史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

勝竜寺城から御坊塚に寄り道して、徒歩で204号線を東に向かう。車の往来が激しく、とてもウオーキングを楽しむような道ではない。長く、単調な道のりに疲れ果てて、宮前橋で桂川を渡ると、伏見区納所(のーそ)に入る。

淀の方ゆかりの淀城は現在の淀城ではなく、この納所にあった。天正十七年(1589)、秀吉は自ら縄張りして淀城を普請した。ここに淀の方が入城し、そこで秀吉の子・鶴丸を産んだ。しかし、文禄三年(1594)、早くも取り崩されて廃城となった。現在、あとを偲ぶものは何もない。

淀城跡は京阪淀駅に隣接している。元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、徳川幕府は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流するこの水陸の要衝に、新しい城を元和九年(1623)に着工、寛永二年(1635)に竣工させた。 その翌年、三代将軍・家光が上洛した。同時期に上洛し、二条城に入っていた父秀忠に挨拶した後、淀城を在京中の居所とした。 享保八年(1723)五月、春日局の孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。

春日局(1579~1643)は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘であった。光秀の軍は山崎合戦で敗れ、兄は戦死、父は捕えられて磔刑に処せられた。土佐の長宗我部元親にかくまわれ、十三歳のとき京に出て公家の三条西家に奉公し、十七歳のとき稲葉正成の後妻となった。秀忠の長子竹千代(後の家光)の乳母を求めているのを知って応じ、採用される。家光が将軍継嗣になるため尽力し、後に大奥を統率して勢力を振るった。

  この城は周囲に二重三重の濠を巡らし、
 淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると
の歌で名高い水車は直径八メートルもあり、城の西南と北の二ヵ所に取り付けられ、水郷らしい風情をかもしていた。 淀城とその城下町の盛観は、延亨五年(1748)五月に来着した朝鮮通信使の様相を写した朝鮮聘礼使淀城来着図に詳しく画かれている。朝鮮国からの善隣友好の使節団・通信使は、江戸時代の慶長十三年(1607)から文化八年(1811)の間に、十二回来日した。淀川を上る美しい船団の様子とともに、淀川べりの街道を樂曲を奏でながら進んだ彼らの姿は、さまざまな文化的な影響を残した。琉球国からの使節もまたやってきた。徳川幕府の淀城の役割は、国使を都に迎え入れるための西の玄関口でもあった。木津川を渡った男山の麓にある遊里・橋本も、この流域の華やかさに色を添えた。

幕末には、薩長土肥の四藩や京都の朝廷の動きに対応して、幕府軍が京都や大阪に駐留した。また、攘夷・開国に揺れる中を、朝廷との折衝のためや幕府軍の陣頭指揮のために、将軍自らが大阪城に入った。このため御用の船の往来も特に盛んになり、道としての淀川は俄然活気を帯びた。 三十石船は、京都の伏見と、大阪の八軒家間の定期乗合船である。これに「飯くらわんか、酒くらわんか」などと叫びながら近付き、乗客や船頭に魚、餅、果物といった食物や酒を売っていた船を、俗に「くらわんか船」と呼ぶ。大阪夏・冬の陣に功のあった摂州柱本の船に、家康が食物売りの独占権を与えたことが起源とされる。 明治初年には、外輪型蒸気船が登場し貨客輸送に活躍したが、その後の鉄道開通によって打撃を受け、淀川の河川交通は衰退の一途をたどっていく。

名神高速道路の開通によって、京都・大阪間を旅する人は、淀川の流れを殆ど見ることなく通過して行く。こうして、淀川流域に対する一般の関心は、次第に薄れている。