史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

第二十六代継体天皇が生まれたのは近江高島郡、育ったのが越前高向宮(福井県坂井郡丸岡町)でその後、近江から北河内、美濃、尾張と、日本列島の中部を二分するように勢力を伸ばして行った。

天皇は、越前から迎えられてまず、河内の樟葉に宮を置いて、そこで即位(507年)した。その後、山城の筒城(つづき:綴喜郡田辺町、写真)や弟国(おとくに:長岡京付近)に宮を移し、即位ニ十年後に大和に入って、磐余(いわれ)玉穂に宮を置いた。 天皇は、淀川の水運の便を考えて、その流域に宮を置いたといわれる。そこは、朝鮮半島の任那(みまな)の失地回復のための救援軍の派遣(527年)や、これを遮ぎって起こした、筑紫国造磐井の反乱を鎮めるなどに地の利があった。

明治の初め、兵部大輔大村益次郎は宇治に火薬庫を建設した。九州方面に有事の際、淀川の水運を利用して、弾薬の速やかな輸送が出来るようにした。これが、明治十年(1877)、「西南の役」で役に立った。第二次大戦後、この火薬庫跡地は京都大学教養課程のキャンパスになった。

天皇は、政略結婚を重ねて、勢力を拡大して行った。即位してから皇后に迎えた手白香皇女との間に、第二十九代欽明天皇が生まれる。

岐阜県本巣郡に残る伝説によれば、尾張の国で生まれた男大迹王(おおどおう:継体天皇)は当時の事情から、生後間もなく根尾谷に隠れ住んだ。ニ十九歳のとき叔父仁賢天皇の即位に際し、迎えられて都に上ることになる。その折、この地を去るにあたり、名残を惜しむ人々に形見として、自らお植えになったのが、かの有名な淡墨(うすずみ)桜だという。

樟葉宮跡は、岩清水八幡宮が鎮座する男山の西麓・枚方(ひらかた)市と八幡市との境目の辺りにある。私は京阪電車枚方駅で下車し、炎天下を歩いて十五分、枚方市役所へ行った。受付で市の観光地図が欲しいと申し出たら、親切に広報課を教えてくれる。ここで、「ひらかたガイドマップ」という立派な地図をもらった。これで樟葉宮の所在地を確かめ、再び駅に戻る。 タクシーに乗り、すっかりベッドタウン化した枚方市街を過ぎて、約十五分で交野天神社の前につけると、樟葉宮旧跡と書いた石柱が立っている。天神に詣で、落ち葉を踏んでさらにその奥へ辿って行くと、史跡継体天皇樟葉宮跡伝承地と記された碑が、木洩れ日の中に立っていた。立札に、交野天神境内の東北方に当る小高い丘の上にある貴船神社の付近が樟葉宮跡である、と書いてある。森の静かなたたずまいのほか、何もなかった。 詳しい地図をあらかじめ用意している場合は、枚方駅から京都寄りの樟葉駅で降りた方が近い。

第二の都・筒城宮跡は、木津川を遡った左岸の高台・田辺市多々羅都谷にあり、今は同志社大学田辺キャンパスになっている。近鉄京都線の田辺駅から学生達とともにバスに乗り、終点の大学正門前で降りる。正門で受付に聞くと、なんと目前の丘が宮跡だという。早速、パンフレットをもらい、中へ入る。丘の上には、継体天皇皇居故趾および筒城宮祉の二つの碑が立っている。

筒城宮は、山城国における最初の皇都として主要なところであり、一説には奴理能美(ぬりのみ)系の渡来人の経済的地盤に負うところが最も多かったと思われる。奴理能美とは、応神朝に渡来し仁徳朝にこの地を賜い、養蚕に秀でた百済系の渡来人といい、その子孫は顕宗朝に絹を献上した功によって調首(つきのおびと)の姓を賜った。 多々羅(たたら:足で踏んで空気を送る、大型のふいご)という地名は、製鉄場があったことをうかがわせるが、証拠はない。

立札に、第十六代仁徳天皇皇后磐之媛(いわのひめ)も、この地に住んだという。 磐之媛は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。 日本書紀巻第十一・仁徳天皇に、淀川流域を舞台にした物語が載っている:
仁徳三十年の秋、磐之媛は紀国においでになり、熊野岬で祭祠用に御綱葉(みつなかしば:三角葉)を採取して帰ってこられた。皇后の留守中に天皇はついに、八田皇女を娶って宮に入れられた。皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、このことを聞かれて、大変お恨みになった。そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。 天皇は皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。 翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず、奈良の山を越えて葛城を望んで、
 難波の宮を通り過ぎ、山背川をさかのぼると奈良を過ぎ、倭を過ぎ、
 私の見たいと思う国は葛城の高宮の我が家のあたり
とお詠みになった。そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。 天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨にぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。 その妹で、皇后の側に侍す国依姫は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」と詠んだ。 皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いているのです」と申し上げた。皇后は、「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」とおっしゃった。臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。 十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸された。時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、
 磐之姫は並大抵のことではお聞き入れにならない私の心恋(うらごひ)の木、
 その末桑(うらぐわ)の木が近寄ることの出来ない河の曲り角にあちこち寄っては
流れ、寄っては流れて行くその末桑の木が
とお詠みになった。 翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。その時、天皇は次の歌をお詠みになった。
山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉がざわつくように、ざわざわとあ れこれ貴女が言われるからこそ、見渡すむこうにある木の茂るように 大勢の人を引 き連れて貴女に会いに来たものを
皇后は人を介して、「陛下は八田皇女を入れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」と申し上げた。天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。

仁徳三十五年夏、磐乃媛は筒城宮で亡くなった。御陵は、奈良市佐紀町の佐紀ヒシアゲ古墳である。
(注)この物語は、坂本・家永・井上・大野校注「日本書紀」(岩波文庫)をもとに、一部省略して、逐語訳しました。

磐余玉穂宮は、奈良県桜井市池の内に伝承地がある。神功皇后と履中天皇が都を置いた磐余稚桜宮跡、とされるのが稚桜神社である。磐余玉穂宮は、そこから約三百メートル西南にある池の内の村外れに、土地の人々が「おやしき」と呼んでいる小高い丘の周辺にあったという。

継体天皇陵は、茨木市の太田茶臼山古墳だが、これより東北ニキロメートルにある今城塚古墳が正しいとされる。今城塚古墳を発掘している高槻市教育委員会によれば、同古墳は戦国時代に砦として使われ、墳丘が削られるなどしていたため、正確な墳丘規模が不明だった。