史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

京阪淀駅から電車に乗り、宇治川と木津川を渡ってすぐ京阪八幡駅に着く。この辺りは北から天王山、南から男山の山塊がせりだした狭隘の地で、この間を淀川が西に流れ下っている。京阪男山ケーブルに乗れば、労せずして山頂に着く(写真)。

貞観元年(859)奈良大安寺僧・行教律師は、九州の宇佐八幡大神の御託宣を蒙り、八幡大神をこの男山(雄徳山)にお鎮め申し上げた。祭神は、第十五代応神天皇・宗像大神および神功皇后である。 応神天皇は、仲哀天皇の第四皇子で母は神功皇后。溝池を開き、農耕を奨励し、百済より裁縫の術を伝えた。また、呉国より織工を召して機械紡績の道を開き、学者を招き典籍を伝えてわが国の文化の基を築いた。 宗像大神は、天照大御神の神勅を受け宇佐島に下った。その後、韓土と交通の要路に当る沖ッ宮、中ッ宮、邊ッ宮に移って、皇土を守護し国威を照らし給うた(タゴリヒメノカミ、タギツヒメノカミ、イチキシマヒメノカミ)。福岡県宗像郡にある宗像大社は、交通安全の最高の守護神として、人々から厚く崇敬されている。 神功皇后は懐胎の御身をもって、男装して海を渡り、急に新羅を征しこれを降し給うた。

慶応三年(1867)十二月、王政復古の大号令が下った。これに異議を唱えた幕府との間に、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まる。そのさなかの明治元年(1868)三月、明治新政府は古代以来の祭政一致体制に戻ることとし、神祗官を再興して事務局を置いた。三月末、神祗事務局は神仏判然令を布告し、信仰内容に立ち入って神仏分離の徹底を指示した。この政策は廃仏毀釈と勘違いされ、全国各地で悲劇を呼んだばかりでなく、貴重な文化財が失われてしまうことになる。

外来文化・仏教の絢爛豪華さに魂を奪われた日本の神々は、仏に帰依することを望んだ。宇佐八幡大神は外敵を鎮圧する神であるが、もともと渡来の神であったので、石清水八幡宮も外来文化を受容する体質を備えていた。だから、神の菩薩への変身は容易に行なわれた。こうして、「八幡大菩薩」を本尊とする典型的な神仏混交の宮となった。それ以来、石清水八幡宮は千数百年にわたり、朝廷を始め武将達の尊崇を集めてきた。

この由緒ある石清水の神仏をどう分離すべきか、難題を突きつけられて、当事者の悩みは深刻であった。 ある仏教関係の書(注参照)は、次のように評している:
石清水八幡宮では、神仏分離に当って社僧が還俗し、俗名に改めるとともに競って妻帯した。この場合興味深いのは、彼らが還俗したとたん、諸大名からの祈祷料が途絶えたため、たちまち生活苦に陥ったということだ。 そこで彼らは、仏教関係の堂舎や法具を売却することによって、生活費を捻出することとし、大阪の古物商を呼んで入札させたりした。すなわち、石清水八幡宮では日吉山王社のような仏像・仏具を焼き捨てるという乱暴は行わなかったわけだが、売却により多くの宝物が行方不明になったことを考えると、その行為は本質的に焼き捨てと大差がないといってよいであろう。
(注)奈良本辰也・百瀬明治共著「明治維新の東本願寺」(河出書房新社)

鎌倉時代に現われた本地垂迹(ほんじすいじゃく)説は、日本各地に祭られた神々を、仏が仮の姿をとって現われたものと理解する。こうして、仏の世界が神祗の世界の上位に立つことを論理化した。風下に立たされて来た全国の神官達は、神仏判然令に蘇生する思いであった。

前述の書に出てくる日吉山王(ひえさんのう)社で起こった乱暴とは、ある書(注参照)によると、次の如くであった。
全国に先駆けて、廃仏毀釈の実力行使を起したのは、近江国坂本の日吉山王社であった。同社は比叡山延暦寺の支配下にあり、祠官の樹下・生源寺両家は、延暦寺から扶持を受け、臣従していた。祠官の樹下茂国は、京都新政府の神祗事務局に仕える官吏となり、大津裁判所から山王社改めの命を受けて勇み立った。 明治元年(1868)四月樹下は、まず延暦寺に神殿の鍵の引渡しを要求したが、一山は動揺して返答が得られなかった。神社側は坂本村の農民等をひきつれて神殿に乱入し、仏像・経巻・仏具類を外に投げ出した。一同はこれを土足で蹴って槍の石突きで砕き、焼き払った。樹下は、仏像の顔を矢で射ぬき、快哉(かいさい)を叫んだという。
(注)村上重良著「日本宗教事典」(講談社)

神仏習合は、石清水のように合体するほか、神宮寺を神社境内の一隅に建立するとか、始めから別空間に建立するとか、様々の形態を取った。

更に、幾つかの廃仏毀釈の例を上げておく:
明治の神仏分離政策は、この石徹白(いとしろ)中居神社にも平泉寺白山中宮にも、強い風当りとなって吹き荒れていた。石徹白上在所の白山中居神社の神官は、虚空像菩薩坐像を石徹白川に投げ込んでしまった。拾い上げたのは石徹白中在所の仏教徒達であった。中在所の人達は、投げ捨てられた仏像や仏具の類をひそかに拾い集め、無体なことじゃ、もったいないことじゃと涙を浮かべて一先ずはむさいところながら納屋の奥深く隠した。密かに心ある者達が集まり、泰澄大師を祭る大師堂を、上在所からはニキロメートルほど下流の中在所に移し、観音堂・大師堂を新たに建立、虚空像菩薩坐像をはじめ、泰澄大師像ならびに母伊野姫、大師の二人の弟子である臥の行者と神部浄定行者の像をもともに納めた。
(注)内海邦彦「入門白山信仰」

奈良興福寺は春日社と分離され、全住僧が春日社の神職に転身した。無住と化した興福寺は荒廃し、五重塔を弥三郎という者が二百五十円で買い取ることになったが、これは壊すには費用がかさむので、焼き払ってその後に残る金具類を二百五十円と踏んだものという。しかし焼却には、付近の住民が類焼を恐れて強く反対したため、かろうじて五重塔も、三十円で売られるはずであった三重塔も無事に残った。
(注)村上重良著「日本宗教事典」(講談社)

大和三輪山の大神(おおみわ)神社にも神宮寺があり、大御輪寺というのがあったが、明治の神仏分離で、神宮寺は寺院造りのまま若宮神社となって、大神神社の祭神大物主命の子とも子孫とも伝える大田田根子を祭神にし、それまで本尊として安置されていた十一面観世音像を縁の下に放り込んでしまった。後にこの像は、フエロノサ(アメリカの哲学者、東洋美術研究家)によって救い出され、現在、三輪山を遠望する位置にある聖林寺に手厚く本尊として安置されている。
(注)内海邦彦「入門白山信仰」

薩摩藩では、領内の諸寺院(千六百六カ寺)をすべて廃絶し、僧侶二千九百六十四人を還俗(げんぞく)させた。島津家菩提寺として由緒のある玉竜山福昌寺(曹洞宗)も例外ではなかった。天文十八年(1549)八月、鹿児島に上陸したザビエルは、この寺の第十五代住持 ・忍室和尚をしばしば訪ねて歓談している。また廃寺となった後、その境内に西郷隆盛をはじめ「西南の役」の戦没者を祭る墓地が造られた。この戦いの官軍側戦没者は、明治二年(1869)、東京招魂社として生まれた靖国神社に、維新や戊辰戦争の死者と共に祭られている。

男山の東麓に、石清水八幡宮の摂社で、高良玉垂命を祭る高良社がある。筑紫国一の宮 ・高良大社から勧請された。ここに高良社が祭られているということは、次章に出てくる磐井の反乱に関係するのではないかと考えられる。 往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、惜しいことに明治初年の戊辰戦争の兵火に罹り、焼失した。現在の社殿は明治十二年に再建されたもの。

徒然草第五十二段に、仁和寺の法師が高良社を石清水と思い込んで、そのまま帰ってきたという話が載っている。原文のまま記しておく:
仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思い立ちて、ただひとりかちより (歩いて)詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて「年比(としごろ)思いつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて 、尊くおわしけれ。そも、参りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけん、ゆかしかりしけど(知りたかったけれど)、神へまいるこそ本意なれと思ひて山までは見ず 」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

トーマス ・エジソンは白熱電灯を発明するに当たり、炭化に適する物質を広く世界各国に求めたがその中でも日本産の竹、特に石清水八幡宮境内の竹材が最も優れており、これを用いてその実効を収めた。