史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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こうして、寒窰の見学を終わり、再び運転手に地図を示して、二世皇帝の墓に行くよう命じる。引き返して先ほど来た幹線道路に戻る。

こちらに向けて陵の標識が立ち、左に矢印が向いているが、運転手はかまわず右、すなわちもと来た方向に車首を向けて加速する。やがて、左に折れ農道を下って緩やかに南に向う。ここは曲江池の水底だったところだろう。

左右に家並みが続き、人通りもある。運転手は急に自信をなくしたらしく、通りがかりのおばさんに道を聞くが、知らないと首を振られて皆がっかりする。

さっき、幹線に出たところで定石通り左に曲がるべきところを右に行ったのが間違いのもとだったのだ、と心の中で悔やんだが仕方がない。進む方向は同じだから、いずれ合流するだろうと一縷の望みをつなぐ。100mほど進んでから再び通りがかりのおばさんに聞くと、こんどは進行方向を指差してうなずいた。

やがて、村の外に出たらしく、狭いあぜ道の両側に緑の小麦畑が広がり、前方の高台に門らしきものが見える。あれだ、と喜んだとたん突然あぜ道に立ち緊張した面持ちのおっさんに行く手を阻まれる。

手には1.5mくらいの竹竿を持ち、車にとまるよう合図した。そして、もう一人の男と一緒に小麦畑の中に竹竿を突っ込んでへっぴり腰で蛇でも追っている様子。竹竿の先に目を凝らすと蛇ではなく電線が這っており、その先を追っていくと電柱へとつながっていた。電線が切れ、垂れ下がったのを見つけ感電すると危険なので、あぜ道から離す作業していたのだ。中国では日本と違い、電圧が220Vと高いので、下手に感電すると軽傷では済むまい。

危険物を除けてもらい、感謝の気持ちを胸にあぜ道を進む。坂道を登り、左折して門の下に車をつける。

例によって運転手にドアを開けてもらい、車からおり門を入ると案の定、左内側に入場料徴収人が机を前に、椅子に座って待機していた。こんどはくたびれた背広を着た前より上品なじいさんである。立ちあがって歩み出し、いらっしゃいというような表情で迎えてくれる。

入場料五元と、一枚の安っぽいぺらぺらのパンフレットの代金一元を運転手に立替えてもらう。プラスチック製のパンフレットに皇帝を含む五人の宮廷人が鹿に注目している絵がのっているので、ははーここの売りはやはりこれなんだなと、ひとり合点する。

右の方から廻って行け、というしぐさに従って右にとっていくとなんの変哲もない子供の遊び場ともつかない一角に行き当たるので、なんだこりゃーと不満をもらしながら左手の坂の上に向きを変えると左前方にお堂、その背後に一目で陵墓とおぼしきかわいらしい墳丘が目に入った。

昨日、漢武帝の茂陵や唐高宗と則天武后合葬の乾陵を見学したが、どれも特大の方錘台形をしており、日本の古墳時代の前方後円墳とはまた違う威容を誇っていた。目前の墳丘はそのミニチュア版と見受けた。

あがって行くと墳丘の前に秦二世皇帝陵と書いた屋根付きの立派な碑が立っているのでこれを写真におさめる。 坂を下って裏口からお堂に入る。堂内には予想していたとおりの場面(写真)が展開していた。

今泉氏は次の如く述べている:
こんもりと盛り上がるナツメ畑を背に、十坪ほどの堂がある。内部には、等身大の人形による「指鹿為馬」の場面があった。いうまでもなく馬鹿の語源である。

紀元前210年、秦始皇帝は第五次巡行中に死去した。丞相李斯・宦官趙高らはその死を隠して末子胡亥を太子とし、長子扶蘇・将軍蒙恬を死に追いやった。胡亥が二世皇帝となり趙高が実権を握る。 趙高は鹿を引出してきてこれを馬だといって皇帝に献じた。二世皇帝は「丞相はどうかしている。鹿を指して馬と為す」と座にいるものに、これは馬か鹿かと問うた。ある者は「馬です」と答え、ある者は「鹿です」と云い、ある者は黙っている。後で趙高は鹿だと答えたものを処罰した。 この後、胡亥は自分の頭がおかしくなったと思い、政務を放棄してしまった。 紀元前207年、趙高は馬鹿皇帝胡亥を殺し、扶蘇の長男子嬰を立てた。賢明な子嬰は父の仇・趙高を殺し政権を回復するが時既に遅く、感陽に入城してきた劉邦に降り、紀元前206年、秦は滅ぶ。

幼い顔つきをした胡亥像とその前に置かれた例の四文字の立札とを写真におさめて、これで目的を達したと心から満足した。日本に帰ったら、馬鹿の語源は・・・と自慢たらたら解説ができる。

車に乗る前に高台から北方を眺めて曲江池が風光明媚であった頃を思い浮かべようとしたが実感はわかなかった。

宮城谷昌光「香乱記」(新潮文庫)に次の記述がある:
趙高の非情さは、二世皇帝を平民に貶として、平民の葬式で遺骸を杜南の宜春苑に葬ったことである。また趙高は秦王嬰に斎戒させて、その後、宗廟で玉璽をうけとるようにさせた。

快い興奮のなか、もと来た道をホテルに戻った。 タクシーのメーターは十六・九元を示していた。立替え分や客待ち分を含めてどれだけ支払ってやるか考えていると、運転手は早々に私では交渉相手にならないと見て日本語がわかるドアボーイを呼び、彼を通じて私に五十元(約七百五十円)支払え、と要求してきた(注参照)。

一人あたり二十五元で少し高いと思ったが、よく立ち働いてくれたことを加味すれば妥当として、それぞれ二十五元を支払ってやった。値切ることも考えたが、交渉ごとをして彼の好ましい印象が薄れてしまうのを嫌った。律儀にも、金額が壱拾元と印刷された領収証を五枚くれた。

気が付くと、午後六時をやや過ぎており、約一時間のあわただしいが充実した小旅行であった。徒歩の観光なら半日はかかっただろう。 (注)中国でのガソリンの値段はリッターあたり二元、日本円で約三十円です