史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

六条河原は、どんな過去を秘めているのだろうか。

まず、後白川院の寵臣で、源義朝と組んで平治元年(1159)、平治の乱を起し、敗れて斬られた藤原信頼(のぶより)から始める。

この時代に生きた天台座主慈円が著した愚管抄には、 六波羅に連行され、平清盛のまえに引き据えられた信頼は、自分は間違ってはいないと申し立てたが、みっともないことであった。そういったからとて、願いが成就するはずがあろうか。清盛は、なにをいうかと首を振ったので、部下が察して引いて立たせ、六条川原で首を切った。 とある。

六条河原での次第は、平治物語によると次のごとくである: この上は力及ばず、信頼卿、六条河原に引っすえたり。「重盛は慈悲者とこそ聞こえつるに、など信頼をば申し助けやらむ」とて、起きぬ伏しぬ嘆き給へば、松浦太郎重俊、切り手にありしが、太刀の当て所も覚えねば、押さへて、かき首にぞしてんげる。

時に信頼二十七歳、その往生際の悪さは、天下の笑いものになった。これを始めとして、謀反の仲間六十余人が切られ、世は平氏全盛へと流れていく。

建永元年(1206)、後鳥羽院が熊野山からお帰りになった時、讒言する人があった。御所の留守を預る女房の鈴虫と松虫の二人を、浄土宗の祖・法然上人の門徒である住蓮坊と安楽坊の情婦であるかのように、申し上げたのである。院は激怒して、安楽を取調べのため裁きの場に引き据えた。その時、安楽は、上皇をさえ暗に念仏を迫害して永劫浮かぶ瀬もない徒輩と罵った。このため、女犯の罪により六条河原で斬首され、ひいては念仏の専修も停止(ちょうじ)される。二人の尼僧も、安楽寺の門前で後追い心中を遂げる。 師の法然上人も勅勘を蒙り、七十五歳の高齢で土佐に流されることになったばかりか、弟子の親鸞までもが、越後国の国府(新潟県直江津市)に配流の身となった。

摂津国城主荒木村重は、理由なく信長に謀反(むほん)し、説得されても応じず、ついに討伐の兵を差し向けられた。天正七年(1579)、村重は数人の家臣と共に、有岡城(伊丹市)を捨て、尼崎城へ逃れた。 落城した有岡城にいた六百七十人のうち、上臈衆を尼崎近くの野で磔(はりつけ)にして射殺した。次に、上臈につかえていた女たち、身分の低い悴侍(かせざむらい)、夫婦者の若党たちの男百二十三人・女三百八十八人、計五百十一人を四戸の古家に閉じ込めて焼き殺した。 数日後、京の寺に移していた荒木一族と、重臣の家族三十六人を市中引き回しのうえ、六条河原で斬首した。 村重は毛利家に庇護されていたが、信長の死後、秀吉に召し出され、お伽衆の一人になった。またその息子又兵衛は天才絵師とうたわれた。 天正十年(1582)六月、山崎の合戦で敗れた光秀は小栗栖(京都市伏見区)で農民に襲われ近臣の介錯で首を取られて、道端に埋められた。農民は光秀の首を掘り出し二日後、園城寺に進駐した秀吉の元に届けた。 光秀の右腕だった斎藤利三は、近江堅田に潜伏していたが、発見されて秀吉のもとに送られ京都六条河原で首を斬られた。 秀吉は、光秀と利三の首と胴を縫合し、磔にしている。主君信長を殺害した謀反人として処刑したことを、広く世間に知らしめるためであった。

慶長五年(1600)、肥後国領主小西行長は、関ケ原の戦いで敗れ捕虜となり、キリスト信仰を最後まで守って切腹など自害を拒否した。そして、石田三成・安国寺恵瓊(えけい)と共に堺、大阪、京と引き回されて六条河原で斬首され、三条大橋に梟された。三成の首は生前、親しかった大徳寺の僧が、恵瓊の首は建仁寺の僧が、それぞれ持ち帰り、寺内に埋葬した。行長の首はどうなったか分からないが、京に住んでいたキリシタン達が丁重に扱った、と思われる。

一書(注参照)に、行長らの処刑場所が四条河原という記述があるので、紹介しておく:
通りがかりの村人に、自分は小西攝津守である、捕えて家康の許に連れて行き、褒美の金を貰うようにというので、村人が自害を勧めたところ、自害をすることはたやすいが、自分はキリシタンであり、キリシタンの教えでは自害は固く禁じられているのだ、と説いて進んで縄を受け、草津の家康の本陣へ伴われていった。三成も捕えられ、ともに四条河原で首を刎ねられたのである。 (注)岡田章雄著「キリシタン大名」(教育社)
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寛永十四年(1637)、島原・天草地方は打ち続く天候不順による不作と、領主の苛烈な取り立てに耐えかねて、農民一揆が起った。これを裏で操ったのは、扶持を失って浪人となった行長の家臣たちである。その一人益田甚兵衛の子、四郎時貞を首領とし農民を組織して唐津藩士を相手に戦い、天草全島をほぼ手中に収めた。当時、天草四万石は唐津藩寺沢氏の飛び地であった。 そして、島原湾に浮かぶ湯島で談合して、島原城を攻めあぐねた農民たちと合体し、島原半島南端の原城に立てこもり、幕府軍およそ十三万と対峙する。新教徒の国・オランダは幕府に加担して、海上から原城に砲撃を加えた。最後は兵糧攻めに会い、翌年二月、老若男女三万七千人がことごとく殺されるという、悲惨な結末となった。 彫刻家北村西望(1885~1987、島原半島有馬村出身)作の天草四郎像が立つ原城天守跡で当時を追憶すると、皆殺しにされた人達の悲しみに、胸を揺さぶられるのである。

我が国の代表的なキリシタン大名、高山右近・小西行長・黒田孝高らのうちで、結果として日本社会に最も強いインパクトを与えたのは、島原・天草の乱に至るエネルギーを蓄える指導者の役割を果たした行長であろう。 天文十八年(1549)七月、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を持ち込んで以来、順調に信者を増やしてきた日本キリスト教会は、この乱のあと、幕府の徹底した弾圧により、根絶やしに等しい憂き目を見ることとなる。

元和元年(1615)五月八日、大阪夏の陣で大阪城が落城した時、秀頼は母淀の方と共に自刃した。その子、国松兄妹は、城を脱出した。しかし、伏見の町で、徹底追捕の網にかかって捕らえられ、国松(七歳)は六条河原で斬首、妹は鎌倉東慶寺で尼になった。梵舜日記には、次のように記されている。
「五月二十三日 天晴
大阪秀頼公ノ若君尋ネ出シ、六条河原ニ於イテ御生害ノ由也、諸人見物迄哀レミ申スナリ」
国松の祖父秀吉は、東山阿弥陀が峰頂上に、豊国大明神として埋葬された。国松の墓は豊公廟参道入口の左側にある。
慶長十年(1605)、東山に高台寺(高台聖寿禅寺)を開創して、秀吉の菩提を弔ってきた北政所(ねね)は、秀吉の子の自刃と孫の処刑を、血のつながりはないにしても、冷静に受け止められただろうか。
豊国神社の別当であった梵舜は、吉田兼倶が唱え、神仏習合を否定した吉田神道の継承者であった。後に家康が死去した時、その神号を巡って、天台宗の僧南光坊天海との間で激しい論争をする。梵舜は秀吉と同じように明神号を、天海は天台宗で神仏習合の山王一実神道の権現号を推した。結果は権現号が採用され、梵舜の主張は通らなかった。 吉田神道は、明治維新で息を吹き返し、新政府に神仏分離を強行させ、仏教界を震撼させた。

元和五年(1619)、二代将軍秀忠は、京の牢にいるキリシタン全員を、女子供に至るまで処刑せよと命じた。十月、加茂川と伏見街道の間の六条川原で、五十二人が十字架に架けられ火刑に処せられた。このうちに十三歳以下の子供十人が含まれる。当時、京にはダイウス町と呼ばれた所(現在の堀川今出川の東南にあった地区)などに、四千人ほどの信者が住んでいたという。
この処刑場所は、殉教を目撃したイエズス会の神父の記録をマカオでまとめた報告によると、正面橋東詰周辺(写真)と推定される。これが冒頭でもいったように、処刑場所が分かっているただ一つの例である。しかし、この加茂川左岸は昔、京阪電車の軌道を敷設するために掘り返えされた。その後、これを地下に移したあと、川端通りの舗装工事をするなど、度々人工の手が加えられた。だから、往時の面影は全く止めていない。
殉教者達が京中を引き回されたとき、堀川今出川南の戻橋を渡った。平安時代、父の死を聞いた子が紀州熊野からはせ帰って、この橋の上で葬列に出会い、柩にすがって泣き悲しんだところ不思議にも一時、蘇生して父子、物語を交わした。この伝説によって戻橋と名付けられた。天国に召されることを喜んだという殉教者達も、心の底ではこの世に戻って来ることを念じたのではなかろうか。

これに関連して、元和八年(1622)九月、長崎の西坂で宣教師ら二十三人が火あぶりの刑にあい、女子供を含むキリシタン二十二人が首をはねられた。西坂は慶長元年(1597)、秀吉の命により二十六人が十字架に架けられて殉教した聖地である。JR長崎駅前からみると、道路を挟んだすぐ左手の高台にある
。 さらに、元和九年(1623)十二月、江戸小伝馬町の牢にいた男子キリシタン五十一人は、日本橋・新橋・田町と人目にさらされながら、東海道品川宿入口の札ノ辻刑場へ連れていかれ、火刑に処せられた。二十日後、この近くで女子供三十七人(うちキリシタン二十四人)が火刑・斬首・磔刑された。札の辻は、交差点名として今に残っている。

以上、京・長崎・江戸の三つの事件を元和の大殉教という。その後、島原・天草の乱をへて、キリシタン取り締まりは、徹底していく。

江戸時代が終わり、明治時代に入っても、迫害は止むことはなかった。長崎浦上村の村人全員がキリシタンであることが発覚した時、新政府は彼等を西国二十大名に預け、強引に転宗させようと試みたが失敗した。神道を国の基本とする新政府にとっても、キリスト教は邪宗門であった。欧米諸国は、信教の自由は基本的人権の一つであると主張したが、新政府は、国内問題だと反駁した。今日、中国が人権抑圧は国内問題と主張するのと同じ立場である。しかし、ついに明治六年(1873)、外圧に抗しきれず、二百数十年ぶりでキリスト教禁制の高札を撤廃した。
明治二十二年(1889)、大日本帝国憲法が公布され