史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

桓武天皇は、奈良から長岡京を経て延暦十三年(794)、平安京へ都を移された。京の玄関口、羅城門の左右にそれぞれ、西寺と東寺を置かれた。羅城門と西寺は寂れて碑が残るばかりだが、東寺は空海によって、 真言密教の総本山として発展した。

延暦二十三年(804)、空海は天台の祖・最澄等と共に、第十六次遣唐使船に乗り、入唐した。船団は肥前国松浦郡田浦(五島列島久賀島西岸)を出港したが、東シナ海で暴風雨に遭遇した。四隻のうち、留学生・空海の乗った第一船は遠く福州に漂着し、還学生・最澄の乗った第二船は目的の明州に到着したが、第三船は日本に引き返し、第四船は行方知れずになった。

空海は翌年五月末、唐都長安の東南、青竜寺東塔院に恵果和尚を訪問し、師事の許しを得た。六月上旬に胎蔵界潅頂を、七月上旬に金剛界潅頂を、八月上旬には伝法阿闇梨位潅頂を受けた。十二月には恵果の死にあい、千人の弟子を代表して、師を丁重に葬った。帰りの遣唐使船の幸便を得て、密教経典を始め先進文化の数々を携えて二年三ヶ月ぶりで帰国した。

青竜寺に参詣すると、境内に空海記念塔が建っている。ここで納経帖を買い求めると、名前を筆書きしてくれて、二百五十元(約三千八百円)であった。高いと思ったが、お寺さん相手に値切り交渉するのは憚られたので、そのまま引き下がった。

弘仁七年(816)、空海は高野山を賜わり、金剛峰寺を開いた。弘仁十四年(823)、東寺を給預され、仏法によって国の平和が護られる、との思いを込めて、教皇護国寺と号した。王権に対する聖権の優位性を主張したとも考えられる。これが、権力者に受け入れられるはずはなく、逆に法華経の教理に基づく、皇権擁護を主張する比叡山延暦寺の勢いが盛んになって行く。

天長五年(828)、空海は東寺の近くに、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という教育機間を設立した。学生は地位や身分に関係なく、教育内容は儒教・道教・仏教全般にわたり、そして必要なだけの奨学資金を受けることができるという理想を掲げた。しかし、空海の死後、十数年で閉校になった。 東寺は、真言宗のお坊さんの教育に限定した。地方豪族らが争って建立した、神仏習合の神宮寺を傘下に収めるための、人材供給機関としての役割を担った。

東寺の南大門を出て、国道1号線を一路、南下する。真っ直ぐだけが取りえだが、交通量の多い国道を交差点ごとに信号待ちをしながら三キロメートルほど歩くと、左手から加茂川がやってくる。これを渡るや、そこは名神京都南インターを出入りする車の洪水と、喧騒のちまたである。そこをようやく抜け出ると、左手彼方にこんもりとした、心休まる緑の森が見えてくる。これが城南宮(写真)だ。

城南宮は、神功皇后が戦の上にお立てになった御旗を、八千矛神(やちほこがみ)らの神霊と併せ祭ったのが始めと伝えられる。神功皇后は西暦百九十年ごろ、西宮市のほぼ中央に位置する甲山(かぶとやま)にも、平和を祈念して金のかぶとを埋められた。この山は現在、甲山神呪寺(かんのうじ)の境内になっている。

神功皇后にまつわる伝説は多い。例えば、長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)長与町の長与(ながよ)という名の起こりは、神功皇后が朝鮮半島から帰国され、この地で一夜を明かされたとき夜遅くまで寝付けず、近臣に「長い夜だね」とおっしゃったからだという。

城南宮は桓武天皇の平安遷都に際し、国常立神たちを合祀(ごうし)して平安京の守護神となった。 応徳三年(1086)、当社を中心に白河法王が離宮を造営され、城南宮は離宮の守護神ともされた。平安城の南方に鎮座するところから城南の宮と呼ばれ、離宮廃絶後も城南宮の名で親しまれた。幕末、文久三年(1863)に孝明天皇が攘夷祈願に行幸され、鳥羽・伏見の戦いでは官軍の陣所となるなど、明治維新の史跡としても有名である。

城南宮から1号線を少し南に下った右側に公園があり、ここが鳥羽離宮南殿跡である。南殿は鳥羽離宮の最初に造営された宮殿である。

元来、鳥羽離宮というのはこの南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿等があった。それは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていた。 北殿は、名神京都南インターにあり、その遺跡は近くの加茂川の氾濫により壊された。 東殿は、今の安寿院付近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。 田中殿は、遺跡が見付っている。 馬場殿は、城南宮の北と考えられるが、明らかでない。

明治元年(1868)正月三日夕方、この付近で鳥羽伏見戦の発端となった戦が始まった。王制復古の後、将軍の領地返納を決めた朝廷・薩摩長州藩らの処置を不満とした幕臣・会津桑名軍は正月一日に挙兵し、大阪から京都に攻め入ろうとし、薩摩・長州軍はこれを迎え討った。 城南宮には薩摩軍が大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が小枝橋を渡ろうとするのを阻止して談判の末、ついに薩摩軍が発砲した。この一弾が合図となって戦端が開かれた。同時に伏見方面でも伏見奉行所付近で、幕府勢と薩長軍の間で戦争が始まった。 薩摩軍は元冶元年(1863)に薩英戦争を、長州軍はその翌年に下関海戦を経験し、これをもとに装備の近代化を進めてきた。対する幕府勢は抜刀したり、槍を構えたりして接近戦を挑み、犠牲者が出るばかりで後退を余儀なくされた。 天皇から授けられた錦旗は五日には、淀の第一線近くまで進められた。これを見た徳川譜代の淀藩は、主君稲葉氏が江戸出府中であることを理由に、後退する幕府勢の淀城への入城を拒んだ。そして、逆に政府軍の入城を許した。六日には幕府勢は、淀から大阪寄りの八幡と橋本に退いたとき、友軍と信じていた津藩兵から突然、鉄砲を浴びせられる。その上、逃げ帰った大阪城は主君徳川慶喜脱出後のもぬけの殻という、散々の目に遭 う。 こうして慶喜は朝敵の汚名を被り、翌明治二年(1869)五月まで、約一年半にわたって続いた戊辰(ぼしん)戦争の幕開けとなった。官軍は、
宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな。
あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗(にしきのみはた)じゃ知らないか。
と歌いながら、東海道・中山道・北陸道に分かれて江戸に向け進撃して行った。