史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

京の町人たちが清水(きよみず)寺(西国三十三霊場第十六番札所)に詣でたり、鳥辺野(とりべの)に墓参りをするときは、当時の五条大橋(今の松原橋)を渡り、当時の五条通を東山に向け歩いて行った。 橋を渡ると、右手に平清盛邸(泉殿)があった。この周辺はその昔、六波羅といい、平家の公達(きんだち:貴族の青少年)が住む屋敷の甍(いらか)が軒を連ねていた。また当時、平家六波羅邸と呼ばれたのは、西側は五条から加茂川左岸に沿って七条まで、東側は鳥辺山山麓に至る広大な地域を領していた。

平治の乱の折、二条天皇は女房の姿に変装して内裏を脱出して六波羅に逃れ、一時、六波羅邸は皇居の観を呈した。平家滅亡後、源頼朝はここに京都守護を置き、後に六波羅探題に引き継がれた。元弘三年(1333)、鎌倉幕府の滅亡により、京都守護以来、百四十八年間続いた武家政治の中心はその使命を終える。

商店街を右・左に折れると、道幅はやや広くなり、右奥に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ:西国三十三霊場第十七番札所)、左に六道珍皇寺(ちんこうじ)が見える。 珍皇寺門前は「六道の辻」(写真)と呼ばれ、あの世(鳥辺野)とこの世の境界と考えられていた。また、六道とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ず赴くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の冥界をいう。

六道の辻を過ぎてすぐ右側に、小さな駄菓子屋があり、幽霊子育て飴を売っている。加納進著「六道の辻」(室町書房)に、次の話が載っている:

伝説によると、この世とも思えない女性が毎夜、飴を買いにくるので不審に思った飴屋の主人が跡をつけると墓地に消え、墓の下から赤子の泣く声が聞こえたので肝をつぶして逃げ帰った。埋葬された母から生まれた赤子に、母が幽霊になって飴を買い求めて育てていた。
(注)松田毅一・川崎桃太編訳「回想の織田信長」 (中公新書528)
平成20年3月、非公開文化財特別公開で山科本願寺跡、即成院(真言宗泉涌寺派:那須与一ゆかりの寺院)、立本寺(日蓮宗京都八本山の一つ)、六道珍皇寺(臨済宗建仁寺派)、六波羅蜜寺を訪れた。六道珍皇寺は二度目の参詣で、小野 篁が冥途に通ったとされる井戸を見学した。その帰途、前回とは別の店舗で幽霊子育飴を買い求めたところ、次の由来書きが同封してあった:

今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の泣く声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜なよな飴を買いにくる婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来たらざるなりと。この児八歳にて僧となり修業怠らず、成長の後遂に、高名な僧になる。寛文六年三月十五日六十八歳にて遷化し給う。 さればこの家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育て飴と唱え盛んに売り弘め、果ては薬飴とまでいわるるに至る。洵に教育の上に、衛生の上にこの家の飴ほど良き料は外になしと今に及んで京の名物の名高き品となれりと云う。 らんすい
続いて、日蓮宗立本寺に参詣してここにも子育て飴伝説があるのに驚いた。同寺のホームページに次の記事がある:

江戸時代初期、具足山本山立本寺に霊鷲院日審上人という方が居られた。この方が母親の胎内に居られたとき、母親がわずかな病気がもとで亡くなってしまう。お葬式をすませて墓地に葬った。雨がしとしと降る暗い晩のこと、寺男が墓地を通り抜けようとするとかすかに赤ん坊が泣く声が聞こえるので、その塚を掘り埋められた壷を開けると泣いている赤ん坊が見えた。日審上人はこうして お生まれになった。亡くなった母親が幽霊になって飴を買い求め、赤ん坊を育てたという伝説がここにもあり、幽霊子育て飴も売られている。 上人は寛文6年3月15日68歳で入寂された。

日蓮宗八本山
  • 立本寺  上京区中立売七本松下る
  • 本法寺  上京区堀川通寺ノ内上る
  • 妙顕寺  上京区寺ノ内通小川東入る
  • 妙覚寺  上京区御霊前通堀川東入る
  • 本満寺  上京区寺町通今出川通上る
  • 頂妙寺  左京区仁王門堀川端東入る
  • 妙伝寺  左京区東大路通二条下る
  • 本圀寺  東山区山科御陵大岩町6

  • 江戸の小塚原も、罪人の死体が取り捨てられた荒涼たる野原であった。小塚原回向院(荒川区南千住)は、江戸時代は品川・鈴ケ森と並ぶ処刑場で、二百二十年間に無慮二十万人の刑死者の遺骸が埋葬されてきた。回向院前の通りを「コツ通り」と呼ぶことから、「コツ(骨)が原」が小塚原に転じたと考えられるが、他に諸説がある。
    寺院が庶民に門戸を開放して、その喜捨を受けるようになったのは、荘園制度が武士により崩壊し、収入の道が途絶えがちになったからである。各寺院は、奥まったところに安置してあった薬師如来など仏像を持ち出して庶民に礼拝させ、庶民もまた霊験あらたかだとしてわれ先にと信心した。このようなきっかけで、それまでは貴族や武士のものでしかなかった仏教が庶民に広まっていった。臨済宗建仁寺派に属する珍皇寺も、そんな寺院の一つであった。
    今昔(こんじゃく)物語集巻第二十に、珍皇寺を舞台にして、小野篁(たかむら)が死人を助けた話が載っているので、これを逐語訳で紹介する:
    西三条大臣良相(よしみ)が宰相として、事あるごとに篁のために良いことをいわれるのを、篁は心の中で「うれしい」と思っていました。そのうち大臣は身に重い病を受け、とうとう亡くなってしまいました。閻魔王宮の臣共が居並ぶ中に、小野篁がいました。篁はしゃくをとって王に、「この日本の大臣は心が素直で、人のために良い方です。このたびの罪は、私に免じてお許しくださいますよう」と申し上げた。その後、病が快方に向かうにつけ、あの冥途のことを極めて怪しく思い出されたが、人に話す事はなくまた、篁にも何も言いませんでした。そのうち、この事は自然に世に聞こえて、「篁は閻魔王宮の臣として通う人だそうだ」といううわさが立ち、人は皆この事を知って、恐れおののいた、と伝えられている。
    小野篁(802~852)は平安前期の漢学者で歌人。遣唐副使に任命されたが、正使藤原常嗣と仲違いして行かず一時、隠岐島に流された。篁が亡き母の霊に会うために、六道の辻の井戸から高野槙の穂先を伝って冥界に入ったという伝説がある。篁の父は学者であり詩人の岑守で、一族には小野小町、小野道風など文化人が多い。
    今昔物語巻第十七に、六波羅蜜寺に関連して京に住む女が、地蔵の助けによってよみがえった話が載っている:
    いまは昔、京の大刀帯町の辺りに住む女がいました。東者東国の人です。ある縁によって、京に上って住む事になったのです。その女は、いささか良い心根をもっていて、月の二十四日に六波羅密の地蔵講に参って、地蔵の誓願の話を聞いて、心をおこして尊び、悲しんで、泣く々家に帰りました。その後、地蔵菩薩の像を造って奉ろうと決心して、衣を脱いで仏師に与え、高さ一尺ニ寸の地蔵を作らせました。しかし、その開眼法要の前に、女は急に病気になり、悩み煩って遂に死んでしまいました。 ところが、子どもたちが傍らにいて泣き悲しんでいる間に、三時ばかりしてよみがえったのです。目を見開いて子どもに語って言うのには、私は一人広い野の中を行くうちに、道に迷ってしまいました。やがて、冠をかぶった官吏が一人出てきて、私を捕え連れていきました。また、端正な一人の小さな僧が出てきて、「この女は私の母です。速やかに放免しなさい」と言いました。官吏はこれを聞いて、一巻の書を取り出して私に向かい、「おまえの身に二つの罪がある。早くその罪を懺悔しなさい。その罪とは、一は男と交わった罪である。泥塔を造って供養しなさい。ニは講に参って法を聞いている間、聞き終わらないうちに出ていった罪である。懺悔しなさい」と言って、私を放免しました。 その時、小さな僧が私に、「あなたは私を知っていますか」と尋ねたので、私は知りませんと答えました。小さな僧は、「私はあなたが造った地蔵菩薩です。あなたが私の像を造ったのです。だから私はここへ来て、あなたを助けたのです。早く本国に帰りなさい」と言って、道を教えて帰してくださいました、と語りました。 その後、雲林院にある僧を語らって泥塔を造って供養し、懺悔をしました。また、その地蔵菩薩を供養し奉って、ねんごろに礼拝恭敬し奉った、と伝えている。
    六波羅蜜寺は、仏教の民衆教化に努めた空也上人が開創したと伝えられる。南無阿弥陀仏の六文字を唱える空也上人立像は、日本史の教科書にも掲載されるくらい有名である。本堂の解体修理に伴う発掘で、庶民信仰を表わす泥塔が七千個以上出土している。