史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

江口の里は大阪市東淀川区南江口にあり、淀川の右岸に位置する。京阪電鉄で反対側の左岸を下ってきたので、地図上では最も近そうな守口市で下車する。 駅付近の喫茶店で食事をし、店主や来客に対岸の江口への道筋を尋ねるが誰一人、的確な答えが返って来ない。

名古屋から木曾三川を渡り、桑名に入ると話し言葉が、名古屋弁から関西弁に一変する。昔の交通路は、熱田からの「七里の渡し」と、陸路・佐屋路を経て佐屋からの「三里の渡し」の二海路しかなかった。川が人間の文化を隔ててしまった典型例である。 どの地域でも川を挟んで、対岸とは無関係な生活をして来た。あきらめて、地図と首っ引きで歩き、淀川の堤防に登ると眺望が一気に開ける(写真)。見渡すと、少し下流に斜張橋 型の豊里大橋が見える。

淀川は現代に至るまで、合わせて二百回に達するという洪水に見舞われている。従って、その治水事業の歴史は極めて古く、仁徳天皇(五世紀前半)による難波の堀江の開削、茨田(まんだ)の堤の築堤、和気清麻呂による神埼川の分流工事(延暦四年・785年)、豊臣秀吉による太閤堤(文禄三年・1594年)や文禄堤(文禄五年・1596年)の築堤、三川合流部の改修等歴史に残る幾多の河川事業が行われてきた。 明治七年、京阪間の舟運のための航路維持を目的として、低水路工事が行われた。渇水時でも、水深を約百五十センチに保ちつつ、流路を安定させる工法が採られた。 明治十八年、長雨が続き、枚方の水位は四・二四メートルとなり、支川の天野川と淀川左岸三矢町(枚方市)の堤防が決壊し、茨田郡ほかの百十三カ村に甚大な損害を与えた。さらに、仮補修していた堤防が再び決壊し、浸水戸数は七万戸以上、被災者は約二十七万人にのぼる大災害となった。大正六年の洪水も、これに匹敵するものであった。 その後、官民挙げての淀川改修運動が国会を動かし、改良工事が始まり、明治三十一年(1896)から第一工区として、佐太(守口市)から河口までの新淀川の開削が行われた。

今、私が眺めている下流方面は、「佐太・毛馬の屈曲」の個所で、以前は流れが大きく蛇行していた。これを修正しその先に長柄運河を開削して、河水を上流から運ばれてくる土砂を含めて、ストレートに大阪湾に排水するようにした。今は、両岸に「スーパー堤防」が築かれ洪水の恐れは解消した反面、川と流域とが完全に分離されてしまった。

木曾三川流域も、堤防決壊の恐怖にさらされてきた。平成十一年九月三日(金)付の毎日新聞に掲載された記事を要約すると:
三重県長島町は、揖斐、長良、木曾の木曾三川に囲まれた輪中(わじゅう)。天井川から町を守るため、全長二十六キロメートルの堤防が築かれている。伊勢湾台風では、その堤防が十五カ所決壊し、人口八千七百八人中三百八十三人が死亡した。 町誌によると、慶長元年(1596)から明治十年(1877)までの約二百七十年間に、洪水、高潮など五十回を越す水害に見舞われている。だが、明治四十五年(1912)に完了した木曽三川改修後、堤防決壊はなかった。防災意識が風化しつつあった矢先の伊勢湾台風であった。

ここは、長島一向一揆で名高い。真宗第三世覚如はここに願証寺を建て、第八世蓮如は第十三子連淳を寺主とした。これ以来、願証寺は一向一揆の根拠地となる。 天正二年(1574)、信長は七万の大軍を率い、三度目の長島攻めを行った。志摩の九鬼水軍を始め、楠・白子(しろこ)・津・知多の野間等の船を中心に城や砦の周りを取囲み、兵糧攻めをする。三ヶ月の籠城戦の後、さしもの堅塁も九月二十九日、遂に落城した。この日、長島城は降伏を申し出て、信長これを許した。生き残った者は、船に乗り城から退散しようとしたが、信長の鉄砲隊に岸から狙い撃ちされ、多くは川に落ち、大川は死者の血で真っ赤に染まった。また、最後まで残っていた対岸の屋長島・中江城の者達は、城の周りに幾重にも柵を設けられ、四方から火を放たれ、女子供も生きながら殺された。その死者二万。願証寺は、明治の河川改修により長良川左岸(中堤)寄りの水中に沈んでいる。

淀川の水量の豊富さに目を奪われながら、豊里大橋を渡る。右岸に沿って上流へ向け、どこまでも歩く。淀川の水を神埼川に分流するために開削された流路に出会う手前に、江口の里がある筈だ。 やがて、左手に森が見えてきたので、コンクリートの堤防に上がって見下ろすと、木々の緑の奈落(ならく)ゆかりの深い史跡である。西行が天王寺詣での折、にわかに雨が降って来たので江口に宿を借りようとしたが、貸してくれなかった。そこで、不満の意を歌に託したところ、その遊女が優れた返歌で答えて来て、すっかり意気投合した。 その歌が新古今和歌集に収録されている。
世の中をいとふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな   西行
世をいとう人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ  江口妙
「世の中を、厭わしく思って出家することは難しいが、仮の宿を貸すことを惜しむとはね」と問うと、遊女が、「出家した人なら、仮の宿ごときに執着なさらないと思い、お断りしました」と答えている。

西行(1118~90)は、俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、鳥羽院の北面の武士であった。二十三歳の時、友人の死に会い、出家する。生涯にわたって旅が多く、旅の体験を通して自然と心境とを詠み、独自の詠風を築いた。新古今和歌集には九十四首の最多歌数を占める。平氏を相手取って、平治の乱を起して処刑された藤原頼長と同世代に当たる。

この物語は脚色され謡曲・江口としても名高く、境内の立札に次のように書いてある:
謡曲・江口は、「浮世は仮の宿」とする大乗的な暗示を主題とした香り高い曲である。西国行脚の旅僧が、攝津国江口の里に着くと里女に会い、昔西行法師が宿を借りた時の歌問答を聞かせて、自分は遊女江口の君の化身であると告げて消え去った。 旅僧が跡を弔っていると、船に乗った江口の君が侍女と共に現われ、舟遊びの様や歌舞を奏して楽しむうちに、遊女江口の君は普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消えるという筋を持ち、深遠な仏教の哲理を説く夢幻境の世界を見せている。

周囲を住宅に囲まれた境内には「江口の君堂」があり、今は日蓮宗寂光寺である。当時は今のような大げさな堤防はなく、境内の泉水も淀川の水に通じていただろう。 そして、江口は都から西海への重要な河港として栄えたから、岸辺では渡し舟などが発着し、遊里などが活況を呈していたことであろう。難波潟に流入する淀川の、河口付近に位置していたと考えられる。

作家の白州正子さんは、車で近畿自動車道の摂津南インターを降りて訪れている。それが正しい道筋であって、私の辿った道はあまりにも遠回りであり、推奨できない。