史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク
淀川の水

鳥羽離宮跡から1号線を更に南下し、右に折れて203号線に乗って桂川を渡ると、長岡京市に入る。

この地は昔、桓武天皇が平城京より平安京に遷都されるまでの皇都、即ち長岡京の跡である。その西側山裾の景勝の地に、菅原道真が在原業平らと共にしばしば遊び、詩歌管絃(しいかかんげん)を楽しんだ。

延喜元年(901)、道真が大宰府に遷されるとき、この長岡にお立ち寄りになって、「吾魂、長くこの地に留まるべし」と仰せられた。その縁故により、公に随行した近臣らが公の没後、公御自作の木像を拝領し帰洛の後、この所に祠を建てて祭った。これが長岡天神の始まりである。

醍醐天皇の命により大宰府に左遷された道真は鬱々の日々に耐えきれず、二年後に病没する。その怨霊は最後に醍醐天皇に復讐を加え、死に至らしめる。この事件によって、不条理な処置で人を死に追いやれば殺された人の霊魂は、その罪を犯した人に報復を加えても、それが帝王であっても差支えないという危険な思想を生んだ。

ここにおいて神亀六年(729)、謀反の疑いで自刃させられた長屋王や、天平十二年(740)、反乱を起して誅せられた藤原広嗣などの怨霊をまつる庶民の、主権者に対する反抗は頂点に達した。以後、将門の乱(940鎮定)を経て、王権の安定化に伴って怨霊信仰も沈静に向かう。

京都北野天神の祭神は、もとは雷(いかずち)であったが、道真の怨霊が雷の形で現れたのでここに祭られるようになった。怨霊信仰が過去のものになるにつれ、各地の天神社は換骨奪胎されて、詩歌・文筆・学問の神として崇められるようになる。

長岡天神の後背地にある西国三十三霊場第二十番札所・善峰寺(よしみねてら)は、応仁の乱で焦土と化したが、後に、五代将軍・家綱の生母・桂昌院が復旧した。寺内には桂昌院の遺髪を納めた廟所など、院ゆかりの旧跡が多い。桂昌院が両親のために祈願された奥の院・薬師堂から見る京都市街から淀川流域にかけての大パノラマは絶景である。

桂昌院は、京の八百屋の子に生まれた。二条家の家臣・本庄宗利の養女から、江戸大奥に入って家光の側室になり、家綱を生んだ。神仏に帰依し、江戸の護国寺(文京区大塚五丁目)と護持院(神田橋付近、享保二年焼失)を建立した。護国寺は音羽通りの突き当たりの高台にあることから、京都東山の清水寺と対比される。

長岡京跡の南に勝竜寺城(写真)がある。この城は、京都盆地の南西部を防衛する要所にあり、応仁・文明の乱では、この地方での西軍(畠山義就)の拠点となった。戦国時代に入ると、永禄十一年(1568)に織田信長が上洛し、この地方一帯を攻略したとき、細川藤孝が城主になった。

天正十年(1582)六月の山崎合戦では、明智光秀がこの城を本拠とした。光秀はここを出て、西方の御坊塚(境野古墳群)で指揮したが敗れ、一旦帰城した。夜半、北門からひそかに抜出し坂本に向かう途中、落命した。 光秀の首は、三井寺を陣所とする秀吉のもとに届けられ、胴と共に本能寺に曝された。そこに、六条河原で斬られた斎藤利三を含め、三千人ほどが梟首された。その堪え難い臭気が近くの南蛮寺にまで及んだ、とフロイスは言う。

明智光秀とその一族の墓は、坂本の天台真盛宗総本山西教寺にある。 織田信長が元亀二年(1571)九月、坂本比叡山を中心に、近江国の寺院の大半を焼き討ちした時、西教寺も全山類焼の厄に遭った。その後、光秀は坂本城を築城し、西教寺に大本坊(庫裏)を造進した。刻名入りの棟木も現存している。 それ以来、光秀との因縁は深く、元亀四年(1573)二月、堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦没者十八名の菩提のため武者・中間の隔てなく、供養米を寄進したといわれている。また、早逝した内室(煕子)の供養もされ、墓が安置されている。 天正十年(1583)、本能寺の変の後、山崎の合戦に破れて非業の最期をとげた時、光秀一族と共に当寺に葬られた、といわれている。爾来、光秀を菩提して、毎年六月十四日に光秀忌が営まれている。

勝竜寺城は、山崎合戦の四年前の天正六年(1578)、光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が、細川藤孝の長男忠興(十六歳)のもとに輿入れしたところである。復元された勝竜寺城は、かわいく優美な姿を誇っている。