史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

殺りくの修羅場・六条河原について語る前に、 今私が立っているこの五条大橋について述べ ておかねばならない。京の歴史に詳しい人は ご存知だろうが、あの義経が弁慶をきりきり 舞いさせた京の五条の橋は、実は一つ上流の 松原橋であった。松原橋から東に入ったとこ ろにある京菓子店の菓子箱に入っていたしお りに、あの由緒ある五条大橋の名が、関白秀吉 によって六条坊門小路に新しく架けられた橋 に持って行かれた次第を語っている。

それによると、秀吉が居住していた伏見城から御所 へ伺候(しこう)するのに、伏見街道(今の本町 通)を北上し、五条大橋(今の松原橋)で加茂川 を西に渡っていた。秀吉はこれが不便だとし てその手前の六条坊門小路に新しく橋を架け 、これを五条大橋と呼ばせた。彼はここで加 茂川を渡り、御幸町通りを北上して御所に向 かった。御幸町 という名も、上皇相当の身分 の自分が通行するのだからと、 変えさせたの だそうだ。それはともかく 、橋の名が変わる ことによって通りの名も変わり、条里名の 規則性がゆがめられてしまったのである。

平安京を建設した当時の東西の大路は、一条から 九条まであり、各大路の間は、三本の小路によって 等間隔に区切られていた。特に、その中央の小路を 坊門小路と呼んだ。

三条と四条の間には、規則通り六角、蛸薬師、 錦の三本の小路があり、その昔は蛸薬師が 四条坊門小路であった。天正十年(1582)六月、 織田信長が明智光秀に襲われて非業(ひごう)の 死を遂げた本能寺は、この四条坊門小路の西洞院と 油小路の間にあった。また建設当時、京わらべの話題 になった三層の南蛮寺は 、四条坊門小路の一ブロック 置いた東側の室町と新町の間の北側にあった。 南蛮寺に起居していた宣教師たちは、本能寺の変を近くで見聞した。

フロイスの「日本史」(注参照)には、 次のように記されている
我等の教会は、 信長の場所からわずか一街を隔てるだけのところにあったので 、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの支度をしていた司祭に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、 しばらく待つようにといった。そしてそのような場所であえて 争うからには、重大な事件であるかもしれないと報じた。 間もなく銃声が響き、火が我等の修道院から望まれた。 次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり 反逆者となって彼を包囲したのだといった。
(注)松田毅一・川崎桃太編訳「回想の織田信長」 (中公新書528)
坊門小路という名が死語になり、新しい通り名に変わってしまった今、京都で二十年余を過ごした私にとっても、町なかで史跡を探し 出すのが難しいことがある。
ある日、河原町三条の河原町カトリック教会に立ち寄って、 南蛮寺への道順を教えてもらった。歩いて訪れるには、かなり 距離があることを知ってあきらめようとしたら 、居合わせた 神父さんが、「巡礼とは苦しみを伴うものですよ」と励まして 下さった。これに力を得て、祇園祭の準備に華やぐ町を歩いて、 ついに道路わきに南蛮寺の碑を見出したときは 、心から安らぎを覚えたものである。この辺りに、イエズス会員で健筆家の 神父フロイスや、日本人で半盲の修道士ロレンソが住んでいた ころと同じ姥柳町という町名が残っているのも 、 さすが古都京都である。
次に四条と五条の間はというと、綾小路、仏光寺、高辻、松原、 万寿寺と五本もの小路があり、規則性が失われている。 昔は、仏光寺が五条坊門小路であり、松原が五条大路であり、 五条通が六条坊門小路であった。
また、更に下った先の正面橋が架かる正面通は、七条坊門小路で あった。いわゆる六条河原は、六条通りを中心にして、 北は六条坊門小路、南は七条坊門小路の間にある加茂の川原を 指したのである。