史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

大阪平野が、太古の昔から現在の姿に変化してきた経過を知ると、我が国の古代史を理解しやすくなる。王宮が今の大阪城付近に置かれたり、天皇陵が南部段丘地帯に散在しているのに訳がある。また、大阪城を巡る戦い、例えば石山合戦や大阪冬・夏の陣など、は今とは違った地形水系のもとで行われたことを知っておきたい。

ある文献(注参照)に次の説明がある:
大阪平野の背骨に当たるが南の段丘地帯から北に突き出た上町台地である。また、天満砂州は南の住吉大社付近から上町台地の西側を通ってほぼ真っすぐ北に伸び、先端部が緩やかに海の方へ曲がるとともに、三本に分岐していた。 天満砂州東方の広大な潟(難波潟・草香江)は東西方向に扁平な形をしていた。これは旧淀川と旧大和川の堆積作用によって、以前の内湾が南と北の両側から徐々に埋められたからである。 旧大和川は奈良盆地から信貴山の南側を流れ下って大阪平野に入ると、北に向きを変えて幾筋かに分流して難波潟あるいは草香江に流入していた。これを西に向け直接、大阪湾に排水する付替え工事が宝永元年(1704)に行われ、これによって大阪平野の東半分の干拓が進み、様変わりしたのである。
古代の頃、東方の生駒山麓に草香津、上町台地の付根に住吉津、上町台地の先端部に難波津があり、いずれも重要な港としての役割を果たしていた。
難波堀江が開鑿される前、すなわち弥生時代から古墳時代の前半頃には、瀬戸内海方面からやってきた船は天満砂州の北側を通って草香津に至っていた。
当時、天満砂州の先端の辺りには西北の千里山丘陵の末端から東南に向う吹田砂州が発達しており、それが狭い水路のようになっていた。そのため、干潮の際には草香津から難波之海に向う、かなり速い流れを生じた。この狭い水路・垂水の瀬戸はその後、川や波が運んできた泥や砂によって埋められ少しずつ浅くなり、北回りの航路が使えなくなった。 そこで五世紀ころ、天満砂州のほぼ中央部、上町台地を北に下りたところに東西方向に難波堀江を開削することになった。堀江が通じた結果、砂州東側の長柄から森の宮付近にあった船着場は、堀江と天満潟の接点付近(現在の地名では中央区高麗橋一丁目付近)と考えられている。
西からやってきた外国船の多くは、外港・江口にまず立ち寄ったのち、難波津に到着した。人々はここで上陸し、難波大道を南に進んで大津道や丹比(たじひ)道を大和に向うとか、小さい船に乗り換えて草香津に至り、あるいは旧淀川や旧大和川をさかのぼったと考えられる。
(注)日下雅義著「平野は語る」(大巧社)

仁徳天皇の御世に二つの大土木工事が行われた。日本書紀によると次の如くである:
仁徳十一年の冬十月に、宮の北の野を掘って、南の水(大和川)を引いて西の海に導いた。よって、その名を堀江という。また、北の河の水害を防ぐために、茨田(まむた)堤を築いた。

この堀江というのは、今の大阪城の北を流れる天満川の事である。昔は平野川が大和川の本流だったので、天満川を開削して、大和川の水勢が衰えないまま大阪湾に注ぐようにしたのである。これで高津宮が大阪城の辺りにあったことが分かる。 この工事を行った年代は、倭王讃(仁徳)が413年、421年、435年の三回にわたって宋に朝貢した記録から推して、五世紀前半と考えられる。
茨田堤は、枚方から東生郡野田村までの凡そ七里(約二十八キロメートル)にわたる、日本で最初に築かれた堤防である。古代、大阪平野東部(中河内)には河内湖があり、これを挟むように流れる淀川 ・大和川と共に、河内は度々水害に悩まされた。そこで仁徳天皇が、茨田堤の築造を命じたのである。この茨田堤の正確な位置は、現在の古川東岸とほぼ一致しており、古川は仁徳製運河であると考えられる。
この堤は、八世紀中だけでも、四回決壊している。茨田堤は、決壊のたびに、多くの民衆が動員され修復されているが、再び決壊するという歴史を繰り返したのである。
(注)茨田堤に関する記事は、大阪市立博物館編集・発行「歴史の中の淀川」を参考にしました。

この大規模工事が可能となったのは、大量の鉄が供給されるようになったからである。当時、山背女が使った農耕用の木鍬(「10.淀川流域に皇居を置いた継体天皇」参照)では、固い岩盤を打ち砕くことは不可能であった。
四世紀末から五世紀前半にかけて作られた河内・泉方面の古墳には、大量の鉄製武器を副葬するものが少なくない。どこからこの大量の鉄製兵器あるいは原料の鉄を手に入れたのだろうか。国内ことに中国山地の鉄の産出が増加したこともあるだろうが、その他に朝鮮半島南部に366~372年ごろ成立した任那(みまな)から供給されたということも考えられる。
第十五代応神天皇から始まる河内王朝は、この先進技術を持つ任那を、高句麗・百済・新羅の侵略から防衛するため、しばしば軍隊を半島に派遣した。 562年(欽明朝)、遂に任那は新羅に滅ぼされ、二世紀にわたる半島経営から手を引く。

高津宮は、上述のように、今の大阪城址の辺にあったと思われるが宮址は未定。大阪府立高津(こうず)高校(大阪市東区餌差町)の校庭に宮趾の碑石が建てられているが、確実な証拠がある訳ではない。
難波宮は、前後期二時期の宮跡が発掘調査の結果、大阪城の南側(中央区法円坂一帯)の地に残っていることが明らかになった。この難波宮は、大化改新に伴い645年、第三十七代斎明天皇が飛鳥板蓋宮から遷都され、十年間住まわれた。それ以来、八世紀末まで約百五十年間、日本の首都としてまた副都として、日本の古代史上に大きな役割を果たした。

天満砂州のような砂州はどうして出来たのだろうか。砂州は潮の干満差が二メートル前後以下で風波のかなり強い海岸に形成される。砕ける波の、背丈くらいの深さの所に砂の高まりができ、やがて水面上に顔を出して砂州となった。珊瑚礁もこれと同じ理屈で形成される。そしてもとの陸地と新しい砂洲との間に深い入り江ができた。また、この入り江に川水が流入すると、上流から運び出されて来る土砂によって徐々に浅く、そして狭くなっていく。この水域をラグーン(潟)と呼ぶ。

紀伊国和歌の浦の砂州は、付け根にあたる不老橋から南へ約三キロメートル細く延び、片男波と呼ばれる。片男波と陸地との間のラグーンに、紀の川から分流し和歌山市を貫流した和歌川が北から流れ込んでいる。ここは古来より風光絶佳で、万葉集に多くの和歌が詠まれている。
東側の名草山(二二八・六メートル)の中腹にある西国三十三霊場第二番札所紀三井寺から西を望むと、片男波が緑の帯になって横一線に見え、天橋立と好一対の風景である。そして、南海の黒潮の匂いが、そこはかとなく感じられる。

和歌の浦に玉津島神社(写真)が鎮座する。
社伝によれば、この神社は神代以前に創立され、天照大神の妹稚日女尊(わかひるめのみこと)を祭り、のちにこの大神を大変尊崇された神功皇后(おきながたらしひめのみこと)を合わせ祭った。第五十八代・光孝天皇(884~887)の御脳を平癒せしめられた衣通姫(そとおりひめ)も勅命によって合祀された。
小松天皇の勅願所として知られ、住吉神社と人丸神社と共に和歌三神として朝野の尊敬が殊に厚く、第百十一代・後西天皇(在位1654~63)以下八代の御製宸筆を奉納せられ、古来京都より春と秋に官人を差遣わして祭祀を行わせられた。 参拝する人が各々福録寿楽を願うと、それがかなわないことがないと言い伝えられる大神である。 古くから和歌の神として知られる衣通姫尊が御神体である事から、山部赤人や松尾芭蕉などが詠んだ和歌や俳句を刻んだ歌碑が建てられ、三十六歌仙の絵馬が飾られている。
また、小野小町が参拝の時に上掛けを掛けたと言う小野小町袖掛けの塀、第百十二代霊元天皇(在位1663~87)の眼の病が全快された時の天皇御寄進の燈篭など、いわれのあるものが数多くある。

     衣通姫御詠
         たちかへりまたも此の世に跡たれむ
         名もおもしろき和歌の浦波

     山部宿禰赤人作
         和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み
         葦辺をさして鶴鳴き渡る

片男波の由来がこの歌の「潟を無み」にちなんでいるという。