史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

秀吉は、五条大橋周辺の河原で小屋掛けして大評判を取った阿国歌舞伎を、秀吉通行の邪魔だとして四条河原に移した。その歌舞伎小屋の流れを今に伝えているのが、四条大橋の東詰にある南座である。その西側、加茂川に面して、阿国歌舞伎発祥乃地と記した碑が立っている。 その歌舞伎の見物客をもてなした茶屋が軒を連ねたのが、加茂川左岸に南北に松原通りまで続く宮川町である。通りの左右に、間口は狭いが粋な風情の家々が立ち並んでいるのは京都ならでは、の風景である。

四条大橋を西に渡り、一筋目の小路を北に入ると先斗(ぽんと)町で、ここは高瀬舟の乗降客を相手にして発展した茶屋街である。ここには高瀬川沿いの木屋町に抜ける露地が五十もある。幕末には勤皇と佐幕に分かれて抗争した志士たちが、追われてこの露地に身を潜めたり待ち伏せしたりしたところである。その露地に番号を付けたのは、長州藩だという。先斗町という名の語源は不明で、ポルトガル語から来たという説もある。 長崎の繁華街で思案橋から丸山へ向け一筋目を右に入った狭い小路が、何となく先斗町を思い出させる。あか抜けはしてないが、路地が四通八通し、そこに入ると世間から逃避できたという安堵感に満たされる点では共通している。長崎の生い立ちは、ほかにないドラマがあり、いずれいつか語って見たいと思っている。

どの街にも華やかな面と、暗い陰惨な面が同居している。京の場合は、次回にお話する六条河原が暗い面の一つだが、先斗町を北に突き当たったところにある瑞泉寺(写真)も、過去の悲劇をひっそりと弔うお寺だ。 関白秀次は、秀吉の姉が尾張の大高(おおだか:名古屋市南部に接する町)に住む百姓弥助に嫁いで、生まれた子である。秀吉が戦場に出る時、ここに立ち寄って馬を借り、弥助がその口を取って出陣した。 秀次は長じて、小牧長久手の戦いで、家康の留守を突いて三河の岡崎を攻める部隊の総大将になった。しかし、岩崎城攻略に手間取ったため、家康の追撃に会い大敗し、秀吉にきつく叱責される。 天正十三年(1585)、十八歳で近江八幡の領主となり、八幡城を築いて城下町をひらいた。近江八幡市観光案内書によると、彼は近くを行き交う商人に、町へ立ち寄るよう命じた。また、琵琶湖を往来する船を八幡堀に寄港させるなど、近江八幡を商都として繁栄させるのに大きく貢献した。彼の近江八幡における治世は、わずか五年であったが、その思いは近江商人を代表する八幡商人のルーツとなった。

近江八幡の東北約五キロメートルに安土城趾がある。本能寺の変の後、豪壮を誇った安土城が焼け落ちたのは、秀次が近江八幡の領主になる三年前のことであった。その城下町に居た商人たちが、近江八幡に移住して、町の繁栄を築いた。

一時は秀吉の後継者とされた関白秀次は、淀の方に秀頼が生まれるや一転、邪魔な存在になった。そして、淀の方を囲む武将たちの策謀に乗せられ、あらぬ疑いをかけられて、文禄四年(1595)七月、高野山で自害させられた。高野山では、昔から剃髪登山した者はその罪は許される慣例になっていたが、奉行等から、太閤は秀次を絶対許されないだろう、と言って来たので、泣く々見殺しにした。 そればかりか、その妻妾子供三十九人は三条大橋西南の河原で白昼、衆人環視の中、無残にも次々と斬殺されていった。死骸はその場に埋めて塚とし、その上に秀次の首を石櫃(いしびつ)に納めて置いた。

山路愛山著「豊臣秀吉(下)」(岩波文庫)には、次のように記されている:
京にては石田、増田の計にて秀次の一台、菊亭右府の息女を始め秀次の寵を蒙りし女房たち三十余人、幼年なる秀次の一男一女と共に大路を引渡し三条河原において首切り骸を同じ穴に埋め、印の石を立てて畜生塚と名付けたりとぞ。

愛山(1865~1917)は同書で「菊亭右府の息女と先夫との間に出来た姫君も艶色たぐいまれなので、母子並べて秀次の枕頭に侍らせた。それで、口さがない都のわらべは畜生などといった」と、秀次の所業に厳しい目を向けているが、その信憑性は疑わしい。

江戸時代に入り、加茂川の右岸に高瀬川を開削しようとした豪商角倉了以が荒廃した塚を見て、哀れんで寺を建立し手厚く弔った。これが今の浄土宗西山禅林寺派瑞泉寺である。境内には秀次公御一族の墓所があり、今も香華の煙が絶えない。

高瀬川は、慶長十六年(1611)に工事に着手し、慶長十九年に完成した運河である。京都二条にあった角倉了以の邸宅を基点に、一之船入りから伏見までの水運を開削したもので、全長は約十キロメートル余り、川幅は約八メートルであった。流水調整の水門を設け、九ケ所の船入りが作られた。しだれ柳が風にそよぐ詩情豊かな高瀬川は、森鴎外の名作「高瀬舟」によってよく知られている。

西高瀬川は、嵐山に発し東進して京都市街に入り、南下して伏見区下鳥羽で加茂川に合流する、全長十五・四キリメートルの運河であった。明治の初めに、丹波の材木や物産を京都市内に運ぶ運河として開削され、その流水は捺染の糊落しなどに利用されたが、用途も少なくなっていった。新たに南北に堀割った天神川と交差させるため、樋を渡して水を通していたが、昭和三十年代にはこれも廃止された。従って天神川東側の西高瀬川は水流が断たれ、川底のコンクリートがむき出しの状態になってしまっている。