史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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これまで数度、中国を旅し、各地を訪問している間に、この国について幾つかの感想を得たので、思い付くまま列挙してみる。

中華人民共和国(PEOPLES REPUBLIC OF CHINA)を、我々は「中国」と呼ぶ。 国際的な通称は「CHINA」であり、その日本語訳は「支那」なのに、日本人はこれを使わない。旅行案内書にも、「中国のことを、中共とか支那と呼ぶのも禁物だ」と書いてある。

だが、逆に中国人の中華思想へのへつらい感がつきまとって、使うほうとしては気持ちの良いものではない。参考のため、中華という語を辞書で引いてみると、次のように書いてあった:
世界の中央にあって最も文化の進んでいる国の意。特に、黄河流域に古代文明を築いた漢民族が周辺諸民族を東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)と呼ぶのに対して、自分らを世界の中央にあって最も開化している民族であると自負していった語

北京や上海で工業技術展を見て、中国の技術水準について考えさせられた。 日本企業とのライセンス契約で作ったプリンターは、中枢のプリンターヘッドを輸入し、周辺部分を国産していた。リスクを減らして手っ取り早く生産するには、それでよい。しかし、技術水準を飛躍的に上げ、先進国に追いつこうとするなら、惜しくとも身銭を切って中枢技術を手に入れる努力をすべきであろう。

出展された工業品を見て歩くうち、較正用の電気テスターがあった。現場で使用するテスターの品質を保証する重要な標準機器である。これは素晴らしい、と思ったが、聞いてみると台湾からの出品であった。
この会場でこれはと思った製品、例えばパソコンのマザーボード(7層のプリント板)は皆台湾製だった。中国のどこかの研究所が、半導体整流器を出品していたが、日本で昭和三十年代後半に実用化された代物で、技術の貧困さを垣間見る思いがした。

中国の航空会社から貰った箱入りの立派なボールペンが、インクが出ず、はなから使い物にならなかった。インクカートリッジにHAUSER(好市牌)GERMANYとあったが、導入技術を自分のものに出来なかったのか。

腕時計の古くなった皮ベルトを、十七元を十三元に値切って交換してもらったら、帰国後すぐに接着がはがれて用をなさなくなった。接着剤のような、産業の底辺を支える基盤技術が弱いのか。

手工芸の粋・刺繍(注参照)など中国の伝統技術には、目を見張るものがある。写真は蘇州特産のシルクを素材にした衣装のフアッションショーである。しかし、工業製品の粗悪さには、首を傾げざるを得ない。
(注)四大刺繍:蘇繍(江蘇省蘇州一帯)、湘繍(湖南省長沙)、粤繍(えつしゅう:広東省)、蜀繍(四川省成都)

伝統技術としての磁器の名声も高い。歴史的には、代表的な窯場・江西省景徳鎮で白磁、青磁、色絵の順に発展してきた。明代の歴代の朝廷が宮廷用の陶磁器を焼造する窯をこの地に設置し、費用をつぎ込み工匠を動員して、最高級の製品を作らせた。

青磁は、雨後天青の青を出せ、との皇帝命令で開発された。酸素供給が少ない還元雰囲気で焼き、青色を呈する一酸化鉄で薄く表面を覆う。だが、このままでは直ちに酸化し錆びた鉄、二酸化鉄に変る。試行錯誤の末、ガラス質のマイクロスフイアに閉じこめるという、素晴らしい手法を開発した。

だが、広州の物産展での今日の景徳鎮は素人目にも、同じく量産を手がける我が国の有田の香蘭社や深川製磁と比較して、かなり劣ると見た。

秀吉の朝鮮出兵により、彼我の磁器生産は明暗を分けた。明朝は李王朝を援護するため、半島に軍隊を派遣した。その頃より明朝はかげりを見せ始め、1662年、満州族に滅ぼされ清朝となる。王朝交代に伴う内乱に景徳鎮も巻き込まれ磁器生産は停止し、オランダ東インド会社による欧州への輸出は頓挫してしまった。

一方、九州の諸大名が半島から引きあげるとき連れてきた朝鮮の陶工のうち、鍋島藩の有田に住み着いた李参平は苦心の末、磁器生産を軌道に乗せた。一六五一年、東インド会社による買い付けが始まり、景徳鎮に替わって積出港の名を冠した伊万里焼の名で、欧州に大量輸出されるようになった。ドイツのマイセン、オランダのデルフト、イギリスのチェルシーが柿右衛門風の色絵に近い磁器を作る努力をするなど、伊万里焼が欧州に落した影は大きい。

俗に有田三右衛門と呼ばれるのは、上述の色絵の柿右衛門のほか、藩窯鍋島焼の流れを汲む今右衛門、染付(呉須)の青の源右衛門であり、それぞれ伝統技術を発展させて今日に至っている。

こうして、中国伝統の磁器生産は、我が国にお株を奪われてしまった。 (注)このくだりは、三杉隆敏著「やきもの文化史(景徳鎮から海のシルクロードへ)」(岩波新書)を参考にしました。

上海のある大学教授は日本語が話せるので、日本人の観光ガイドをアルバイトにしていた。その先生は、「自分の収入は、路上に商品をひろげて売っている人より少ない」とぼやく。また、「教師や医師たちは、社会から必ずしも尊敬されていない」ともいう。本当にこれが実態なのか、疑わしい。

都会の美容院は、気になる存在であった。 数人でタクシーに乗り込み、運転手に身振り手まねでマッサージ屋に連れて行け、と命じたら、可拉OK(カラオケ)店に連れ込まれ、ホステス達とお見合いさせられた。中国語を少し話せる仲間が、そうじゃない、マッサージだ、と店長にねじ込んだら、半信半疑で解放してくれた。着いたところは杭州市内の美容院で、店の奥に通ると小部屋が一列に並んでいた。隣室や廊下を隔てる仕切りは、天井との間にかなり大きな間隙があり、周囲の物音はそのまま部屋に伝わってくる。薄暗い部屋の壁際に、侘しげな低い寝台があった。

また白昼、美容院の前にたむろしていた数人の若い女性に、強引に引きずり込まれそうになって、「不要」を連発して、危うく難を逃れた。日本でもよくあった光景で、懐かしく思った。 カーテンが下りた美容院前の路上で昼下がり、若い女性が四人、麻雀をやっていた。私を含め、善良な日本人観光客が周りに群れて、日本より大きな麻雀牌を摸牌させてもらったりした。やがて観光客がバスに引き上げると、男がやってきて女性一人と、カーテンの向うに姿を消した。彼女達は、表で客待ちをしていたということを、その場の日本人は誰も気付かない。

外国旅行中に誘惑に負けて羽目をはずし、当局のお世話にならぬよう、慎まねばならない。中国では犯人に手錠をかけて連行したり、法廷に出廷したりするさまを実名入りでTV報道する。悪いことをすればこうなるのだよ、という見せしめだ。これにより、犯罪が抑制されるのであろう。まだ犯人ではないと言って、被疑者の人権を殊更に重んずる我が国より、中国のほうが余程まともだろう。

その点、「足洗い」は、難しいことを考えることなく、気軽に楽しめる。西安の皇城内の、繁華街から少し外れた所に、その店「西安洗足堂」があった。仲間が三人ほど入れるコンパートメントのソファーに向かい合って腰を下ろし、世間話をしながら高校二年生という女の子に足を洗ってもらう。始めは、とても熱い薬湯に十分間ほど旅行でくたびれた足をつけ、あとは入念に揉んでもらう。その間、眠ってしまう人もいる。五十分ほどですっかり身も心も軽くなり、おまけに新しい靴下を履かせてもらい、九十元(約千三百五十円)であった。蘇州でも足洗いは人気があり、よく流行っていた。

中国は、漢字という表意文字一筋でやって来た。だから、外来の表音文字を漢字で表現するのに、大変苦労している。アルファベットが入り混じった可拉OKという当て字は、漢字だけでは到底表現しきれない限界があることを暗示している。

親鸞は、佛説無量寿経を注釈するとき、独自の解釈をした。 このお経(康僧鎧訳)の巻下が始まってからすぐに、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せむこと乃至一念せむ、至心に回向して、かの国に生まむと願ぜば即ち往生を得、不退転に住せむ」とある。

これを親鸞は、「教行信証」信巻の冒頭で、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ、至心に回向したまへり、かの国に生まれむと願ぜば即ち往生を得、不退転に住せむ」と読んだ。

丹羽文雄著「蓮如」(中公文庫)に次の解説がある。
「至心に回向する」といえば、信者自身が弥陀にその功徳行を向ける。が、親鸞はことさらに「回向したまえり」と敬語を使った。敬語にして読めば、功徳行は弥陀から信者の方に向けられることになる。自力が他力に転ずるという破天荒な読み方であった。

親鸞はこの解釈により、他力本願の拠り所を見出した。素人目には、こじつけめいた解釈だと見えるが、専門家に「破天荒な読み方」と激賞されては、引っ込まざるを得ない。サンスクリット語の原典と対照すれば、明らかになることだが。

このように、漢文には、解釈の仕方によっては能動文が受動文に変わってしまうという融通無碍なところがある。裏返せば、漢文は意思の的確な表現力に乏しい、ということだ。

通常文でも、現在形はともかく、過去形、未来形、現在完了形、過去完了形、その他受身形などが的確に表現できるのだろうか。

日本では飛鳥時代、歌を文字に表わすのに漢字を宛てて、最初に「万葉かな」を作った。だが、「音」を漢字で表現する方法に限界があることに、いち早く気付いて、遂に「かな」という五十音が整然と並ぶ表音文字を作り出した。日本人は、「漢字」と「かな」によって豊かな表現手段を獲得し、これによって先ず、平安文化が花開いた。日本語をアルファベットで音写できるローマ字は、ザビエルがポルトガル式ローマ字を作ったのが最初である。このような経過を辿って、近代国家として必須の文章による確実で自在な意思表示、が出来るようになった。

中国人が、流入する大量の外国語に含まれる多彩な表現を、漢文だけで的確に翻訳することは、次第に困難になって行くだろう。「オランダ」は、「阿蘭陀」が定着している。だが、新しい固有名詞を音写する方法は幾通も考えられ、その都度標準化という膨大な作業が要る。これでは、新しい単語をその都度、造って行くようなものである。

こうして、簡易な表音文字が必要になり、将来、例えばアルファベットを使用せざるを得なくなる事態が予想される。既に、可拉OKにその端緒が見られる。漢字のほか、外国文字を使わざるを得なくなれば、中国の要人が時として垣間見せる中華思想は、また一段と色あせることだろう。