史書に見る史実の多くは無味乾燥ですが、史跡は正真正銘の歴史の語り部です。 散在する史跡を尋ねるうちに、その地域の歴史を広がりをもって実感できます。
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淀川の水

西美濃紀行で出会った、

  • キリシタン大名小西行長の足跡
  • 国歌の基になったさざれ石
  • 教如上人御清水潤いの水
などについて記述します。
1.小西行長
平成十三年五月、西美濃三十三観音巡拝(讃光会主催)に参加して、第十二番霊場観音寺(曹洞宗:揖斐郡春日村中山)を訪れた。大垣市から417号線を北上し、揖斐川を渡る手前で左折して粕川沿いに伊吹山に向け遡る。左折せずそのまま北上を続けると、西国第三十三番谷汲山華厳寺や、みいらの横蔵寺に行き着く。

谷の中腹をうねる狭い山道を深く分け入ると、小集落中山に出る。右手山腹に観音寺が見え、長い階段を登ると本堂の前に出る。中山で分岐した道を行くと関ヶ原に至る。

堂内に泰珠院殿東岸道西大居士と記した小西行長の位牌(写真)が安置されているのを見てあっと驚いた。それでは、と坊さんが本堂の左手で小さな谷を隔てた高台の一隅に建つ小西神社に案内してくれた。

小西神社
慶長五年(1600年)九月十六日関ヶ原合戦に敗れた西軍の将小西行長は当部落に逃れて来た為当時の寺の床下にかくまったが、林蔵と西之助と申す二人の住民が不破郡岩手城主竹中丹後守重門のもとへ知らせた。十九日重門の家臣伊藤源左衛門、山田杢之丞等十数名の捕手が来りて捕縛され十月一日京都六条河原に於て、石田三成、安国寺恵瓊と共に処刑された。 当部落の前面に連なる山の峰続きに道がありこれが当時関ヶ原方面に通じる唯一の街道であった。この道を捕手方に囲まれ乍ら中西部落を見下ろす所まで登った行長公が振り向いて、あの部落を三度黒土にさせずにおくものかと叫んだといわれる。ということは焙き払うとの意味で、果たしてそれ以来部落内に度々大火が起り殊に享保十八年(1733年)には文字通り焼土と化した。 この為この地に行長公遺品の小刀を埋めて墓地とし観音寺には泰珠院殿東岸道西大禅定門の位牌を祀って供養を続けたが、不破郡岩手村の御嶽教徒高木金十郎師の「神として祀るべし」との申し出に従い、大正十二年七月この墓地に社を建て行長公の霊を奉じて小西神社とし仏事法要を廃止す。 以前は回り六メートル余の大杉に囲まれ景勝を誇っていたが、昭和三十九年九月の二十号台風に依り立木もろ共倒壊した。昭和四十一年に再建す。

こうして、思いがけずキリシタン大名小西行長の足跡に接することになった。
翌月、第十六番霊場禅憧寺(曹洞宗:不破郡垂井町岩手)を訪れた。この寺は竹中半兵衛重治の菩提寺で、本堂左手の山腹を切り開いて墓地があり、その中央の小高い所に小屋に納められた重治の墓がある。その右脇に重治の子重門の墓が並んでいる。あいだの小さな五輪の塔は重治の妻女の墓と言う。 天正七年(1579)重治は播州三木平井山の陣所で病死した。秀吉は重治が陣中に病むと京都に帰し名医のもとに療養させた。余命を察した重治は「播磨にて死なんこそ、軍場に命をおとすに同じかるべし」と考え、再び三木に下向して死んだ(重門著「豊鑑」)。兵庫県三田市のなだらかな丘陵の一角に重治の墓がある。禅憧寺にはその分骨を祀っているのであろう。
ここでも小西行長之墓(写真)に出会った。背面に(明治)十八年四月石河萬吉建之と彫られている。お庫裏さんにその由緒を尋ねたところ、重門の重臣で行長を捕えに行った人の後裔が建てたもので、その人の子八人が育たなかったので行長のたたりではないかと思い、墓を建て供養したところ九人目の子が順調に育ったと言う。

これほど行長のたたりを恐れるのは、彼がキリシタンだからである。天草の乱(1637~38年)では天草四郎がキリシタンバテレンの法で島人を操ったという言い伝えがあるように、キリシタンは得体の知れない術を使うと考えられて来た。 幕末のイギリス外交官アーネスト・サトウも著書の中で次のように述べている:
キリスト教に対する敵意が今なお激しく、一般にこれを魔法か妖術の類と思っているという理由で、日本側は禁制を擁護した。これが事実であることは、私も知っていた。かって私は、ある日本人からキリシタンの教義を聞かせてくれるよう頼まれたが、この男はキリシタンに帰依すれば自分の留守中に女房がなにをしているか分かるようになるものと信じていたのだ。

平成十一年夏、天草巡礼のため熊本空港に降り立った。先ず、行長が領した宇土(うと)を訪ねようと熊本市内のバスセンターから宇土方面行きに乗り、国道3号線を南に向かう。右手遠くに鹿児島本線宇土駅が見えるあたりで下車し、夏の昼下がりの炎天下を徒歩で駅目指して歩き、踏切を迂回して宇土駅に辿り着く。タクシーを拾い、市役所に寄りロードマップなど観光資料を手当たり次第に貰い受け、車中で大急ぎで読みながら観光に出かけた。といっても宇土城址に建つ小西行長公の銅像(写真)と、現存する日本最古の上水道・轟泉水道を訪れただけで、早々に宇土を後にし有明海に面した御輿来(みこしき)海岸まで送ってもらった。

観光案内に次の記事がある:
小西行長は大阪・堺の豪商"小西隆佐の次男"として永禄元年(1558)に生まれました。通称を彌九郎と言い、彼が二十一歳の頃、豊臣(当時羽柴)秀吉に認められ家臣として取り立てられ参千石を領し、そのころからキリスト教徒になったといいます。その後、中国征伐を見事に成し遂げ、天正十五年(1587)水軍を率いて九州に上陸し、翌十六年佐々成政改易の後、肥後国のうちで益城・宇土・八代・天草の計二十四万石の領主になりました(時に小西行長三十歳)。彼はまず当時の領主"名和氏"の居城である宇土城(西岡台)を攻め落とし、天草五人衆の一揆を平定し、新しい宇土城(城山)の建設に着手しました。それから城下町の設営を行い、今日の宇土街並みの基盤を造ったのも小西行長でした。 彼は肥後半国の領主加藤清正とはことごとく張り合い、清正らの武断派に対して石田三成を盟主とする"文治派"に属し、清正の法華信仰に対しては熱烈なキリシタンとして、領内に教会を建て領民にキリスト教を奨励しました。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに石田三成らの西軍に味方して敗れ、同十月一日、京都の三条河原でその一生を閉じたのでした。宇土の領主たること十三年、時に四十二歳でありました。(宇土市観光協会「宇土物語」より)

行長等が処刑された場所を三条河原としているが、六条河原とする文献の方が多い。もう一人のキリシタン大名高山右近は1587年、秀吉により大名の座を追われ加賀の前田家に寄寓していたが1614年、江戸幕府の命でマニラへ追放されそこで生涯を閉じた。

2.さざれ石

先にも述べたように小西行長は関ヶ原から伊吹山の東麓を北上し、落ち延びた先が春日村であった。その山深い道の途中に海戸神社があり、ここで分岐する道を1.2キロ上流に辿ると「さざれ石公園」に行き着く。

さざれ石(天然記念物) この石は学名、石灰質角礫岩と言い、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝縮、だんだん巨巌となり河川の浸食により地表に露出、苔むしたものである。 この石にまつわる郷土の伝承として、平安時代文徳天皇(在位850~858年)の皇子惟喬親王(木地師の祖神)に仕えた藤原朝臣石位左衛門(歌人)が、江州君ヶ畑から木地椀の良材を求めて春日村に移り住み、江州の君ヶ畑へ通う途中、自然に凝固、苔むして巨巌になっている珍しい石の状態を見て、ありのまま
わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
と詠ったのがこの石であり千代に栄えることを願っためでたい石であるという。
献 上
  昭和三十七年十一月二十六日
皇居  約三屯一個
明治神宮  〃
文部省     約一屯
池田勇人元首相  〃
吉田 茂元首相  〃
  昭和三十八年四月九日
伊勢神宮 内宮 約三屯一個
     外宮   〃
供膳所床飾用 一個
  昭和五十二年十月二十七日
天皇・皇后両陛下 二個
皇太子・皇太子妃両殿下 二個
  昭和五十九年四月五日
中曽根康弘首相 一個
春日村


霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町田口)本殿脇にさざれ石二体が置かれ、次の説明がある:
国歌に詠まれている「さざれ石」 この石は学名を石灰質角礫岩という。石灰石が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。やがてそれが地上に現れて国歌に詠まれる如く千代八千代 年をへてさざれ石 巌となりて苔のむすという歌は実に目出度い限りである。 この石は国歌発祥の地といわれる岐阜県揖斐郡春日村の山中で発見されたものでその集結の過程状態はこの石を一見してよく察することが出来る。 右の文章は昭和57年文部省の中庭に贈呈された「さざれ石」の木札に記されているものと同文であり、国歌に詠まれている「さざれ石」については岐阜県揖斐川町の綾小路宗一氏によって発見解明されました。
昭和六十二年 天皇誕生日
奉納者
(岐阜県揖斐川町、岐阜市鷺山、鹿児島市芝原在住各一名)


以上のほか、さざれ石が安置されている社等は次のとおり:
 明治記念館(東京都:春日村より奉納)
 道明寺天満宮(大阪府藤井寺市道明寺:河内長野市滝畑より奉納)
 水屋神社(三重県飯南郡飯高町:春日村より奉納)
 多度大社(三重県:春日村より奉納)
 椿大社(三重県:春日村より奉納)
 下鴨神社(京都市上京区)
 日蓮宗本山妙成寺(富山県口能登)
 もみじ谷(岐阜県美濃市小矢田)
 籠神社(京都府宮津市字大垣)
 半田高校(愛知県半田市)
3.潤いの水
春日村を訪れた際、岩間から湧き出る泉に立ち寄った。真宗第十一世教如上人がこの清水で喉を潤したとは初耳である。 教如上人は第十世証如上人の長男、石山合戦(1570~80)で信長に徹底抗戦した。第八世蓮如上人は名高い真宗中興の祖である。
教如上人御清水潤いの水
時は戦国1600(慶長五)年8月下旬教如上人(43歳、後の東本願寺初代法主)は帰洛の途中、美濃の国まで来られた時、関ヶ原合戦で陣地を構える石田三成の追手にあい宮地村(池田町)市場村(揖斐川町)を経てこの地に来られました。 これより先は道も狭く馬では行けないので馬からおり、わらじを脱ぎ路傍の石に右足を下された時、その石に足の跡がはっきりと残り現在、下ヶ流偏光寺に御足跡石と言い伝えられ保存。この地の御清水で心を潤され春日の各寺院を廻り美束の鉈ヶ岩屋におかくれになり難を逃れられました。
また、古ヶ池に住む大蛇に飼犬を呑まれて怒った白樫の岩本兵衛という猟師が大蛇を撃ったところ大蛇は樫原谷を逃げまわり、頭は滝谷で尾はこの地に垂れ下がっていたので「尾垂れ」という古い言い伝えもあります。 教如上人御休みの場で一服し潤いの御清水をいただくと身も心も潤い、上人の御加護を受けられるでしょう。


西圓寺(真宗:大垣市草道島町)は811年伝教大師が創建した天台宗の寺院であったが、永仁年間(1293~1299)に本願寺三世覚如上人が関東から帰る途中西圓寺に立ち寄られ、当時の住職がその高説を聞きその後真宗に改宗する。徳川家康と石田三成が勢力をわけ、にらみ合っていた頃、徳川方に加担していた真宗大谷派の開祖・教如上人は、三成方の追っ手を逃れ西圓寺に身を隠した。時の住職賢秀は教如上人と瓜二つだったことから身代わりとなり、上人の僧衣をまとい、中山道を西に向かい現在の野上(関ヶ原付近)あたりで命を落としている。教如上人は春日谷より救出にきた信徒たちに護られ、ボロをまとい池田山の間道へと向かった。そうして教如上人は池田山を抜けて無事に京都に帰り着き、後に関ヶ原合戦で勝利を収めた家康の尽力で東本願寺を建立する。

第二十五番霊場「養老寺」(真宗:養老郡養老町)は孝子伝説で有名な古刹で、関ヶ原合戦の頃教如上人の揖斐郡春日谷での教化中、当寺の住職が帰依し同派に転向して阿弥陀如来を本尊とした。養老の名水の傍に掲げられた解説の一部を以下に紹介する:
養老の名水
養老神社の境内の湧水を菊水霊泉と言いますが、菊水とは病に効く水と考えてもよろしいが、この神社は山や水が精霊で古くは菊理(くくり)姫を祀る明神様です。元正女帝がみそぎを行い律令国家建設祈願のまつりごとの神水はくくりの水でありました。 詔の中に、中国後漢の時代に同じような瑞象があったと述べられていますが、中国五大連池の万病を癒す奇跡の水ではなかったか。元正天皇の行幸よりずっと以前からこの美濃の国ではラドンやゲルマニウムを含む万病に効く水として知られていたものと思われる。養老山地の水はカルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウムを含むミネラルウオーターであります。石灰岩層を潜って湧き出てくる水は炭酸水なのです。
養老の滝・菊水泉「日本百名泉」選定記念

菊理媛という名の神は古事記には現れず、日本書紀の一書(いちふみ)のなかに一個所だけ登場する。両大神が仲違いして、黄泉平坂で磐石を間にして向い合った時、 是の時に菊理媛神亦(また)白(まお)す事有り。伊奘諾尊聞しめして、善(ほ)めたまいて、乃ち散去(あらけ)ましぬ。
とある。ここで、菊理媛が何事を申されたかは記されていない。

4.水論議
水は地球上でもっともありふれた物質であるが、液体としてはかなり変わった性質を持っている。それを以下に列挙すると、
  • 沸点、融点が高い
  • 蒸発熱、凝固熱が大きい
  • 熱容量が大きい
  • 4℃で最大密度になる
  • 4℃で熱膨張係数が符号を変える
  • 等温圧縮率が46℃で極小になる
  • 粘性率の圧力依存性が30℃で負になる
  • 表面張力が大きい
  • 誘電率が大きい
  • これらの性質は、液体状態で水分子同士が複雑な相互作用をしていることを示している。水分子は水素結合で互いに3次元的につながっている。水素結合には異方性がある。つながった状態で水分子の向きやすい方向とそうでない方向があって、熱揺らぎによってできたり壊れたりしている。 (注)お茶の水大学大学院・富永研究室非公開案内:
    http://wwwacty.phys.sci.osaka-u.ac.jp/~atom11/index2.html
    水素結合をもう少し詳しく説明すると:
    水分子の中央に位置する酸素原子の電子の雲のうち2個の水素原子と結合していない電子が他の水分子の水素に近づいて行きあたかも結合しているかのごとくその分子の運動を止めるような働きをする。正常の結合よりかなり弱いが分子が凝集するには十分な力を持つ。こうして水分子が次々くっついて次第に集団になって行く。 このように水素結合した水分子の構造を見ると、あたかも3個の水素が一つの酸素と結合したかのごとくつながり、その3個の水素はそれぞれ120度の角度に広がって位置するようになる。 水分子の結晶体である雪が樹枝状六方晶であることがこの理論を裏付けている。液状の水分子が水素結合した状態は目に見えず、NMR分光法等で間接的に推論されるに過ぎない。
    NMR: Nuclear Magnetic Resonance(核磁気共鳴)

    クラスター水のもっともらしい概念とは:
    1.水はイオン物質を含んだ導体であり水の流れに磁気を与えると、磁界を横切って動く導電体に起電力が発生するというファラデイの法則により磁気モーメントが発生する。磁気モーメントにより電子の回転が盛んになった水分子は分子間のエネルギー運動が活発になり、分子と分子の衝突が激しくなる。これにより大きなクラスターが小さなクラスターに生まれ変わり水が活性化する。 2.通常、水分子は12~13個の分子が水素結合しあって大きな見かけ上の分子、すなわちクラスターとして活動している。これを磁気処理すると2~3個の小さなクラスターとなり、いろいろと今までに考えられない効果をあらわす。 3.地中に長期間滞留した後、山肌から流れ出てくる清水は多量のミネラル分を含むほか地磁気の作用を受けて活性化している。水を構成している分子(クラスター)が小さいと体内細胞への浸透がスムーズになり天然水の養分の吸収を良くし、老廃物の排出を促進し細胞を元気にする。

    NMRの原理を応用するなどして水を磁気処理し小さなクラスターを造るのに成功したという宣伝を、冨永研は学問的立場から次のように批判する:
    NMRをどうやって起こさせるかだが、まず強い磁石を使って試料に一定の磁場をかける。そうすると、核スピンのエネルギー順位が分裂する。そのままだと、低い核スピンのエネルギー状態に多数の原子核が存在し、高いエネルギー状態には少数の原子核が存在する。分裂したエネルギーの差に相当するマイクロ波を試料に照射すると、核スピンはエネルギーを吸収して高いエネルギー状態になり、低い状態の核の数と高い状態の核の数が最初と違ってくる。ここまでが磁気共鳴である。 共鳴を起こさせるには、エネルギー準位の差にちょうどあったエネルギーのマイクロ波を照射する必要がある。周波数が高すぎても低すぎても共鳴は起きない。次にマイクロ波を切ると、核スピンは全体としてマイクロ波をかける前の状態に戻っていく。戻る過程でマイクロ波を出しながら戻るので、出てくるマイクロ波を測定すると、核の周りの状態がわかる。これが磁気共鳴の測定である。 医療用の磁気共鳴画像も同じ原理を利用している。磁気共鳴が起きるには、適切な磁場とマイクロ波の両方が必要である。 マイクロ波のエネルギーは水分子間の水素結合のエネルギーよりも何桁も低いので、マイクロ波の照射によって水分子間の水素結合を切断することは不可能である。従ってクラスターの細分化が起きるはずはない。 エネルギー準位の差:E=hν(h:Plankの定数、ν:振動数)

    浙江省杭州市西湖畔・玉泉から湧き出る清水の地下滞留期間は八年間と言う。その清水を器に盛ると、表面の盛り上がりは尋常ではなく貨幣も簡単に浮くので、見る人は驚く(写真)。清水が活性化しているから表面張力が大きい、と言う説明に説得力がある。 IAPWS発表の通常水の表面張力は水温度20℃で1.00とすると、5℃では1.03と僅か3%増加するに過ぎない。即ち、清水が低温だから表面張力が大きいとは言えない。表面張力が水質により変わるなら、水質別のデータがあるはずだ、がそれはない。 アルミ貨幣が浮くのは、自重で水面が押し下げられ排除した水量相当の浮力が働くためで、表面張力は自重と浮力の差分を補っているに過ぎない。 どんな水を使っても見られるごく普通の自然現象を手品の如く見せられ、驚いただけと言うことらしい。
    IAPWS: International Association for the Properties of Water and Steam