史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

秀吉が建てた大阪城の天守閣は、外観は五層で、内部は八階であったと考えられている。天守閣がある本丸とその北に隣接する山里曲輪は内堀によって取囲まれている。その外周に二之丸があって外堀によって取囲まれ、さらにその外に三之丸が取り巻いている。惣構(そうがまえ)は、三の丸のさらに外に設けられ、東は猫間川・平野川・大和川など、西は東横堀川、南は空堀、北は大川を前にして、かわらや石を塗りこめて頑丈に作った塀で囲むという壮大なものであった。三之丸の周りにも堀があったのではないか、という説もある。

これほどの名城もあえなく陥落したのは何故か。大阪冬の陣の後、二之丸と三之丸の取り壊しを城方の手で、惣構の取り壊しを関東方の手で行う取り決めになっていたが、惣構を取り壊した関東側が勝手に二之丸・三之丸にも手をつけ、堀を埋めてしまったからである。 元和元年(1615)五月淀の方は大阪城落城により山里曲輪の矢倉の中で秀頼と共に自刃して果てた。遺骨は大阪城外鴫野郷弁天島に、一祠を作って埋められた。これが淀姫神社である。 明治十年十一月城東錬兵場(現大阪城公園)造成にあたり移祠されることとなり、豊臣にゆかりの深い太融寺(大阪市北区太融寺町)に埋め、九輪の塔を建て境内西北方に祭った。淀の方の墓に捧げられた追悼の詩を掲げる。 藤見東陽「太融寺淀殿の霊を弔う」
大阪の城楼碧涯を圧す  姉は豊公の寵珠帷を縦にす
春花秋月君に依りて麗し 窈寵嬋妍嗣を抱いて期す
方廣の鋳銘姦智の将   紅蓮の劫火憐憫の姫
今聞く鐘は愴し太融寺 墓石香煙菊を供するは誰ぞや
(注)姉(いろね)、帷(とばり)、縦(ほしいまま)、窈寵嬋妍(ようちょうせんげん)

山里曲輪を囲む切立った石垣の上に、淀君並びに殉死者三十二名忠霊塔と聖観世音菩薩像が安置されており、ここにも参詣者の姿が絶えない(写真)。

落城後、江戸幕府の直轄地として城代が置かれる。関西に睨みを利かせるため、元和六年~寛永六年に大阪城が再建された。本丸は約十メートル地上げされ、秀吉の大阪城とは異なる徳川新城となる。天守閣は万冶三年、寛文五年と二度落雷して焼失し、以後再建されず慶応四年、鳥羽伏見戦争の余波で城内建築物はほとんど焼失した。 大阪城焼失の模様は、次のように伝えられている:
正月九日午前七時ごろ、幕兵を追って大阪城に迫っていた長州勢の先鋒部隊が放った大砲の弾で、京橋口の金鉄門外に建てられていた仮兵舎がまず燃え上がり、しばらくすると京橋口の内側からも火の手が上がった。城に残っていた妻木頼矩(めぎよりのり)は、長州代表と城明渡しの交渉をはじめ、午前八時ごろにはこれ以上戦いをせず、城を明渡すことを決めた。 ところが、もうそのときは京橋の定番屋敷からも火が出て、間もなく今度は本丸台所からも火が出て、火勢はみるみる広がり始めた。なにしろみな逃げ去ってしまったあとで、消火にあたるものが居らず、燃え放題となった。そのうち午前十時ごろ、火薬庫に火が入ったのか、百雷が落ちたかと思うようなものすごい爆音とともに激しい地響きがして、その瞬間に火は城内一面に広がった。こうして火は翌十日の夜中まで燃え続け、つい先年に修復が完成したばかりの城内の建物をほとんど焼き尽くした。 (注)岡本良一「大阪城物語」(ポプラ社)

現在の天守閣は昭和六年に建てられ、コンクリート造りである。

玉造稲荷神社や、森ノ宮遺跡がある大阪城南側の高台一帯は四世紀頃、大和朝廷に所属する玉作部の居住地であった。稲荷神社境内の石鳥居は、慶長八年(1603)三月、秀頼公が奉納し、その七月に千姫が七歳で秀頼に嫁している。この石鳥居は、先の兵庫南部大震災で倒壊した。 千姫は、大阪落城の際救出され、戦国・江戸時代を生き抜き、七十歳で没した。晩年は、弘経寺(水海道市豊岡町)を再興した了学上人に帰依し、本堂などを寄進した。墓は小石川伝通院にあるが、弘経寺にも古伊万里の壺に入れて分骨されていた。 通俗的な話だが、淀の方は近江国領主・浅井(あざい)長政と信長の妹・お市の方の間に出来た三人の女子の長女である。信長が京へ出る通路を扼する要害の地・近江を領する浅井氏を懐柔するための、政略結婚であった。 長政は、越前国・朝倉氏を攻めた信長軍を急に挟撃したため、信長は秀吉を殿(しんがり)にして命からがら、京に逃げ帰る。 元亀元年(1570)信長・家康連合軍は、朝倉・浅井連合軍と姉川を挟んで対峙した。浅井軍は姉川を渡り、信長本陣に迫る勢いであった。信長軍の左翼に陣した家康軍は、正面の朝倉軍を退け、浅井軍の側面を衝くと、朝倉・浅井軍は堪らず北へ敗走する。 戦場の北約四キロメートルの小谷(おだに)山に、長政の居城・小谷城がある。麓から登ると、本丸手前南側に展望が開けた個所がある。留守をしたお市の方母子は、ここから姉川の合戦の一部始終を見守ったであろう。 私の出生地は、姉川の合戦で戦場となった河原の北側にある。幼いころから、その河原で水遊びをしていたが、母の話によれば、河原を掘ると姉川の合戦当時と思われる、錆びた刀剣類が出たという。

姉川古戦場からほど遠くない北陸自動車道の長浜インターの付近に、国友鉄砲の里がある。ここは、種子島からの鉄砲伝来の後、早々に鉄砲製造を始めた。信長軍団、そして秀吉軍団の需要を一手に引き受け、最盛期には七十余軒の鍛冶屋と五百人を越す職人で賑わった。当時の国友は、堺と並ぶ一大鉄砲生産地であった。

天正四年(1576)淡路岩屋に集結した毛利船団九百隻が石山本願寺へ糧食を送るため出航し、大阪湾を東に横切り和泉貝塚で鉄砲衆をそろえた紀国雑賀船団と合流し、午後木津川河口に接近して日没を待ち織田軍船に海戦を挑んだ。織田側は大安宅船十艘に井楼を構え、互いの間を太い綱で結び鉄砲を装備していた。だが火船を風上から衝突され炎上し、二千人余を討ち取られ大惨敗した。 信長は三千石積み大安宅船を一分(約三ミリ)厚鉄板で装甲し、舳先に一貫目(三・七五キログラム)玉筒三挺を据え付けた軍船の建造を九鬼嘉隆に、玉筒の製造を国友鍛冶に命じた。 天正六年(1578)最後の艤装を終えた七隻の軍船が伊勢大湊を出航し、七月上旬紀国雑賀沖に姿を現した。おびただしい数の雑賀軍船で迎え撃ったが、二時間ほどの戦闘でほとんどが打ち砕かれた。この信長軍船が大阪湾に姿を現してからは、本願寺への海上からの兵糧輸送が途絶し、秋口に入ると本願寺は窮地に陥った。そこで、毛利軍船六百隻が兵糧を満載して木津川河口に現れた。織田側は周囲に小早船数十隻を配し迎撃したが、先ず小早船が壊滅し、大安宅船も火船で燃え戦線を離脱した。しかし、鉄板で装甲された大安宅船は射程内に敵が入ると一斉に大筒を発射して形勢は逆転し、被弾を免れた毛利軍船は陣形を乱して沖合に逃走した。こうして補給の道を失った本願寺は、和睦を請わざるを得なくなった。

母子は小谷城落城前に、秀吉により救出される。そして、越前国北の庄城主になった柴田勝家に再婚する。 天正十一年(1583)本能寺の変で急死した主君・信長の仇を討った秀吉は、賎が嶽の戦いで宿敵柴田軍を破り、余勢を駆って北の庄城を包囲し、勝家を自刃に追い込む。こうして、秀吉は、信長の後継者の地位を獲得する。 この時、三人の女子は再び、救出された。後に、長女の茶々は秀吉の側室になり、淀城を与えられて淀の方と呼ばれ、長男鶴丸(夭折)と次男秀頼を生む。秀吉没後は、権勢をほしいままにするが、不幸な結末となる。 次女の初は小浜城主京極高次の正室となった。三女は再々婚して徳川二代将軍秀忠の正室となり、お江与の方と呼ばれ、家光など三男、千姫など五女を生む。