黄河流域の地層は黄土層といって、大昔に今の中央アジア方面から吹き寄せられた、ごく細かい砂が積もり積もって出来たのである。黄土高原では、降り積もった黄土が通常二十~六十メートル、吹きだまりでは二百五十メートルも堆積している。ここから、河川によって押し流された黄土は、黄河によって下流へ運ばれて沖積し、黄土大平原を造成した。

土質はアルカリ性で、塩分と鉄分を多量に含む。また、気孔を多分に持った性質の土壌組織で、ひとたび水分を得るときわめて肥沃な耕地に変わり、肥料なしで粟や小麦が育つ。だから、大勢の人が力をあわせて、洪水を防ぐ堤防を作り、網目のように灌漑用水を引くと、大農耕地が一気に造成できる。

その一方では、乾燥している時はたいへん固く岩石のようだが、ひとたび水分を含むとたちまち崩れて泥濘状態になり、車は文字通り立ち往生してしまう。

この性質を利用したのが、版築工法である。黄土を枠に入れて柴か藁を入れ、つき固める工法であって、これを使うと宮殿の土台や城壁を、比較的容易に築くことが出来る。柴や藁が強化繊維の役割を受け持つので、砲弾が当って炸裂しても壊れない強靭な構造物となる。

黄土は以上のような性質を持っているので、土器やレンガ(磚=せん)の材料としても最適である。レンガは建築用材料として必須であり、日干しで簡単に量産できる。

唐都長安は、外城と皇城の二重構造となっている。外城の規模は前に述べた通りであり、高さ約五メートル、厚さ九~十二メートルである。皇城は東西三キロ、南北二キロ、高さ十四メートル、厚さは基定底十三メートル・上部十二メートルである。両方とも版築工法を用いているが、特に皇城(写真)は、内外壁をレンガ積みにし、その内部が版築工法になっている。

南京など各地の主要都市も堅固な城壁で囲み、外敵の侵入を防いだ。この城壁の破壊に成功したのは、太平天国軍の鉱夫たちであった。

1842年7月、南京条約によりキリスト教の布教が認められた。 太平天国は、満州王朝(清)を打倒して、天父エホバの嘉したまう国をこの地に作り上げるとして、1851年1月、広東の金田村で旗揚げした。首領はエホバの第二子を自称する洪秀全である。ちなみに、第一子はキリストであるとした。

北上する間に、一家を挙げて参加する老若男女含めて十万に膨れ上がった太平軍は、その先々で清軍を打ち破った。桂林を過ぎて全州城を攻略するのに鉱夫たちが主役を演じた。彼らは坑道を掘って城壁の下に達し、その下に沿って掘りひろげ火薬を仕掛け導火線に火をつけた。高さ七メートルの城壁が見事に吹き飛ばされ、待ち構えていた兵士が瓦礫を乗り越えて城内に突入して、大門を開け放ち、太平軍を導き入れた。

湘江を下り、長沙城を攻める時も城壁爆破を試みたが、守備側の清軍はその都度、全軍を挙げて用意の土嚢を積んで補修したので、大軍を突入させることは出来なかった。太平軍は五次の爆破を試みた後、攻略をあきらめて囲みを解き、北西のかた、常徳に向け去った。

湖南省の省都長沙市は、西側を湘江が北方に向けて流れ、その西岸に岳麓山(標高二百九十五メートル)が低くうねっている。東側を劉陽河が流れ、長沙市の北で湘江に合流する。長沙城は、東西と北の三方を河に囲まれた要害の地に築かれた。南北をひっくり返し、湘江を加茂川に、岳麓山を東山に、劉陽河を桂川に対応させると京都を髣髴とさせる。川の流れは黄河や長江と異なり清らかな水をたたえ、市街も北京や上海のような人ごみはなく、また緑が濃く、心和ませる都会である。

街なかを走るタクシーは、フオルクスワーゲンの中型車サンタナで、運転席の後方と右側を透明のプラスチックで囲い、乗客からの不意の襲撃に備えている。西安よりタクシーのサイズが大きいだけ、長江流域の豊かさが感じられる。

市内西の馬王堆墓から、前漢初期の楚国の丞湘、その夫人と子の墓が掘り出された。特に夫人の死屍が、約二千年経過した今も生けるが如くであったので解剖調査の上、近くの湖南省博物館に陳列されている。長沙より北の湖北省刑沙市にも同様の展示がある。

第二次大戦末期、岳麓山に陣を構えた中国共産軍に向け、日本軍が一晩中砲撃を続けたので青々とした山が翌朝、真赤に変わってしまったという。この辺りの土壌は鉄分が多く赤色をしているので、全山赤土が露出するほど砲撃が凄まじかったのである。

ここにあった、976年創立で宋代四大書院の一つ岳麓書院は、この砲撃であとかたも無くなったが、ある日本人が撮影していた写真をもとに戦後、再建された。朱子学の創始者・朱喜(1130~1200)は、ここで教鞭を執った。この人は勉学一途であったと見え、次の詩を遺している。

朱喜「偶成」
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ醒めず池塘春草の夢
階前の悟葉己に秋声


朱子学と、のちに明の王陽明(1472~1528)が唱えた陽明学とは、我が国の国学の発展に絶大な影響を与えた。 岳麓書院後方の山中に、毛沢東が青年時代に激論を闘わせたという、中国四大名亭の一つである愛晩亭がある。その名は、唐代詩人杜牧の次の詩から名付けられた。

杜牧「山行」
遠く寒山に上れば石径斜めなり
白雲生ずる処人家あり
車を停めて坐(そぞ)ろに愛す楓林の晩
霜葉は二月の花よりも紅なり


今、岳麓山付近は、長沙師範学校や湘南大学など、大学のキャンパスになっている。 毛沢東(1893~1976)は、長沙の南、湘潭に生まれた。また、のちに毛と対立する劉少奇(1898~1969)も、そこから二十キロほど離れた所の出身である。その他、湖南(別名:湘)出身の政治家に朱鎔基首相などがいる。

湖南といえば、洞庭湖の西方にある武陵源風景区が有名である。その中の長家界国家森林公園は、1992年、国連によって世界自然遺産に指定された。その他に、天子山自然保護区と策渓谷自然保護区がある。

先月、十八時上海発成都行き南方航空に乗り、十九時四十五分張家界で降りた。当夜は張家界市内のホテルに泊まり、山奥に入って公園内で二泊して、バスツアーした。

この地区は、三億八千年前までは海底であったが、地殻変動で大地が隆起し風雨の浸食により石灰岩台地が削られ深い渓谷を刻み、現在のような断崖絶壁を形造って行った。地下には、スケールではアジア第一と称される鍾乳洞が生まれた。この黄龍洞を見学するには、三・五キロ歩いて一時間半かかる。周辺の住民は、少数民族の土家族(全国で五百七十万人)である。

景色を展望するため、ロープウエイで天子山の山頂に登る。そこに、不似合いの賀龍公園があり、賀龍将軍の立派な銅像や自重三十二トンのソ連製T34戦車があった。将軍は中国共産軍を率いて、朝鮮戦争やベトナム戦争で米軍と戦ったことで有名である。 いつものように、公衆トイレが不潔なのは覚悟の上であったが、地ビールの驕楊ビールが五元と安いがまずく、田舎料理が口に合わないのには、ほとほと閉口した。

地酒の白酒酒鬼(五百四十ミリリッター)を現地旅行社のいい値の二百三十元(約三千円)で買ったが、上海の友諠商店で二百十元と安いのを見て、気分を害してしまった。

太平軍は長江に達すると、多数の船に分乗して長江を下り、武漢三鎮を攻略した。この時、武昌城の城壁を爆破して陥落させたばかりでなく、歴史に名高い黄鶴楼も炎上させた。更に長江を下って、南京を城壁爆破作戦により陥落させる。長駆して、北京を攻略する部隊を派遣したものの、折からの寒冷な気候に阻まれて敗退する。以後、洪秀全は南京を本拠とするが、自軍の内訌が原因で、1864年8月、自滅してしまう。

日本で、明治維新の直接の端緒となった戊辰戦争が始まるのは、その三年半後の1868年1月のことである。十三年半にわたり中国大陸で吹き荒れた太平天国の熱気が、東支那海を越えて飛び火したかのようである。

(注)太平天国に関する記述は、主に、陳舜臣著「太平天国」(講談社文庫)を参考にしました。

建造物では、磚塔と呼ばれる塔がレンガ造りである。西安の大雁塔(高さ六十四・五メートル、七層)、大潮逆流で有名な浙江省杭州の銭塘江を見下ろす六和塔(約六十メートル、七層)など高層の塔もレンガで作られている。

大雁塔(写真)は方錘台形(Square Pyramid:四角錐の頭部を切取った形)をしており、内部は空洞で内面には木製の螺旋階段があって最上階まで登ることが出来る。 六和塔は宋代に建てられた国宝指定の八角形の塔で、やはり螺旋階段で最上階まで登れる。その北側には杭州市の西湖が広がっている。銭塘江の河口にあった入江が、河が運んできた砂で入口を埋められて出来た総面積およそ六平方キロ、平均水深一・五メートルの風景秀逸の湖で、海洋性気候である。

これを蘇東波は次の詩にした。

蘇軾(東波)「湖上に飲む、初めは晴れ、後に雨降る」
水光れん艶として晴れてまさに好く 山色空濠として雨も亦奇なり
西湖をとって西子に比せんと欲せば
淡粧濃抹すべて相よろし


西子とは、春秋時代に越王勾践が呉王夫差に贈った美女・西施のこと。虞美人・王昭君・楊貴妃と共に中国四大美女の一人に数えられる。 杭州市は浙江省の省都で歴史が長く、五代の呉、越、南宋王朝がここに都を置いた。中国の六大古都の一で、大運河の南の終点でもある。

ベニスの商人マルコ・ポーロは、その著書「東方見聞録」の中で次のように書いている。
ここで売買される大量の食糧・肉・香料そのほかいろいろなもののうちから一つ例を取ると、私マルコが大汗の収税官から聞いたことだが杭州の街では毎日、胡椒が四十三荷も消費されているということである、一荷は二百二十三ポンドある。

南宋の都・杭州で一日四トン以上(223×0.454×43=4.35t)もの胡椒が消費されている、と聞いてヨーロッパの人々は大変羨ましがったというのだ。

蘇州の虎丘には、雲岩寺塔がある。この、俗にいう虎丘塔は約十五度傾斜しているので登ることは出来ないが、弧形の柔らかいシルエットで美しくそびえる、高さ四十七メートル、八角七層の磚塔である。

湖北省武漢の長江を見下ろす黄鶴楼(約五十八メートル)は磚塔ではないが、岳陽楼、南昌勝王閣と共に江南三大名楼の一に数えられている。現在の建物は一九八五年に再建されたから、近代的建築法が適用されていることであろう。

李白は、ここでも詩を作っている。

    李白「黄鶴楼に孟浩然の広陵に之くを送る」
    故人西のかた黄鶴楼を辞し
    煙火三月揚州に下る
    弧帆の遠影碧山に尽き
    唯見る長江の天際に流るるを


    崔顥(さいこう:七〇四~五五)「黄鶴楼」
    昔人(せきじん)すでに白雲に乗じて去り
    この地むなしく余す黄鶴楼
    黄鶴一たび去って復た返らず
    白雲千載むなしく悠悠
    晴川歴歴たり漢陽の樹
    芳草萋萋(せいせい)たり鸚鵡州
    日暮郷関 何れの処か是れなる
    煙波江上人をして愁えしむ

昔、一人の仙人が辛氏の酒屋に来て酒を求め、約半年の間遊んだ。ある日、黄鶴を壁に描いて酒代にあてると言って立ち去った。黄鶴は、客が手拍子をうって歌うと、それにあわせて舞い、辛氏は巨万の富を得た。その後、十年程経て、かの仙人が訪れ、笛を吹くと、黄鶴は仙人の下に飛んで来た。それにまたがり、いずこともなく去った。辛氏はそこに楼を建て、黄鶴楼と名づけたという。

南京の南、聚宝門外にあった大報恩塔は天下第一塔と呼ばれた。高さは約八十メートルで、1431年に十九年の歳月をかけて完成した、八角形で九層の見事な塔であった。その外面はすべて白瑠璃の砌(さい:タイル状のもの)で覆われていた。そして屋根瓦は五色の瑠璃瓦で、内部は五色の瑠璃砌が張りつけられていた。この塔は、太平天国の仲間だった翼王・石達開の南京攻撃の基地として用いられないように、北王・偉昌輝が完全に破壊してしまった。

現代の高層建築では、鉄筋の柱を立てて床を敷き、その上に柱を立てて床を敷くという工法を繰り返して行く。そして、柱と床の間にレンガを積み上げて壁を造る。しかし、この構造は、1998年8月17日に起ったトルコ大地震で見られたように、地震で左右の揺れが起こるとまずレンガが崩れ落ち、せん断力に対する強度部材としての役割を失ってしまう。その結果、柱と床の骨組みだけになり先ず、全体の重量を支える一階の柱が壊れて押し潰され、これが二階、三階へと及んでいくパンケーキ型倒壊となる。

これは、特に横揺れの大きな地震に対しては、問題の多い構造である。勿論、窓を大きく取るために柱の断面を長方形にすると、短軸方向の外力には当然弱くなるという設計上の問題や、鉄筋の量が足りないとか、コンクリートの質が悪いとか、使用材料の問題もある。

中国の高層建築のほとんどはこの種の構造であることは、上海などで建築中の多くの高層建築物を見るとよく分かる。人口の密集する都会地域で、大地震が起こらぬことを祈るばかりである。

同年9月20日早朝に起こったM7.6台湾中部大地震でも、パンケーキ型倒壊が起こっている。また、建物は強靭だが、地盤が軟弱なため、あるいは基礎工事が不十分なため、そのまま倒れこんだ例が数多く見られた。ある高級マンションは根元から折れて倒壊し、不正工事がささやかれている。

相次ぐ大地震で倒壊した高層建築の構造を見るに、高層にして床面積を稼ぎ、各層を同一構造にして建築費を減らそうという意図がうかがえる。外形は大雁塔のように下から上へ床面積を減らして行き、構造は各層同一ではなく荷重を支える下部は堅牢で上部に行くに従い柱や床を軽量化するという合理的な配慮が必要であろう。