史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク
淀川の水

高槻城は、阪急高槻市駅の南側から少し歩いたところにある。明治七年(1874)の鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、今では城趾公園となっている。昭和五十年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘した。今も地中に、遺構が眠っている事が明らかになった。 高槻城が記録に登場するのは十四世紀前半、入江左近将監春則が居城としてからである。永禄十二年(1569)には、和田惟政が城主となった。元亀四年(1573)、その子惟長と対立した高山飛騨守・右近父子が、和田氏を滅して城主となった。

高山飛騨守は、大和国沢城(奈良県榛原町)の城番として、一時在城していた事がある。 永禄七年(1564)、日本人の元琵琶法師で、ほとんど全盲だが、卓越したキリシタン説教師・ロレンソが堺から沢城を訪れた。この時、長男で少年の右近が、この城内の教会で洗礼を受け、キリシタンになっている。

この城に接する小さな砦に礼拝堂があり、それをコンスタンチノという霊名の、もう五十歳近くになる、高徳な頭をそった男が世話していた。 永禄八年(1565)、飛騨守が沢城を出て、津ノ国の高山という彼の故郷に引き上げる時、コンスタンチノは彼の出生地であり、妻や親戚がいる尾張国花正(はなまさ)へ帰った。これが尾張にキリスト教が広まるきっかけとなった。

信長が高山家の主君にあたる荒木村重を攻めた時、京南蛮寺の宣教師オルガンチノを右近のもとに遣わして、「キリシタンである右近が、主君荒木の主君たる信長に叛くことは、罪として禁じられているはず」などと言わしめた。右近はついに城を開き、信長のもとに走った。 右近は、高槻城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正九年(1581)にはイタリア人の巡察使ヴァリニヤーノを迎えて、盛大な復活祭を催している。 信長急死の報を受けて、秀吉が「大返し」で河内に帰った時、高槻にいた右近は山崎の合戦にその先鋒となって加わり、光秀の軍を圧倒した。 賤ヶ岳の合戦で、右近は余呉湖東側の岩崎山に、中川清秀はそのすぐ後方の大岩山に陣を構えたが、湖を迂回してきた佐久間盛政に懐を突かれ四散し、清秀は戦死した。この時、岐阜にいた秀吉は直ちに兵を返し、盛政軍を壊滅させ、余勢を駆って柴田勝家を越前北の庄(福井市)に追い詰め、滅亡させる。

天正十五年(1587)、秀吉の九州平定が終わり、博多で論功行賞を行った。この時、右近は秀吉からキリスト教を棄教するよう指示されたが、応じなかった。明石六万石を捨て、浪々の身となり、一時、小西行長の領地・小豆島に身を潜めた。その後長く、前田家の庇護を受け、江戸時代まで生き延びた。大阪冬の陣に先立って、慶長十九年(1614)、徳川幕府によりマニラに追放され、半年後死去した。現在、ローマ教皇庁にて、右近を聖人に列すべく審査が続けられている。

高槻に残された信者たちは、表面は仏教等を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるようにしてキリスト教を信仰していた。大正八年(1919)ニ月、あるキリシタン研究家が、茨木市千提寺の山林からキリシタン墓碑を発見するまで、この辺りがキリスト教に関係があるという確証がなかった。現在、同地に茨木市立キリシタン遺物史料館がある。

イエズス会の巡察使ヴァリニヤーノは、三回来日している。最初は、島原半島南端の天然の良港・口之津に上陸し、高槻を経由して、安土城で信長を表敬訪問した。また、日本教会に内在する諸問題の解決に取り組み、宣教師の思想統一・教会の組織改革に敏腕を振るった。 天正十年(1582)、ヴァリニヤーノは四人の日本少年を伴い長崎を出発し、西回り航路をとって、ローマに向かった。世にいう天正遣欧使節である。この企画は、思いがけずローマ教皇の拝謁を得るなど、大成功であった。しかしその間、故国・日本では秀吉の宣教師退去令が出て、キリシタンに不利な情勢に傾いていた。少年達は、肩書をインド副王使節に変えたヴァリニヤーノに伴われて、八年五ヶ月ぶりで帰国した。 その後、棄教した一人以外の三人は司祭になり、宣教に一生を捧げた。うち、中野ジュリアンは寛永十年(1633)、長崎で忌わしい穴吊の刑に処せられて殉教した。 慶長三年(1598)、ヴァリニヤーノは新任日本司教と共に、三度目の来日を果たし「日本教会史」を執筆後マカオに帰り、病没した。

この使節の具体的な成果は1445年、ドイツのグーテンベルグが発明した金属活字印刷術の伝来であった。持ち帰った活版印刷機が島原半島の加津佐で動き始めるとすぐ、日本字の活字が作られ、天草に移ってからもローマ字本と国字本の名著が次々と刊行された。
今日、そのほとんどが失われているが例えば、最初のローマ字であるポルトガル式ローマ字で書かれた教本「どちりな・きりしたん」の世界で唯一の原本が、東京都文京区本駒込の国会図書館支部東洋文庫にある。
この印刷機は、加津佐から天草河内浦(河浦町)・長崎と移転し、慶長十九年(1614)、右近がマニラに追放されたとき、少年使節の一人・原マルチノと共にマカオに去った。
マカオの丘に、日本人の援助により建立されたセントポール天主堂がある。今は正面の石造りの遺構が残るのみだが、ここでその印刷事業が継続されたことだろう。

もう一つの慶長遣欧使節は、フランシスコ会のルイス・ソテロの提案を、伊達正宗が実行に移したもの。慶長十八年(1613)、風光明媚な牡鹿(おが)半島月の浦から、日本船サン・ファン・バウチスタ号五百トンに家臣支倉(はぜくら)六右衛門以下百八十人が乗り組み、東回り航路を取って、ローマに向かっている。その間に、徳川幕府が禁教令を発したため、渡航の意義を失ってしまう。平成五年(1993)、宮城県石巻市の北上川の中瀬で、その復元船が進水した。

昨年、残暑厳しい頃、私は熊本空港に降り立って宇土(うと)に入り、小西行長の遺跡を辿ってみた。雲仙普賢岳を望む御輿来(みこしき)海岸を経て、天草五橋を渡り松島町で一泊した。翌日は、天草全島をくまなくと意気込んだが、バスの乗り継ぎでは無理で、以下に述べる平凡なコースを辿らざるを得なかった。 熊本県天草郡河浦町は、静かな羊角湾の奥にある。本渡からバスで一町田に着き、歩いて南下すると、西への眺望が開けたところに、開館間もない天草コレジヨ舘がある。ここに展示されている印刷機は複製であるが、往時のものと寸分違わない。館長さんから、丁寧な説明を頂く。
天草コレジヨ舘からの帰途、道端に思いがけず「ルイス・デ・アルメイダ上陸地跡・南蛮船碇泊所跡」と記した標柱(写真)が立っていた。羊角湾の海岸線は、ここから西に隔たっており、今は場違いのたたずまいである。 天正十九年(1591)から慶長二年(1597)まで六年間、この地にコレジヨ天草があった。コレジヨとは、神学や哲学を主に研修する司祭の養成機関である。ここで、当時のヨーロッパの最新知識を、ローマから帰ってきた四人の青年などが学んだのである。 天草山崇円寺は、島原・天草の乱後、代官鈴木重成より郡内四本寺の一つとして、正保ニ年(1645)、この地に創立された。境内および裏山一帯は、戦国末期キリシタンを取入れた天草鎮尚、久種の河内浦城であった。この領主と巡察師ヴァリニヤーノが、遣欧四少年と共に昼食を摂っている。

ポルトガル人のルイス・デ・アルメイダ(1525~83)は、弘治二年(1556)、豊後国府内(大分市)に日本最初の洋式病院を建て、内科はもとより日本最初の洋式外科手術を行った。また、五島など九州各地を伝道し、京畿地方もフロイスと共に伝道行脚した。永禄十年(1567)、長崎で最初の伝道所を今の春徳寺に置いた。天正十一年(1583)、河内浦で、五十九歳の天寿を全うした。
道は河浦町から分岐する。南下すると牛深港で終点となり、新鮮な魚介類に出会える。
西へ行くと、羊角湾(写真)が広がる。その北側の海岸線に沿って走ると、アルメイダが建立した崎津天主堂の尖塔が、海の向うに山並みを背景にして美しく浮かび上がって来る。この穏やかで、風光明媚な海の埋立工事が計画されていると聞き、唖然とした。
バスは、天主堂のほとりを過ぎてうねうねと海岸沿いに走り、峠を越えてやがて天草灘沿岸の大江天主堂(写真)に着く。この天主堂は昭和七年(1932)、ガルニエ神父が建てた。この人も、約半世紀を大江の里の村人と貧困を共にし、この地で骨を埋めた。この沿岸は、ド・ロ神父が伝道した西彼杵半島の外海(そとめ)地区に似て、切立った断崖が連なっており、当時は産物に乏しかったであろう。

私は、崎津から大江までの道のり約六キロメートルを、歩き通したことがある。トラックの往来が結構、激しかったが、それでも海と山の自然に包まれて、楽しいハイキングであった。 (写真)
バスは、下田温泉を経て、志岐から富岡に至る。志岐もキリシタン巡礼の旅には欠かせない史跡である。そのまま、海岸線に沿って行くと本渡に帰り着く。富岡は、砂州で天草本島とつながった小島である。天草の乱の時、城代を失った唐津藩士が一揆の来襲を奇跡的に防ぎ切った富岡城がある。

江戸時代後期、「日本外記」を著した頼山陽も天草に来て、次の漢詩を残している。
頼山陽「天草灘に泊す」
雲か山か呉か越か
水天髣髴青一髪
萬里船を泊す 天草の洋
煙は蓬窓に横はって日漸く没す
瞥見す大魚の波間に跳るを
太白船に当たって明月に似たり

(注)「青一髪」は、中国北宋の著名な政治家で文人の蘇軾(東波:1036~1101)が、南海島から呼び戻されたときに作った詩の一部、「青山一髪これ中原なり」を踏まえている。「太白」は、宵の明星(金星)のこと。

富岡から高速船に乗ると、四十分で茂木に着く。ここは、橘湾の海産物ばかりでなく、茂木枇杷や、和菓子の一口香(いっこつこう)でも知られている。山一つ越すと、長崎である。