史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
  • ホーム
  • 紀行文
  • キリシタン史跡
  • 太平洋戦争
  • 核物理
  • お問合せ
  • リンク
淀川の水

京阪電鉄本線の光善寺駅で下車して、帰路を急ぐ主婦達の後について西に向かい、国道沿いに北上し一号線の走谷ニ交差点を渡る。大きく掲げられた出口御坊の案内板を見て気が楽になり、これに従って工場と住宅の入り交じった街路を直進すると、出口御坊光善寺(写真)と、その近くに「蓮如上人腰掛の石」がある。光善寺には入れず、参拝出来なかった。

丹羽文雄はこう記している:
蓮如は出口を拠点として、近畿地方の道場を経廻して、教法を広げたいと思った。出口は淀川の南岸にあった。伏見と大阪の中間に当たる。北には山崎男山があり、西には勝尾の高嶺があり、遠くに摩耶があり、東には金剛山がかすみ、生駒の山々を集めた景色のよいところであった。その地にかなり大きな沼があった。それを埋めて一宇を建てた。
(注)丹羽文雄著「蓮如」(中公文庫)

現在は人家が建て込み、遠くの山々をみはるかす余地はまるでない。
後五百歳説によれば、五百年ごとに区切って、正法・像法・末法・法滅と順に仏法が衰退して行くと予言した。末法の始まりは、平安中期の永承七年(1052)とされ、これ以降は教(教え)行(実践)証(悟り)のうち、教しか残らない空洞化時代を迎えるという。 これに反して、仏教は武士に受け入れられると共に、広く大衆化の時代を迎える。荘園制度の崩壊が、日本社会の近代化を促した。末法突入以後に出現した日本仏教は、融通念仏宗(開祖:良忍)、浄土宗(法然)、真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)、日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)と多彩を極めることとなる。

真宗の開祖・親鸞上人(1173~1262)から数えて第三世の覚如上人は、東山大谷にあった親鸞の廟堂を本願寺に改め、真宗の正統派寺院を名乗った。改邪鈔を著し 、仏光寺や高田教団など、真宗系の他派教団の中で流行している異端邪説を糾弾した。しかし、教勢振るわず、比叡山延暦寺の三門跡の一つである青蓮院の末寺として細々と露命をつなぐ。

第八世蓮如(1415~99)の時代に、真宗は自我に目覚め始めた農民達の帰依を得て、大発展した。敷物を用いず、聴聞者と同じ高さの目線で説法をする蓮如の謙虚な姿勢も 、門徒達の間に大層好感を呼んだ。やがて、延暦寺の山徒の嫉妬を買い寛正六年(1465)、本願寺は襲撃され徹底的に破却された。

それ以後の京の町は、細川勝元と山名宗全が対立する応仁の乱(応仁元年~文明九年)により、仁義無き戦乱の巷と化して行く。蓮如はこれを避けて、近江国堅田の門徒のもとに身を寄せた。門徒達は延暦寺の山徒に献金して 、ひとまず関係修復に成功する。 蓮如は縁故をたどって、加賀と越前の境付近にある興福寺大乗院領吉崎に落ち着いた。興福寺も、そこに蓮如が居てくれることで、領民との絆が強化できると期待した。

ある朝、私は吉崎御坊訪問を思い立ち、車で東海北陸自動車道を北上した。白鳥(しろとり)から156号線に乗り、途中で枝道を左に入って「阿弥陀ヶ滝」を見物して、先ず白山中居神社に向かった。 立派な鳥居をくぐって、石徹白(いとしろ)川を渡った北側に社殿があり、翌日の祭礼の準備に忙しい神主さんと暫時、立話をした。第十二代景行天皇の御世に東夷が朝廷に背いた時、これを討つため伊邪那岐命と伊邪那美命が打波との境の橋立山に天降りされた。白山中居神社には、この両大神が神殿に、白山の守神・菊理(くくり)媛が前殿に祀られている。ここは、白山への登山口でもある。 菊理媛という名の神は「古事記」には現れず、日本書紀の一書(いちふみ)のなかに一個所だけ登場する。すなわち、両大神が仲違いして、黄泉平坂で磐石を間にして向い合った時、
是の時に菊理媛神亦白す事有り。伊奘諾尊聞しめして、善(ほ)めたまいて、乃ち散去(あらけ)ましぬ
とある。ここで、菊理媛が何事を申されたかは記されていない。

ここでも、明治の神仏分離で騒動が起きた。神官が石徹白川に投げ込んだ虚空像菩薩坐像など仏像や仏具の類は、すぐ下流の在所の人たちが拾い集め、観音堂・大師堂を新たに建立してそこに納められた。 琵琶湖に浮かぶ竹生島にも、神仏分離の嵐が吹き荒れた。神殿から追い出された仏像は狭い島の中、行き場を失った。細々と雨露を凌ぎつつ堂宇の建設を志したが、遅々として進まず終戦後まで持ち越された。それが、西国三十三霊場第三十番真言宗寶厳寺である。

第二次大戦後、連合国軍の軍事的管理下に入った日本は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の発したいわゆる神道指令により、軍国主義のイデオロギーと見なした神道を国家から分離した。こうして、神道も仏教等他の宗教と対等となった。靖国神社は明治二年(1869)、維新や戊辰戦争の死者を祭る東京招魂社として生まれた。いわゆる、祭り型神道に属する。 太平洋戦争のA級戦犯も、靖国神社に合祀された。これが、首相等の靖国神社参拝を妨げている。その分祀が取り沙汰されているが、遺族の一部に、
被告は「自衛戦争です」と抗弁し続けた。それを遺族が東京裁判は妥当であったかのごとき動きをやれば、将来に汚点を残すだろう。 と反対論が根強い。

石徹白川に沿って九頭竜川に向う道路は狭く、路肩に車輪止めがなく甚だ危険である。先日も、老人の運転する車が、踏み外して川に転落した。夜間など、見通しの利かないときに通行するのは、自殺行為である。 福井県に入って、大野城趾・平泉寺白山神社・永平寺を訪れ、福井市内のホテルに宿泊した。旅館は長崎在住時、佐賀の武雄温泉で断られ、嬉野温泉まで行って泊まることが出来たという苦い経験から、以後敬遠している。 翌日早朝、市内中央の福井城趾に立ち寄った。歴史に名高い勝家の北の庄城があった所だが、現在、跡を残す福井城は、慶長六年(1601)松平秀康が築いたものである。石垣や堀もきれいに整備され、城内の敷地は地方自治体の庁舎で占められ、見るべきものは何もない。 雨の降る中、国道8号線を北に向かい、加賀市に入る手前で左に折れたがたちまち、道に迷う。やっと305号線に出会い、これを頼りに福井方面へ根気よく車を進めると、湖のほとりに吉崎御坊を見出した。

蓮如は 、北潟湖がめぐる小高い丘に、 吉崎というこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたいらげて 吉崎御坊を建立した。今は坊舎もなく、静寂に包まれている。松の木が林立する境内の一隅に、薄幸の第四子・見玉尼の墓がある。 御坊内の資料館で、真宗の歴史を静かに学ぶ機会に恵まれた。唯一人で展示資料をメモしていると吉崎御坊が、文明三年(1471)から文明七年(1475)とあり、次に、山科本願寺が、文明十二年(1480)から天文元年(1532)となっている。その間に、出口坊舎の時代が省略されているのに不審を覚えたが 、教えを乞う人も居ないので、疑問を残したまま資料館を後にした。

ここを本拠とした本願寺は門徒を増やし 、北陸の天台宗や真言宗、そして禅宗の寺々のほか白山宮末社のほとんどを吸収し、加賀の高田派を追払い、加賀国守護の富樫氏と対立するまでになった。加賀の一向一揆である。源義経が立ち寄ったとされる平泉寺白山神社も 、一揆が焼き払った。蓮如はこの争いを嫌い、夜半ひそかに船に乗って吉崎を退去し、越前海岸沖を通って、若狭国小浜(おばま)に落ち着いた。

蓮如が次の本拠として出口を選んだのは、丹羽文雄の言うように近畿地方経廻の中心地として適していたからであろう。だが、この辺りは淀川の洪水に見舞われやすい地勢で 、安心出来なかった。

蓮如はたびたび堺に出向くようになった。堺は出口や富田の延長であった。堺はまた大阪御坊の前身としての意味を持っていた。この堺に小坊を建てた意図は、後日、山科において実現されたが、時間的には文明十年以前の創立であったことが判る。出口御坊、富田御坊、堺御坊の三つの中で、自分の隠居所にするには堺御坊がもっともふさわしいように思われた。明応六年(1497)に大阪御坊が創建されるまでは、堺御坊で蓮如は晩年を送った。(丹羽文雄著「蓮如」)

蓮如は河内国石山(大阪城公園の辺り)に、自分の隠居所を定めた。後に、ここに石山本願寺が建立され、そして滅んで行く。今は、蓮如上人袈裟懸松之根が残るのみである。 やがて、京の郊外の山科に本拠を移し、明応八年(1499)ここで八十五歳の生涯を閉じた。この間、五人の妻女を次々と娶り、二十七人の子宝に恵まれた。うち七人は七十歳代以降に設けたという 、まことに驚異的な人物であった。

当時、京の町中では、日蓮宗が町衆の尊崇を集めていた。東山の向う側では 、農民達が群集する本願寺が繁盛した。必然的に両派は激突し、天文元年(1532)、山科本願寺は焼き打ちされ、第十世証如上人は石山に退く。 勝った日蓮宗も天文五年(1536)、延暦寺の山徒により京の法華寺院を焼かれ、信徒は追放される。天文十九年(1550)、フランシスコ・ザビエルが京に上ったとき目にしたのは 、この宗教戦争で荒れ果てた京の町であった。彼は天皇への拝謁もかなわず、京に十一日間滞在しただけで、空しく山口に引き上げた。 その延暦寺もまた、元亀二年(1571)、信長軍団により一山ごと討滅されてしまう。戦いといえば武士同士を想像するが、信徒達も集団となり武器を手にして武士や他宗団と戦う 、まさに戦国時代であった。

石山でも本願寺(石山本願寺)は大いに繁盛し、道俗男女が群集した。永禄十三年(1570)、織田信長は本願寺に難題を申し入れ、ついに石山合戦が始まった。陸上では、鈴木孫一率いる紀国雑賀衆の鉄砲軍団が信長軍を大いに悩ま せた。海上では、孤立した石山への物資補給に一役買った毛利船団が、信長軍船を圧倒した。 十一年間の攻防の末、天正八年(1580)三月、勅によって和議が成立し、第十二世教如上人は石山を退去して紀国鷺森御坊に移る。退去の翌日、石山本願寺は出火し 、三日三晩焼け続けて壮麗を誇る伽藍のすべてが焦土と化した。

本願寺鷺森別院「参拝のしおり」に、次のくだりがある: 元亀元(1570)年以来、十一年に及ぶ大阪戦争を戦い抜いた本願寺も、天正八(1580)年閏三月、ついに朝廷の和議酬斡を受けいれ、大阪を退去することになりました。同年四月九日、雑賀からの迎え舟に乗った顕如上人一行は、祖師像を奉じて大阪本願寺を退去し、翌日、雑賀御坊に到着。上人が貝塚に移る天正十一年七月四日までの三年有余、ここが一宗の本山となりました。

その後、本願寺は次の変遷を辿る。
    天正十一年(1583)貝塚市中町に移る(貝塚御坊)
    天正十三年(1585)大阪市東天満に移る(天満別院:注参照)。
    天正十九年(1591)京都市六条堀川に西本願寺を建てる。
    慶長 七年(1602)京都市六条烏丸に東本願寺を建てる。
江戸時代に入ると寺檀制度が布かれ、全国の仏教寺院は幕府の行政組織の中に組み込まれ、往時の活力を失って行く。

(注)別院(御坊ともいう)は本山直属寺院をいい、名目上は門主が住職となるが輪番が代理住職を務める。 別院は傘下の末寺を統括する。

「天満別院の由緒と沿革」に次の一文がある: 10年も続いた石山合戦が終わり、本願寺は紀州鷺の森、ついで泉州貝塚へ、天正13年(1585)に大阪天満川崎へ移り、天正19年京都堀川へ移って行きましたが、天満別院はその川崎本願寺の伝統を受け継いだのであります。