史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

山崎津(京都府乙訓郡大山崎町)は室町時代、油業の大中心地であり、また港として繁栄した。
平安時代の初め清和天皇(在位:858~876)の頃、九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した僧行教がこの山崎津で夜の山に霊光を見た。そこでこの地を掘ると岩間に清水が湧出したので、国家鎮護のための石清水の八幡宮をここに創建し、嵯峨天皇(在位:809~823)の河陽離宮の地なので、離宮八幡宮と称されることとなった。鎮座後は対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが石清水八幡宮と称されるようになった。

平安時代から鎌倉・室町時代にかけて当社の大山崎神人が、油商人として広く活動し油座本所となったことから油の神様として多くの崇敬を集めた。

幕末の「禁門の変」では長州藩屯所となったため、兵火で焼失したものの、それまでは水無瀬川より円明寺川の及ぶ広大な神域を有し、「西の日光」と云われるほどの広壮優美な社殿を構えていた。

水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)は、後鳥羽上皇(在位:1196~1221)が御造営になった水無瀬離宮の跡で、往時は桜・山吹・菊の名所として知られ、上皇がしばしば行幸され、歌合せ・蹴鞠・狩猟・刀剣鍛冶等も行われた。上皇は承久の変をおこして北条方に敗れ、隠岐に流され、そこで19年を過しついにそのまま島でおかくれになった。それを弔うために建てられた御影堂が水無瀬神宮のはじまりと伝えられる。上皇の臣・左衛門尉能茂(よししげ)はここに安置された上皇の御肖像にお仕え申し上げて一生を送ったが、その子孫代々その志をついで水無瀬のお宮に奉仕すること650年、明治の御世に至った。

水無瀬神宮は、阪急京都線大山崎駅と水無瀬駅のほぼ中間の山手側にある。境内より湧き出る「離宮の水」は全国名水百選として大阪府下唯一つ環境庁より選ばれた。大勢の人がこの水を汲むために列をなしていた。飲んでみるとたいへんまろやかで、伏見の西国三十三霊場第十一番札所・上醍醐寺の霊泉・醍醐水よりは冷たく、美味であった。

また、その山門には次の逸話が記されている(写真):
石川五右衛門の手形
神宝の太刀を盗もうとして数日間忍びうかがうも神威にうたれ、一歩も門内に入れず、この門に手形を残して立ち去った。