史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

2007.8.31改定

光秀の子・玉は、細川越中守忠興の夫人になった。だが、忠興の意に反して熱心なキリシタンになり、霊名をガラシャといった。慶長五年(1600)、忠興は徳川家康に従って会津上杉の征伐に出陣した。留守中、反家康の石田三成が大名の妻子たちを大阪城内に人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れなかった。 細川家の屋敷は石田三成の軍勢に取囲まれた。夫人は家来に首を打たせ、屋敷に火を放ち潔く火中に果てた。焼け残った夫人の骨は、侍女達の手でオルガンチノ神父のところに運ばれた。神父が彼女のためのミサを終えたあと、堺の切支丹墓地に埋葬された。

それとは別に、崇禅寺にガラシャ夫人の墓があるというので訪ねて見た。大阪市南淀川区東中島5-27という地名を頼りに、阪急京都線崇禅寺駅(地下駅)で降りた。地上に出て、目と鼻の先の街角にある交番の前の道を三百メートルほど行くと、左側に新装成った壮大な凌雲山崇禅寺(曹洞宗)の本堂が目に入る。 この寺は、嘉吉元年(1441)室町幕府六代将軍足利義教が赤松満祐に殺され、その首級を葬った因縁により、時の管領細川持国が義教の菩提寺として建立した。 寺の墓地の奥まった所に義教の首塚と並んでガラシャ夫人の墓があった。秀林院細川玉子之墓(写真)とある。オルガンチノが細川家の焼け跡から夫人の遺骨を拾い、細川家ゆかりのこの崇禅寺に埋葬したという。

越中井(大阪市中央区玉造)は、その屋敷の台所にあった井戸と古くから伝えられている。昭和九年(1934)、地元の越中町内会の人々が相寄って、ガラシャ夫人の徳を顕彰する碑を建立した。碑の正面表題の文字は徳富蘇峰の筆で、側面(左側)の由来説明は京都帝大文学部長新村出の文である。 カトリック玉造教会の大聖堂が、越中井の近くに建っている。聖堂内部の正面の大壁画は、日本画・栄光のマリアである。左右の壁画は、桃山時代の代表的キリシタン高山右近と細川ガラシャ夫人とが描かれている。いずれも芸術院会員堂本印象画伯の作である。

実父光秀の死後、細川家は玉を丹後半島の味土野にかくまった。
森本繁「細川幽斎」(学研M文庫)P177に次の記述がある:
味土野は現在の京丹後市(旧竹野郡弥栄町)にある。宮津の浜から宮津湾を沖へ、天橋立を左手に見ながら日置の浜に上陸して、そこから西の内陸部へ向けて山中に分け入ると、生い茂る樹木に覆われた切り立つ岩肌の坂道がどこまでも続く。その丹後半島の中央部に味土野の集落はあった。確かに道中の山道は鬼気せまるけもの道だが、幽閉地と定められた所は日差しの明るい高地で、周囲を山々に囲繞された別天地であった。四季ごとに変わる山々の景観は美しい。標高613メートルの金剛童子山に登れば、丹後と但馬の海が俯瞰できたが、もとより籠の鳥である。玉にはそれは許されぬことであった。

ガラシャ夫人の人となりが知れる挿話がある:
寛永十四年(1637)島原・天草の乱の際、唐津藩領天草の富岡城代であった三宅籐兵衛は、天草本渡(ほんど)で農民との戦いに多勢に無勢で敗れ、壮烈な戦死を遂げる。 この人は光秀の女婿(注2参照)弥兵次の一男である。光秀が謀反を起した時、弥兵次は坂本に篭城した。その折、光秀の娘で弥兵次の内室が乳母を引き下がらせて、こっそりと申し含められたことは、「この子を連れて、ひとまず城を落ち、養育して、成人してからはどのような僧でもよいから引き取らせ一寺の主ともせよ」と言って、黄金五十両を乳母の肌につけさせ、城から落とした。乳母は頼まれ、一所懸命に竜鼻越えで八瀬の里まで落ち延びて行ったが、郷人に出会ったのでその子を捨て、京へ落ち延びていった。 その後、八瀬の明神の禰宜が拾い子として養育していた。それを、細川越中守忠興の室(ガラシャ夫人)が、めぐり合わせで探し出し、子は妙心寺で出家していたのだが、唐津藩主寺沢志摩守の家来となり、出家を捨て武士となった。そして、兵庫頭になるまで奉公したが、本渡での合戦で討死した。侍の行く末とは、誰の身の上でもこうであろう、と皆涙を流したのであった。
(注1)志村有弘訳「島原合戦記」(教育社新書)
(注2)原文には、孫とある

本渡市を貫流する町山田川に架かる祇園橋(写真)の付近は寛永十四年(1637)十一月、天草の乱で天草四郎の率いる宗徒軍と、富岡城代三宅籐兵衛の唐津軍とが激突した場所である。両軍の戦死者により川の流れは血に染まり、屍は山を築いたと伝えられる。ここで凱歌をあげた宗徒軍は、唐津軍最後の拠点・富岡城へと殺到して行く。

この石橋は、後世の天保三年(1832)に架設されたもので、祇園神社の前にあることから、祇園橋と呼ばれている。石造桁橋では日本最大で、長さ二八・六メートル、幅三・三メートルあり四十五脚の石柱により支えられ、見る人に奇怪な印象を与える。

乱の後、幕府は天草を天領(幕府直轄地)とし、代官・鈴木重成を派遣した。重成は、天草の石高四万二千石は過重で、半分に減免してもらいたいと幕府に再三嘆願した。この訴えは実らなかったが彼の死後、島民は高浜村に鈴木神社を建立してその尽力を称えた。 彼は、兄で曹洞宗の僧・鈴木正三(しょうさん)を天草に招き、仏教を島中に行き渡らせキリシタンを感化した。文化三年(1806)、天草くずれによりキリシタンが多数露見したが、大事には至らず収拾された。

キリスト教と真宗とは、幾つかの共通点がある。キリスト教はモーゼの十戒にあるように唯一神信仰であるのに対し、真宗も阿弥陀仏一仏への帰依を絶対とする。また、キリスト教は科学的宇宙観に基づく天の概念を持つのに対し、真宗も仏教的宇宙観である須弥山説に依る。 フロイス「日本史」には、禅宗の僧侶たちの堕落した姿や、信長の前で行った日蓮宗の僧日乗との宗論などが出てくる。だが、真宗との出会いは見当たらない。キリスト教は真宗に、非難の矢の浴びせようがなかったのかも知れない。 何よりも顕著な共通点は、法に殉ずるのを本望とする信徒達の姿である。死後、真宗の門徒は極楽往生ができ、キリシタンは天国に行けると信じた。本誌でも、両宗派の信徒達の殉教例を、数多く紹介してきた。

蓮如は、お文の中で、
このゆえに、南無阿弥陀仏の六文字の姿は、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり
と、念仏を唱えれば必ず極楽往生が出来ると説く。

キリストも、その説教の中で、
天に在す父のみむねは、わたしのもとに来た人を、ひとりあまさず、終りのときに復活させること、これである。死のかなたに新しき生命を、永遠の命を準備して、わたしのもとに来た人に与えること、それである と、キリストの言うことを信ずれば、死後の新しい永遠の命が保証されると説く。

二世紀にギリシャ語で書かれた地誌に、「紀元53年にキリストの十二使徒の一人・聖トマスが、インド半島の東側に位置するマドラスに来て、市内に七つの教会を建てた」と記されているといわれる。紀元53年は、キリストの刑死から二十二年後に当たる。この時代、既にローマ帝国と南インドとの間に海上交通路が拓けていたのであろう。 マドラス市は現在、インドの四大都市の一つに数えられている。市内のマイラブルには、聖トマスの墓所とサン・トメの聖堂があり、聖地として巡礼者が絶えないという。 初期大乗仏教の二大流派の一つ中観派を組織した竜樹(ナーガールジュナ)は紀元180年頃、南インドに産まれた。マドラスで栄えていたキリスト教が、竜樹の知識の一部になったであろうことは想像に難くない。 この頃産まれた多くの大乗仏教教義の中に、キリスト教に刺激された一神教があり、これが浄土経典に組み込まれて645年、玄奘三蔵により他の経典と共に唐に持ち帰られた、と考える。大胆な推論ではあるが、事実とすれば東西の思想の融合として顕著な例であろう。

唐王朝第十五代武宗は、道教派の策謀に乗せられ845年、仏教を排斥し僧侶を誅し仏教寺院を徹底的に破壊した。中国仏教の「三武一宗の法難」の一つである。わが国が承和五年(838)以来中断してきた遣唐使も、寛平六年(894)、菅原道真らの建議により以後、派遣中止となった。

インド仏教も十三世紀の初めにイスラム教徒の襲撃を受け、大きな被害を蒙った。この時を境にして、インドから仏教が姿を消す。今日、大乗仏教は日本とチベットに生き残るのみとなった。

十二使徒の一人、聖ヤコブは紀元62年、ユダヤ王ヘロデ・アギリッパー一世に首をはねられ死ぬ。スペイン北西部のサンテイアゴ・デ・コンポステラは中世の欧州でエルサレム、ローマと並ぶ三大巡礼地の一つだった。サンテイアゴは聖ヤコブのスペイン語名、コンポステラは星の原という意味である。星に導かれてヤコブの墓が見つかったと言うので評判になり、巡礼が続々集まった。島原 ・天草の乱では一揆勢が、この聖人の名サンテイアゴを叫んで勇敢に戦った。

朝廷の守護神として尊崇されたのを良いことに、都で暴虐の限りを尽くした比叡山延暦寺の山徒達も、信長に徹底的に討滅された。寄せ手は、秀吉とガラシャ夫人の父光秀であった。 ある書は、「秀吉軍は出来るだけ殺りくを避け、多くの僧侶を逃がした。今日残されている貴重な仏像・仏具・経典類は、秀吉が持ち出させたものと伝えられる。対して、明智軍の持ち場は醜惨な修羅場と化した」と記している。 別の書によると、「坂本城に移ると同時に、光秀は西教寺の復興に力を貸した。信長が比叡山を焼くときも、光秀は全山のために慎重な配慮をした。後日、光秀の死後天海僧正は光秀であるという説が出たのは、この光秀の配慮を覚えていた僧たちが、比叡山に光秀を隠したという流説もあったため、といわれている」と、全く相反する説を述べている。 天台宗の僧天海は、「4.殺りくの修羅場・六条河原」で紹介したように、家康が死去した時、吉田神道の継承者・梵舜と神号論争をした。また、上野の東叡山寛永寺の開祖でもある。

神仏習合が大勢を占める中にあって、京都市左京区吉田山に鎮座する吉田神社は、神道の総本山として幕末まで神社界をリードした。吉田兼倶(かねとも、1435~1511)は、天照大神以下八百万神が大元尊神(だいげんそんしん、国常立尊=天御中主神)に帰一するという教理を打ち立て、吉田神社の日本最上神祗斎場こそ神道の総本山であると誇示したのである。この神道理論を、通称「吉田神道」とか「唯一神道」と呼ぶ。

ともあれ、延暦寺と共に焼き討ちされたはずの天台真盛宗総本山の西教寺が、光秀をはじめ一族の菩提を今も弔っているのは事実である。